【どうする家康】#48 家康は「鎌倉殿の13人」義時と相似形、でも最期は幸せに海老すくい
辛すぎる別れ
【どうする家康】#25 準主役・瀬名退場、松潤家康は正念場
戦は皆、嫌なのだ
【どうする家康】#24 スイスじゃなくてEUだった瀬名の夢
病む信康を見過ごせない
【どうする家康】#23 覚醒した瀬名、嵐を呼ぶか穴山梅雪
瀬名の暮らした「築山」を訪ねて
1度しか出来ない戦術
【どうする家康】#21 近づく瀬名Xデー、その前に戦国走れメロス再び
頑張る瀬名と寝込む家康とバカ姫
【どうする家康】#20 岡崎を救うためのクーデター、瀬名を地獄に誘う
【どうする家康】実際の瀬名(築山殿)と徳川家康の関係はとても悲しい物だった
【どうする家康】#19 お万、神仏後押しのハニートラップ成功
そりゃ…お手つきするよね、家康さん
香港へ 浦賀を去ったペリー一行は沖縄を経由して香港へ向かった。 香港にて艦隊を再編成して翌年の春に日本へ向かうためである。 ロシアとの共闘 香港で待つペリーのところへプチャーチンが共闘を求めて来た。 だが、単独での交渉に自信を持っていたペリーは燃料の石炭をあげて追い返す。 アメリカの政変 悠々と準備を進めていたペリーだったが、そこにアメリカでの政変の知らせが届く。日本行きを命じたフィルモア大統領が失脚して日本行きを反対していたピアース大統領が就任していた。実は浦賀に着いた時には既に大統領は交代していたのだ。 この政変によっていつ帰還命令が出されるのか分からなくなったペリ..
江戸湾でごねるペリー 戸田氏栄や黒川嘉兵衛が黒船に乗り込んで浦賀まで戻ることを要求するが、ペリーはそれに応じずに江戸湾内にとどまる。 この時に幕府は交渉場所を鎌倉として、なるだけ江戸からペリーらを遠ざけようとしたが、ペリーは江戸での交渉を望み話し合いは平行線のまま膠着する。 交渉地決定 幕府は洋式軍艦を製作していた中島三郎助と香山栄左衛門を黒船へ送り込んだ。ペリーらから信頼を得ていた香山の尽力により交渉地が横浜に決定することになる。 鎌倉と江戸との折衷案であった。
水戸藩の大砲 海防参与となった徳川斉昭は幕府にいくつかの意見書を出したりと精力的に幕政に関わっていた。 嘉永6年12月15日(1854年1月12日)には大砲74門を幕府に献上した。 軍艦つくりに着手 年が明けて嘉永7年1月2日(1854年1月30日)、水戸藩はいよいよ軍艦の建造を始める。
島津斉彬 薩摩藩のお家騒動で40歳を過ぎてようやく藩主になった島津斉彬は藩の富国強兵に努め、洋式造船、反射炉・溶鉱炉の建設、地雷・水雷・ガラス・ガス灯の製造などの集成館事業を興した。 阿部正弘とも親交が深くペリー来航で斉彬を必要とした阿部は参勤交代の次期を早めて江戸に呼び寄せた。 西郷吉之助 薩摩の下級武士であった西郷吉之助は斉彬が藩主になって藩内から意見を求めるようになると意見書を書く。それは藩政批判の色が濃い過激な内容だった。 しかし、斉彬は西郷の一本気な性格に興味を抱き江戸へ連れて行く供に指名する。 江戸についた西郷はお庭番として身分が低いながらも斉彬の側近として取り立て..
東寺の魅力は五重塔や金堂だけじゃない!見どころをたっぷり紹介!
新幹線で京都へ来ると必ず目にするのが、東寺の五重塔です。 京都市民なら「ああ京都に帰ってきた」とほっとする、京都のランドマーク。 平安京が作られたときから、ずっと京を守ってきた東寺。 今回は、そんな東寺の深~い歴史と魅力を紹介します。 東寺
「歴史ブログ」 カテゴリー一覧(参加人数順)