草の葉に溶けゆく様に
銀杏の葉に思いを馳せる
秋の壬生狼
草の葉に溶けゆく様に
銀杏の葉に思いを馳せる
秋の壬生狼
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江戸剣術修行 坂本龍馬は嘉永6年4月に江戸に剣術修行に出てきた。北辰一刀流の千葉定吉の道場である。 道場には定吉の他に長男・重太郎と三人の娘(その内一人は龍馬の婚約者と言われる佐那)がいた。 黒船来襲 江戸に出てきてわずか2月ほどで龍馬は黒船騒ぎに遭遇する。 土佐藩からの命で品川付近の警備にあたっていたそうだが、ペリーは6月11日には江戸湾深くに進入してきたこともあり龍馬が黒船を直接見たであろうことは想像できる。 この直後に家族に戦となったら異人の首を取ると手紙に書いているが、当時の龍馬は純朴な攘夷青年であったのだろう。 佐久間塾 嘉永6年12月1日に龍馬は佐久間象山の..
島津斉彬 薩摩藩のお家騒動で40歳を過ぎてようやく藩主になった島津斉彬は藩の富国強兵に努め、洋式造船、反射炉・溶鉱炉の建設、地雷・水雷・ガラス・ガス灯の製造などの集成館事業を興した。 阿部正弘とも親交が深くペリー来航で斉彬を必要とした阿部は参勤交代の次期を早めて江戸に呼び寄せた。 西郷吉之助 薩摩の下級武士であった西郷吉之助は斉彬が藩主になって藩内から意見を求めるようになると意見書を書く。それは藩政批判の色が濃い過激な内容だった。 しかし、斉彬は西郷の一本気な性格に興味を抱き江戸へ連れて行く供に指名する。 江戸についた西郷はお庭番として身分が低いながらも斉彬の側近として取り立て..
松蔭、江戸に戻る 長崎でロシア船に密航するのに失敗した松蔭は翌年の春に来るというペリーの米国艦隊に密航しようと江戸に戻ることにする。 松蔭が江戸に戻ったのは嘉永6年12月27日(1854年1月25日)であった。 友と弟子と師 江戸に戻った松蔭は友人の宮部鼎蔵と弟子の金子重輔と共に過ごす。松蔭は金子と二人で密航を考えていたが、宮部鼎蔵はギリギリまで反対していた。 しかし、松蔭の決意が固いと知ると見送りの宴を開いて送り出した。 師の佐久間象山は松蔭の決意を称えて詩を送った。 こうして嘉永7年3月5日(1854年4月2日)に松蔭と金子重輔は江戸を出て黒船に向かう。
日米和親条約 嘉永7年3月3日(1854年3月31日)、日米和親条約が結ばれた。 条約の主な内容は以下のとおりである。 ・アメリカに物資を補給(薪水給与)するために下田、函館を開港。 ・漂流民の引渡し。 ・アメリカ人居留地を下田に設定する。 ・領事をおくことが出来る。 ・アメリカを最恵国待遇とする。 これにより250年における幕府の鎖国政策は終わりを告げたのである。
恋川春町は、江戸中期の戯作者兼浮世絵師です。 黄表紙(大人向けの風刺のきいた漫画)の先駆けといわれ、あの蔦重(蔦屋重三郎)を支えた1人でもあります。 今回は、武士と戯作者・絵師という二足の草鞋を履きながら、多くの人気作を描き上げた恋川春町の
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