本願寺第七世存如の子。本願寺第八世門主。熱心な布教活動を生涯行い、浄土真宗本願寺の現在の礎を築く。浄土真宗本願寺、中興の祖。
戦国武将の辞世の句や短歌を載せています。歌の意味や武将の簡単な経歴を紹介しています。まだ始めたばかりで少ないですが、よろしければご覧下さい(`・ω・´)ゞ
鎌倉殿の13人・源義経の鎌倉攻略計画は新田義貞のものに非ず。
変な題名ですが、「ジンギスカンは義経にあらず」という大正13年に出た本の題名のパクリです。大正13年に義経ジンギスカン説がブームとなり、それを「いさめる」ために書かれた本です。まあ新田義貞の作戦に似ているし、「新田義貞のもの」でもいいのです。ただし難癖をつければ「新田義貞は船を持っていなかった」はずです。刀を持って海に祈ったら、海の水が奇跡的に引き、海岸を馬で渡って鎌倉に乱入した、、とまあこれも「伝説のたぐい」ですが、そうなっていたと思います。陸上に敵を引き付けて、船を使って長距離移動し、敵拠点を攻める。「これをやられていたら、とても勝てない。」「鎌倉は間違いなく滅びていたことだろう」。それで私が思いつくのは幕末の幕府対官軍の戦いです。「花神」という作品でおなじみです。「花神」は三谷さんが好きな大河の筆頭として...鎌倉殿の13人・源義経の鎌倉攻略計画は新田義貞のものに非ず。
「鎌倉殿の13人」から「日本史」を考える。1185年勅許。文治勅許。
義経勢力に対して頼朝追討の宣旨が出されたのは1185年です。1185年勅許。文治勅許といいますが、それでは歴史の流れが掴みにくい。頼朝の挙兵は1180年です。たった5年。この「たった5年」という感覚が「文治勅許」では理解しにくいのです。元号に反対とか賛成とかいうことでなく「日本史の用語はわかりやすく」するべきだと思います。だから1185年勅許。1185年勅許によって守護地頭の設置が認められた、、、となりますが、そもそも現物はありません。「玉葉」の記事をもとに復元すると1,五畿内、山陰、山陽、南海、西海諸国の北条時政以下の頼朝家人への分与2,荘園公領を論ぜず、段別五升の兵糧米の徴収3,田地知行の権限となるようです。正直意味がつかみにくい。ただこれとは別の史料で「守護地頭の設置を申し入れて許可された」というのもある...「鎌倉殿の13人」から「日本史」を考える。1185年勅許。文治勅許。
昨日の法事でのお話は「お前も死ぬぞ」でした。 先日の掲示板の記憶があってそのような人様の耳に障る語を成行から吐いてしまいました。 まぁ法話としては死はベストな題材ですが。 人間は愚かですから、自身の命は未来永劫にわたって続くものと錯覚しがち。 時に「神の如く」我が物顔に立ち振る舞うというところ「ある ある・・・」。 蓮如さんの仰る「朝(あした)には紅顔あって 夕(ゆうべ)には白骨の身となれり」の文言もまた。 なにしろ人の命は「あっという間」ですからね。 感謝と思いやりが足りない昨今。修正していかなくては。 午後になるとある檀家さん(女性)からの電話で「今から寺へ行くのでヨロシク」と。 午後からは例の相良城石垣に使用されていた(模様・・・)の石を一回戦でも運び出しに行きたい・・・などと考えていたところでしたが、その声にいつもと違う雰囲気が漂いまさに非尋常。 「どうぞどうぞお気軽に・・・お待ちしてま~す」と予定を変更したのでした。 その手の「お話を聞いてください・・・」の件は、他の葬儀依頼の電話から比べれば私にとっては余程お気楽です。 ただし今回はその話を聞かされて、それはそれはひっくりかえらんばかりに驚かされたわけですが、ハッキリ言って前代未聞の無茶苦茶、「怒り心頭に発する」とのことでした。 それでいて要は軽々にブログに記すことができないようなことで残念。 そのような「ヤバそう」な話を私ども(その方は当方奥方とも懇意)にブチまけてしまうなど、ある程度の「信頼」の証拠でもあって、少々の嬉しさもありました。 雰囲気的にその差し迫った問題に対して当人は「訴訟になるだろう」との決意がありました。 気の小さい私は「その件私は聞かなかったことにしますが、応援はします!!」「『地裁で会いましょう』の台詞を吐いてやってください・・・」と。 その件、(私どもに)迷惑をかけたくないので勿論今後関りについては口外することなどなく、「弁護士を雇って徹底抗戦する」とのことでした。 今後の推移を見守るだけです。 尚、訴訟に上がる先方様は当方檀家さんではありません。 いろいろ存じ上げている方ですが。 その方は「あいつが死ぬまでこっちもとことん頑張る」とぶちまけて帰られましたが、内心その相手さんも「いずれ死ぬ」(少なくとも年の順番だと「早い」)のだから「飛ぶ鳥~なんとやら」でもっとうまいことできないものかと呆れたところです。 死んだ後に「アホ」「
昨日は榛原病院からの帰りに、榛原警察署に寄り道。 交通課のカウンターで例の標識とその対応についてその担当部署を聞きに立ち寄りました。 すると管轄が島田土木事務所ということが判明し、自宅に帰ってから電話で陳情した次第。 対応を検討するとの返事をいただきました。 今のところはあの「直進の錯覚による逆行」からの事故発生はないようですが、まぁその件「わざわざそこまでやることもなかったのかもね・・・」と奥方にぼそりと言うと、「冗談じゃない。あの道は我らも頻繁に使用する道。私たちが走っている際に、たまたま逆行車があること。それを考えよ・・・」。ごもっともなことでした。 まぁ「錯覚を起こす構造」について、それを黙っていたら、法律上「故意」に近いような市民としての無責任。 早急な対応を期待しますが、さぁ、どう動く島田土木事務所殿。 進入路のレーンにポールを数本立てて進入禁止の掲示をするか、あの「矢印」の掲示の方法を再検討するか・・・ ここ数日、市内は交通事故頻発。 当方過失についてそれが無きよう厳重な注意をもってハンドルを握ることは承知していますが、無過失でたまたま、いわゆる「もらい事故」による死亡事案も多く見受けられます。 普通に自動車を運転していてどなたか知らない人の一方的な過失によって突然の死を迎えることになるのですが、被害者からすればあまりにも突然すぎて「自分が死したことさえも知らない」ようなこともあるでしょうね。 交通関係の「死」の悲劇は案外と身近なものがありますが、特にそのタイミングはそれだけに関わる物でなく他にもいろいろ、そこここに転がっている事案です。 「突然」で「身近」が昨日も記した蓮如さんの「朝には紅顔あって~」の通り。 「どこにでもある」のですから、「そろそろ死ぬぞ」といいながら、たまには息子にとlineではなく「直電」してみました。 3度目のワクチンを「打たない宣言」している彼で、メールでは苦言を呈していましたが、電話ではその件触れず。 いたって元気そうな声でした。 問題は何時「相良に帰ってくるか」ですから少々の振り。 「いつ死んでも不思議のないところだが帰ってこれるのか? 」です。その時はいつでも・・・と臨機に動くとのこと。 それさえ聞ければ、「ありがたい、ありがたい」と棺桶の蓋を締めてもらえるというものです。 というのは先般、ある事情から棺桶を一つ大工さんに作ってもらいました。 早速本堂中央に設置して
三成は関ケ原の合戦で徳川家康に敗れ、現在の京都市内で斬首された。一方、1959年出版の旧薄根村(現沼田市)の村誌によると、三成は敗戦後、飛騨高山を経て現在の長野県に入り、妻同士が姉妹関係ともされる真田昌幸との縁で昌幸の父、幸隆が再建した正行院に落ち着き、寺の第22世住職になったとされる。正行院本堂歴代住職の墓所に、墓は有ります正行院で三成のものと伝わる位牌と墓は有る。位牌の裏には三成を指すとされる「石田...
【始末書】今から書くのは、オチまで含めて本当に今日あった話です(オチているかは不明)
こんばんは。うちの職場ではパソコンを使うことが割と多くて、アレ( )の影響もあってかパソコンの画面越しに外部の方と打ち合わせをすることもあります。今日も”とある関係先”とのリモートでの打ち合わせをするため、パソコンやスピーカーなどの準備と片付けを頼まれて無事に終わったのですがやれやれと思ってパソコンに繋いでいたスピーカーのケーブルを抜き、パソコンをシャットダウンするためにマウスを何度か動かしてもカー...
愛宕山砦@Google愛宕山砦 イメ-ジ図愛宕山砦は、雲谷寺の東300mほどのところにある比高30mの愛宕山に築かれていた。砦を訪れるためには、まずは雲谷寺方向を目指す。雲谷寺の方向から見ると、東側に低い尾根が張り出しているのが見える。これが愛宕山である南側にソラ-が有るので畦道から回り込み、旧参道お探しながら・・・・・結局直道を進んだ、約10分位で遺構へとたどり着けます。南西から見た愛宕山砦愛宕山砦 南...
小沢城@Google小沢城は三浦系・沼田景朝が応永12年(1405)に荘田城から移り、小沢川の崖端に築いた城である。永正16年(1519)に幕岩城へ移るまでの4代114年間の居城であった。東南は小沢川の崖、西北は内外に二重に堀を構え、追手は北に開き、東側の「折」で側防されている。京都の禅僧・万里集九の旅行記には、『長享二年(1488)九月三十日、沼田館に着き鍛冶屋に宿る』とある。小沢城は沼田館・沼田城とも呼ばれ...
さー!今月も始まりました!きもかわいい戦国武将缶バッジレアキャラ総選挙水無月の乱お好きな武将に一票投じて下さい!#佐賀県#唐津市#名護屋城#日本百名城#観光…
川田城@Google川田城は三浦系沼田氏6代景久の4男・川田四郎景信が分家した際に築いたと伝えられる。現在の川田公民館から北は遷流寺、東は薬師堂にまでまたがる広大な地域であった。応永13年(1406)に群馬郡国分の村上出羽守に攻撃されたが、信光・信清・光清と続き、天正7年(1579)に小田原北条氏、同8年に真田昌幸の進攻で滅亡した。城は真田が再興し、山名信濃守を城主にした。同10年から15年までは北条勢の来攻で戦乱が続き...
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世界史、日本史を問わず歴史関連の本について、お気軽にトラックバックしてください。 歴史書から歴史小説、ムックなどを題材として歴史を語りましょう。
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コイン・古銭のコレクションについて、お気軽にトラックバックしてください。 日本・中国・アメリカ・ギリシャ・ローマ・その他のヨーロッパなどのコインの話題や収集について語りましょう。
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二条城は、京都市中京区二条通堀川西入二条城町にある江戸時代の城。京都市街の中にある平城で、京都観光の定番となっている。城全体が国の史跡に指定されている他、二の丸御殿が国宝に、22棟の建造物と二の丸御殿にある計954点の障壁画が重要文化財に、二の丸御殿庭園が特別名勝に指定されている。さらに、1994年にはユネスコの世界文化遺産に「古都京都の文化財」の1つとして登録された。
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東寺は、京都市南区九条町にある、空海ゆかりの寺院である。宗教法人としての公称は教王護国寺。東寺真言宗・総本山。山号は八幡山、本尊は薬師如来。古都京都の文化財の一部として世界遺産に登録されている。
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知恩院は、京都府京都市東山区にある浄土宗総本山の寺院。山号は華頂山。本尊は法然上人像および阿弥陀如来、開基は法然である。浄土宗の宗祖・法然が後半生を過ごし、没したゆかりの地に建てられた寺院で、現在のような大規模な伽藍が建立されたのは、江戸時代以降である。将軍家から庶民まで広く信仰を集め、今も京都の人々からは親しみを込めてチヨインと呼ばれている。
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国際政治を歴史的視点でとらえよう。近現代史を中心に、現代の国際政治に関わるものなら古代史や中世史の記事もTB大歓迎! 画像は大英帝国の最盛期の首相、パーマストン卿。
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幕末維新に関連する話題ならば、なんでもありです。学説紹介から、フィクション(小説、映画、漫画など)の感想、人物評伝、事件解説などなど。幕末関連で、他にトラコミュが見あたらなかった場合は、ぜひこちらへ。
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善光寺は長野市大字長野に位置する無宗派の仏教寺院である。善光寺本堂は1953年3月、国宝に指定された。また、三門と経堂は重要文化財である。本堂では床下の真っ暗な通路を通り戒壇巡りが体験できる。長野は善光寺の門前町として発達した都市なので、古くから長野盆地を善光寺平と称していた。遠くとも一度は詣れ善光寺。 牛に引かれて善光寺参り。
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武田神社は山梨県甲府市古府中町にある神社。武田信玄公を祭神とする。躑躅ヶ崎館の跡地に建てられている。旧社格は県社。明治維新後、歴史上の忠臣に追贈を行うことが行われた。大正4年、武田信玄に従三位が追贈されたのを契機に、武田神社奉建会が設立され、大正8年には社殿が竣工し、4月12日には初の例祭が行われた。
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甲斐善光寺は山梨県甲府市善光寺にある浄土宗の寺院。山号は定額山。詳しくは定額山浄智院善光寺と称する。長野県長野市にある善光寺をはじめとする各地の善光寺と区別するため甲斐善光寺と呼ばれることが多く、甲州善光寺、甲府善光寺とも呼ばれている。永禄元年、武田信玄によって創建された。信玄は越後の上杉謙信との間で現在の長野県長野市南郊において川中島の戦いを行うがこの際信濃善光寺に戦火が及ぶことを恐れた信玄が、自分の領地である甲斐のこの地に本尊などを移したのだといわれている
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本願寺第七世存如の子。本願寺第八世門主。熱心な布教活動を生涯行い、浄土真宗本願寺の現在の礎を築く。浄土真宗本願寺、中興の祖。
秀吉の異父弟。秀吉の補佐役として、文武両面での活躍を見せて天下統一に貢献。兄秀吉の片腕として辣腕を奮う一方、温厚な人柄で、兄を助ける補佐役に徹し、諸大名からも頼りにされる人格者であった。大和大納言。
大内義綱の子。戦上手として知られ、政宗に従い緒戦に参戦。子の重綱の代には、伊達一門衆の厚遇を受ける。
斎藤道三の子。土岐頼芸の子という説有り。義龍と道三は折り合いが悪いと言われ、道三が寵愛している自らの弟、義重・龍定を謀殺。父に対して謀反を起こし、討つ。
蒲生氏郷の子。氏郷の死により13歳で会津若松92万石を相続。豊臣秀吉の命で徳川家康の娘と結婚、家康と前田利家の後見を受けた。1598年(慶長3年)家臣の内紛が元で厳封。下野宇都宮18万石に。関ヶ原の戦いで東軍に属し、戦後会津60万石に復する。
柳生宗厳(石舟斎)の五男。大和国柳生藩、初代藩主。将軍剣法指南役で柳生新陰流宗家。剣術家として将軍家師範を勤める傍ら、外交面、政治面でも才覚を発揮した剣豪政治家。著書に、「兵法家伝書」「玉成集」。子に柳生十兵衛ら。
柳生但馬守嫡男。
北条早雲から始まる、戦国時代の大名家
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