梅雨入り前の6月中旬、川越八幡宮の前を通り掛ると、茅の輪くぐりの看板が見えた。入ってみると、石鳥居にはまだ茅の輪はなかった。手水舎の後ろのおみくじの脇には、色々なアジサイが咲いていた。ここだけでも、次のように色も形も違う。石段と狛犬を挟んだ反対側にも、別の種類がある。駐車場隣の家の裏には、濃い紫のアジサイがある。赤い柵のある参道にもアジサイが並ぶ。参道の北側にはずっとアジサイが続くが、反対側のアジサイはかなり数が減っていた。参道のなかほどに、わずかに残っている。参道入り口の石鳥居の脇にもガクアジサイがあったと思うが、それもすっかりなくなっていた。以前は左右のアジサイを、代わるがわる見ることが出来たのだが、あのアジサイはどうなったのか。色々のアジサイ咲きて梅雨気分(川越八幡宮)
2024(令和6)年の6月末日です。毎年6月となると、盛夏をこれから迎える季節なので、1年まだまだこれからっ的な気分ではあるものの、ふと冷静になると•••••…
Contents1 今日の更新より2 今日のとど鉄 今日の更新より 【参考】輪島、王座を防衛(S48.4.27中日ニュース) 【参考】日本の歩み(S48.3.16中日ニュース) 今日のとど鉄 明日は月曜日。夜行列車で帰り […]
寺町のお寺にお墓参りです。 今日は、義父の命日です。 ちょうど休みの日と重なりました。 車で国道183号線を南下しまして(私は助手席で呑気です。最近は通勤の時とどうしてもの時以外は運転してないです) 横川から商店街の石州街道は、紫色です。 サンフレッチェのカラー紫色の幟がたっていました。 サッカーのまちなかスタジアム「エディオンピースウィング広島」には、横川駅から近いです。 まちなかスタジアムは、ズバリその通り街のど真ん中にありますので、それこそ四方八方からどこからでも行けます。 本川を挟んで寺町からどーんと見えます。 江戸時代、広島城の防衛も兼ねました寺町、 江戸時代の人、見たらびっくりです…
広島市文化財団はアステールプラザという大きなホールを持っていますが 貸し部屋もあっていろいろな団体がお稽古を行っています 私も最近ある講座に通い始めているので…
昭和十五年四月六日 西多摩 温泉 雲仙 53歳 何時もご覧頂きありがとうございます 西から前線が延びて、九州は継続的に雨。四国は雲が多く、所々で雨。 近畿から北海道は日中おおむね晴れる予報。
今年は快進撃 ──マジで優勝するんかも!そんな声があちこちから聞こえたプロバスケットボールのリーグ戦。広島ってバスケットのイメージがあまりなったのですが、そん…
昭和11年発行【小松町誌】29【伝説】(二)伝説【般若姫遭難】欽明天皇の二十一、庚辰三月中旬、豊前国の満能長者、眞名原小五郎の姫たりし般若姫が契り浅からぬ、豊日ノ宮の許に赴くべく都をさして船出の途中、大島瀬戸に於いて遭難されたと言われている。この姫の遺骸を葬ったのが熊毛郡平生町の般若寺である。【源三注】この話は色々と訛化して関連の各地に残ります。般若姫の出身地の大分では毎年「般若姫祭」をしていますし、平生の般若寺は参詣の人が絶えません。勅使をもって祀ったとされる、大畠の鳴門神社は今は忘れさられていて地元の人に聞いても分かりません。小松瀬戸の大多麻流神社境内には般若姫の供養塔があります。【虚空太鼓】昔軽業師一行が船によって大島瀬戸を通過せんとして海難の為全滅した。彼らは落命するまで笛太鼓を叩いて救いを求めた...昭和11年発行【小松町誌】29
毛呂山町に残る鎌倉街道上道を歩く(鎌倉街道B遺跡)。掘割の遺構が残り、里山が周囲の風景を隠してくれるから、鎌倉時代へ想いを馳せやすい。里山の中、ポコポコと盛り上がる土山は川角古墳群。苦林宿の可能性が高い“堂山下遺跡”は、現在大類グランドとなっているが、室町時代の集落跡の記憶が眠っている。石で組まれた井戸跡などが検出され、職人がいたことを示唆する遺物も出土したという。蔵骨器や板碑が出土した崇徳寺跡や、高さ約3mの延慶3年(1310)の銘を持つ板碑。越辺川に面した交通の要衝地として栄えた往古の賑わいを感じさせてくれる。この毛呂山町の鎌倉街道上道は、令和4年度に国の史跡に指定された。多くの関係者が尽力したのだろう。毛呂山町歴史民俗資料館も街道に近接して建っているから、親子で訪ねる人も少なくないに違いない。平日休...毛呂山町の“鎌倉街道上道”を歩くは鎌ぶらか?
日本レコード大賞歌唱賞「絶唱」の歌詞は、詩人西條八十さんでないとありえない、という程に小説を短い言葉であらわしている。〽愛おしい山鳩は山こえてどこの空名さえはかない淡雪の娘よなぜ死んだああ小雪・・・旅の場所・鳥取県西伯郡伯耆町・桝水高原旅の日・2020年10月27日書名・絶唱著者・大江賢次発行・河出書房新社2204年発行・・・順吉はシベリアに拘留されていた。順吉はラーゲリで2年間を過ごしていた。第三章葬婚歌終戦の翌々年になっても、待ちに待った園田順吉は復員して来なかった。小雪がついに寝ついたのはその夏だった。その秋、園田惣兵衛が脳出血で、突然亡くなった。主人の急死にあって、山番の老夫婦ははじめて小雪を見舞った。それまで律義でもの堅い山番は主家をおもんばかって動じなかった。いま、その封建の扉がやっとひらかれ...「絶唱」葬婚歌(鳥取県桝水高原)
Contents1 今日の更新より2 今日のとど鉄 今日の更新より 東磐井郡興田村で電灯引く引く詐欺(S8.2.1岩手日報) 一関小学校の児童宅で最も多い楽器は三味線とハーモニカ(S8.2.1岩手日報) 今日のとど鉄 ボ […]
フラフラするので病院行ったら、 「気象病」って言われたよって、 LINEがきました。 えっ? 気象病? 何?その言葉知らないけどなんとなく想像できますね。 何も今年から言われている言葉ではないらしいです。 天気の影響を受けて調子を崩したりして、偏頭痛とかの症状のことを言うみたいですね。 あれ! 気圧のせいで調子悪いって、私よくいいます。 これって、気象病だったんですね。 でも私、今のところどうしたものかまだ気象病になってないです。 梅雨、気象病にならないように過ごそうと思っています。
先日、鞆の浦へ行きましたが鞆の浦は沼隈半島の東南にあって広島方面から行くと県道47号線を海沿いに進むのですが 鞆の浦に入るととたんに道幅が狭くなりしかも道路は…
阿賀野市クマ出没情報マップ検索方法2024.6.25阿賀野市に過去、熊が出没しています。阿賀野市の「安全安心メール」でクマが出没したことは判るのですが、出没場所が判らない。何故?それは阿賀野市は4町村が合併した為、他の集落の位置がわからない。で、阿賀野市はクマ出没位置図を作製されました。これなら、熊が出没した場所がわかり、注意できます。検索方法は①最初に阿賀野市役所を検索し(上の阿賀野市のホームページ最初の画面が表示)、②次に表示された画面を下方向にスクロールすると、(下)の画面が表示されます。この画面にある「情報を検索する」・・・「キーワードから探す」の下側に③「ツキノワグマの出没地図」という文字を入力。「赤い矢印部分です」(下)上記で検索すると、下記「令和6年度クマ出没情報マップ」という文字が表示。(...阿賀野市「ツキノワグマ出没位置図」検索方法
熊襲、熊鷲、土蜘蛛。これらは、九州にあった大和朝廷とは別個の勢力のことです。熊襲と羽白熊鷲は、おのおの独立した特定の勢力を指すようですが、土蜘蛛は九州に色々いる土着勢力の総称の事のようです。昔は東国と呼ばれていた、関東以北の勢力を蝦夷と呼んでいたのと同じですね。 神功皇后はほぼ関係ないのですが、先ず、熊襲について書いて行こうと思います。 おそらくは大和朝廷がまだ完全に九州を掌握出来ていない頃、景行天皇は即位12年に熊襲征伐のため、九州巡行を行います。景行天皇は第12代天皇なので、神功皇后の御主人である仲哀天皇の2代前の天皇です。 8月に出立し、途中、周防の国や豊後の国で賊や土蜘蛛を倒しながら1…
「絶唱」の主人公・園田順吉は、身分違いの少女・小雪を愛した物語というよりは、身分制度そのものに反対し、自己の考えどおり下層身分の子を愛した。言行一致の愛の物語。単純な純愛ではない。自己の生活や人生を懸けての愛。二人の純愛は駆け落ちで成就するが、日中戦争の勃発によって引き裂かれた。日中戦争から太平洋戦争がはじまった。順吉はなぜか、除隊もなく例外的に、長期の現役兵がつづいた。戦争が終わると、シベリアへ拘留された。これほど万が悪い人もいない。(生きて帰れただけいいが)だが、小雪は長期間の”銃後”の生活に耐えきれなかった。無理に無理を重ね、やせ細り、結核(不治の病)になって死んだ。・・・旅の場所・鳥取県八頭郡智頭町旅の日・2007年4月14日書名・絶唱著者・大江賢次発行・河出書房新社2004年発行・・・「山園田」...「絶唱」山鳩(鳥取県智頭)
例年ならば梅雨に入っているはずのころ、ナンテンの花がほぼ満開になっていた。小さな花は、次々咲いて、散って行く。掃いても掃いても、あっという間に散り敷いてしまう。散った花は、下まで落ちずに途中で止まるものも多い。下にクモの巣があり、そこにひっかかる。ナンテンのすぐ下にジューンスノウ(白丁花)があり、そこにクモが巣を張っている。その上に落ちたナンテンの花は、そこでもしばらく開いている。ナンテンの枝葉にも巣があり、そこにも花が落ちる。普段気づかないクモの巣だが、この時期はその姿が浮かび上がる。しかし、クモにとっては迷惑だろう。今はナンテンの花は散ってしまったが、クモの巣にはまだ残っている。今日は梅雨にもかかわらず久しぶりの雨で、変色した花も雨に濡れている。南天の花は散りてもなお咲けり
7時34分発の糸崎行きD-26編成はD-30編成と併結で、6両組成で発車して行くのを見届けた後•••••••。しばらく新型やくもなど写真に撮ってから、次の糸崎…
近年、再開発が進みつつある岡山市街地の中心部ですが、その地下を50㎝ほど掘り起こすと焼けた瓦や溶けたガラスが混じる赤い焼土層に行き当たります。NHKの朝ドラ…
PV『ヤバイ』を知らないと、ヤバイのだ!今や「ヤバイ」という言葉は日本人にとって日常的な慣用語になっていて、あらゆる場面で出っくわします。例えばテレビを観ていると芸人は疎(おろ)か、一般人までもがまるで口に付いて離れないかのように何かにつけて「ヤバイ」を蓮発します。《番組でテロップ(字幕)にしてまで表示される》昔気質の私にとっては余りにも単純に多用されているのを見ていながら、今更ながら自分の頭の固さと時代のズレを痛感させられる瞬間になるのです。それでも私には私なりの言い分はあります。つまり「ヤバイ」をよく言えば、言葉の表現を簡素化する手段として使われているのだと思われるのですが、悪く云えば語彙(ボキャブラリー)が欠如している人たちの話し方だと思えて仕方ありません。《「ヤバイ」を連呼しているが、そこに深い意...ヤバイという言葉とは?
梅雨の真っ最中ですがベランダに干した洗濯物はなんとなく乾いてて 日々使うものは大助かりです 写真は先日の晴れた日に見た風景田んぼに山並みが映っています 恵みの…
絵「新潟真景」嘉永2年(1849年)画・翠柳斎浦賀に米使・ペリーが来る(黒船騒動)4年前(下)上の画の拡大図新潟市中央区の街中。画面中央上部は、白山神社絵「新潟真景1849」
瀬戸内海地方の代表産業だった製塩は、昭和30年代初めに突然のように消えた。山陽本線の広島県松永駅~岡山県岡山駅の線路沿い見わたす限りにひろがっていた藺草は、昭和50年頃に消滅した。北海道から九州まで盛んだった石炭産業は貿易の自由化によって、昭和30年代に大半が閉山となった。今ではボタ山を目で見ることができなくなった。・・・福岡県の筑豊炭田はもっとも有名な炭坑だった。伊吹信介は炭鉱の町田川で生まれた。祖父は、石炭を運ぶ遠賀川の川船船頭だった。父は、「さがり蜘蛛」の入れ墨者だったが、落盤事故の鉱夫を救助するため自ら犠牲になった。信介は、未亡人であり、継母であるタエの一人息子として成長していった。・・・旅の場所・福岡県田川市旅の日・2017年2月14日書名・「青春の門」筑豊扁著者・五木寛之発行・講談社文庫197...「青春の門」筑豊扁(福岡県田川市)
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