喜多院の慈眼堂は古墳の上に建てられている。その慈眼堂の下、堂に背を向けて2つの大きな石碑があり、向って左の小さい方が「高林謙三翁頌徳碑」である。高林謙三については、説明板のある墓地を紹介した。→高林謙三墓その説明板の文章は短いが、この石碑には小さな字でかなり長い文章が刻まれている。石碑の上部には「頌徳碑」と大きな文字で書かれている。その隣の字は読みにくいが、「蘇峰菅原正敬□齢八十八」と読める。最初「蘇峰」の字は読めなかったが、下の本文を見て「蘇峰」だと判断した。石碑には、つぎのように書かれている。高林謙三翁頌徳碑八十八翁蘇峰菅原正敬題額易に曰く、機を知るは夫れ神かと、ニュートンは苹果の落つるを見て地球の引力を察知し、ワットは鉄瓶の噴くを見て蒸汽機缶を発明せり。是れ偶然に由ると雖も、機智妙算神明に通じ、而か...古墳下背に陽を受けて頌徳碑(喜多院・高林謙三翁頌徳碑)
改札は三者三様変われども当時の思い出そのまま残る(川越駅・本川越駅)
以前本川越駅の改札口前を通ったとき、かなりキラキラしている感じがした。その時はそのまま通り過ぎたが、近くに用事があったので寄ってみた。改札口は、ここを入って左手にある。ちょうど電車が到着したところで、多くの人たちが中から出てきた。その改札機の一番上が、明るく光っている。4本が一列に並んで、ゆるくアーチを描いている。その色は改札機によって違っている。券売機のほうを見ても、両側の仕切の端が光っている。高校までは市内の学校だったので、大学に入って初めて電車通学をした。新宿線から途中で乗り換え、国分寺で中央線に乗り換えていた。2011年の東日本大震災の翌々日は、JRも東武も止まっていたが、西武線だけは動いていた。久しぶりに西武線に乗って新宿まで出たが、つり革につかまりながら、通り過ぎる風景を懐かしく眺めていた。J...改札は三者三様変われども当時の思い出そのまま残る(川越駅・本川越駅)
これも先日来の「国立国会図書館デジタルコレクション」(以下「デジタルコレクション」)のリニューアルによって実現したことの一環ではあるのですが、当初アップする予定だった「その3」がまだ仕上がっていないため、こちらの短い記事を先に出します。かなり前の記事で、現在の多摩川台公園内に位置する古墳群を、将軍就任前の徳川家定がそれとは知らずに訪れていたことを動画にして公開しました。その際に典拠とした史料につい...
28日の土曜日、琵琶橋から信号のある五差路に出て小さな坂を上る。少し歩くと、ずっと先まで車が並んでいて、その最後尾に白い車がつこうとしていた。この道は喜多院の山門に向う道だが、この時期の長い車列に驚いた。乗用車の列の中に大型のトラックが並んでいた。おそらく、新琵琶橋が工事中なので迂回してきて、この渋滞にはまったのだろう。その先の丁字路から先は左の道幅が拡がり、喜多院に用のない車はその脇を通れるが、それまではじっと待つしかない。山門の前には警備員が数名いて車を誘導している。反対方向から来て駐車場に入ろうとする車には、迂回するようにアナウンスしている。山門には、黄色い看板がよく目立つ。すでに先週にはここにあったが、大きく節分と赤字で書かれている。その下に追儺豆撒式一時とある。もちろん午後一時のことだろう。境内...節分の豆まき舞台組み立て中/山門向う車列は長し(喜多院)
彼女に恋愛感情を持ったことは一度もない。年上の彼氏がいて、雨の日、映画館近くの薬局へ一緒に行ったときも何とも思わなかった。「私のこと軽蔑する?」と言った彼女に、「軽蔑なんかしないよ」と答えたのは僕の本音だった。それなのに、僕が恋愛感情を抱いていると思ったらしい。隠れてバイクに乗るクラスメイトから、内緒話のようにそう聞かされた。彼女と僕は友だちだった。まばたきするほどの一瞬間だけ、接点を持った同級生だった。放課後の書店で偶然顔を合わせ、そのまま利根川の土手を駆け上ったのをきっかけに一緒に遊ぶようになったのだけど、僕はその頃消えない悲しみに髪が白くなりかけ、彼女は誰にも言えない不安を抱えていた。放課後に会ったのはほんの気まぐれでも、彼女と過ごす時間は優しかった。必要とされたくて、会う約束を交わした。でも、薬局...解けぬ誤解のまま、また春が来て
広島護国神社、節分祭です。 午後3時半から拝殿の中で祭典が執り行われている最中、 私は、外で福豆の行列に並びました。 割と列の前に陣取っていましたので、 「弓神事」見ること出来ました。 鬼の眉間に矢が命中です。 厄払いできました。 ありがとうございます。 そして、配られた福豆、 ビニール袋に3袋入っています。 その中の一つに福引きが入っていて、 カープ色紙が当たりました。 カープのピッチャーで45番松本竜也です。 昨年入団した新人だそうです。 明日は立春です。 何だか明るい兆しが、、、
子どもの頃、父が枡を手にして炒った大豆を投げていた。「鬼は外」の豆は、庭(カド)に投げる。「福は内」の豆は、畳の間に投げる。畳の豆は拾って食べていたが、カドに投げた豆はそのままだった。縁起物なので楽しく食べていた。”恵方巻き”という言葉は、十数年前に初めて知った。↓「鴨方町史」「岡山県史」にも、一文字もないので、平成時代になって始まったものだろう。神社・寺院の行事ではなかったが、いつのまにか寺社になったことも不思議だ。・・・「岡山県史民俗Ⅱ」岡山県昭和58年発行節分立春の前日を節分と呼ぶのが通例である。正月と同じように、立春を年の初めと考えるところから、大晦日と節分には混交した感覚が多い。笠岡市真鍋島では大晦日にも節分にも豆を撒く。寄島町では節分に豆を撒いてから麦藁舟を海に流すという。この日は婚礼が多い。...節分
(芸備線・備後落合駅)JR西日本は赤字路線の切り捨て方針を邁進している。他にも、去年の12月ごろ、笠岡駅が無人化された。便数が減って、昼は1時間1本という時間帯がある。車両も通勤通学の時間を除き3車両編成が多い。不便になった。(芸備線・備後落合駅)JRは在来線は切り捨てるが、新幹線は新設している。長崎や北陸や函館・札幌など。利権がからめば国も政治家も本気になる。地方は国家から見捨てられているように、思う時がある。芸備線・小奴可駅ふきん↑↓芸備線撮影日・2021.4.26芸備線の存廃問題
【清和源氏】編『足利一族』章「渋川氏」節 03.渋川義鏡
#140 『信長公記』を読むその12 巻6 後半:元亀4・天正元(1573)年
#139 『信長公記』を読むその11 巻6 前半:元亀4・天正元(1573)年
山陰の小京都『津和野』、歴史を歩いてみよう
【清和源氏】編『足利一族』章「渋川氏」節 02.渋川満頼
#138 『信長公記』を読むその10 巻5:元亀3(1572)年
#137 『信長公記』を読むその9 巻4:永禄14(1571)年
#136 まとめ『近世日本国民史 豊臣秀吉時代』~大河『どうする家康』を楽しむために
#135 第4回「清州でどうする!」の感想 ~大河ドラマ『どうする家康』
#134 ブックレビュー『近世日本国民史 豊臣秀吉(四)』~『どうする家康』に備えて
時代小説でほのぼのしよう!女性も親しみやすいおすすめ作品を紹介
樹齢1000年を超える御神木と流鏑馬が見られる『鷺原八幡宮』
#133 献本到着『フューチャーリテラシー』佐藤 もとい著
#132 『信長公記』を読むその8 巻3:永禄13(1570)年
#131 TVメモ『歴史探偵 戦略家、今川義元』
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