一関市 クマ目撃出没情報 [2023.1.31]
【道の駅巡り】むろね(岩手県一関市室根町)
口遊む
岩手県のクマ目撃出没情報 [2022.12.28]
*児童がスクールバスに置き去り。クラクション鳴らし無事。 岩手。
トイレ&ティッシュ
【一関・平泉】自然と温泉と世界遺産を巡る【岩手県】
岩手県一関市の望洋平キャンプ場~ミニマリストレビューブログ~
【岩手・一関】厳美渓とかっこうだんごの巻
高校生全員が認知症サポーターへ。住んで安心岩手県一関市
【一関市大東町】留館跡を見てきました。
【一関市室根町】久保館跡を見てきました
【一関市花泉町】小野下館跡を見てきました
【一関市花泉町】 地蔵崎ノ城跡(大門地蔵堂)を見てきました
【一関市千厩町】 船丸館跡を見てきました。
六波羅探題府跡と六波羅蜜寺
鎌倉の大河ドラマ館再び!(1)
「承久の乱」瀬田川の戦い
幕府軍の軍議が行われた尾張一宮の真清田神社
鎌倉殿の13人 第46話「将軍になった女」 ~阿野時元の自害と三寅の東下、そして尼将軍政子の誕生~
北条時房、京から三寅を連れて帰る…「北条時房邸跡」他ゆかりの史跡めぐり
北条時房の邸宅跡
【武都】章『天地鳴動』編「承久の乱」⑮北条義時の死
【武都】章『天地鳴動』編「承久の乱」⑬後高倉法皇
【武都】章『天地鳴動』編「承久の乱」⑫北条泰時の入京
【武都】章『天地鳴動』編「承久の乱」⑪承久の乱の終焉
【武都】章『天地鳴動』編「承久の乱」⑩瀬田・宇治の戦い
【武都】章『天地鳴動』編「承久の乱」⑨後鳥羽上皇の御幸と還御
鎌倉殿の13人 第43話「資格と死角」 ~親王将軍構想~
【武都】章『天地鳴動』編「承久の乱」⑧山田重忠
【武都】章「参考文献」弐十参・北条政子
永井路子「執念の家譜」伊賀氏の変から宝治合戦へ…北条対三浦!執念の戦い
静かなる征服者、北条義時の物語「覇樹」~永井路子「炎環」より
【武都】章「参考文献」八・相模のもののふたち
【武都】章「参考文献」七・つわものの賦
鎌倉殿の13人 総評
決戦!承久の乱…その勝敗を決したものは何か?永井路子「つわものの賦」より
永井路子「北条政子」時代に翻弄された尼将軍のかくも哀しい物語
鎌倉殿の13人 第45話「八幡宮の階段」 ~源実朝暗殺事件~
雪の日の惨劇を糸引いた者…三浦義村は北条義時の盟友か?それとも…
『炎環』(永井路子)
永井路子「悪禅師」!鎌倉殿の影で暗躍した黒衣の源氏・阿野全成
忠義と狂気の狭間…梶原景時を描く「黒雪賦」!永井路子「炎環」より
【本棚を探訪】第23回『炎環』永井 路子 著/大矢 博子|書評 - 労働新聞社 労働新聞社
後白河法皇は希代の権謀家だったのか?永井路子「源頼朝の世界」
マスク外そうキャンペーンの如くの政府関係お偉いさんたちからの物言い。 政界からそういった声があがっていることからそもそものマスク嫌いの方たちは早々に外している感はあります。 要はマスク装着について強要ができなくなったということ。 かといって私からそれを外して皆さんの前に出るなどまだまだ絶対にできるはずもなく。 ホールの参列者も本堂も装着率は100%です。 政治家ではなくウィルス感染症の専門家の意見を尊重したいものです。 政府の意見に沿ったことを言う専門家というのもありますからつまるところ、私の勝手。とやかく誘導しないでいただきたい。 信じられないことばかりやらかす政治屋さんのお話だけは「聞く耳」はもたないというのが信条。 踊らされたくありませんね。踊るのは政治屋だけでよろしい。 ただし犯罪者にとってはマスク装着社会はその変装グッズとして違和感はないでしょう。 今ほど「仕事」がやりやすい時はないでしょうね。 疫癘もそうですが同時に悪辣な輩も蔓延りますが・・・ まぁバシバシとあの強盗事件に関与した連中がお縄になっていますからその辺りは安心社会に向かって欲しい。 あぶく銭ゲットの短慮のゲスな仕事は割が合わないこと、知らしめなくてはね。 扨、先日記した廣忠寺前の道(桑谷城)。 岡崎衆の桑谷山超えの目的地は「西ノ郡」。 鵜殿一統の本拠地上ノ郷城です。 城郭大系「上ノ郷城」の冒頭を記すと・・・ 「(応仁の乱以降)守護勢力に代わって国人・土豪が勢力を伸長させた。三河に於いてその主たる者が田原の戸田氏であり西三河の松平氏である。そのほか北設楽の菅沼、作手の奥平、岡崎の西郷、宝飯の牧野に加えて、西ノ郡の鵜殿などが・・・」とあります。 「西ノ郡」=現在の蒲郡ですが当時はその周辺は鵜殿氏の繁栄の場でした。 ある方と話しましたが、現在でも蒲郡は東西に分けて線を引くとすれば東側は鵜殿系ファン、西に松平系となるそう。 特に上ノ郷城周辺(神ノ郷町)では「殿様」と言えば鵜殿さん。 家康は敵というのが当然に漂う雰囲気のよう。 こちらの鵜殿長持は今川義元の妹を妻としたといい、そうなれば長持の子長照は今川氏真とはいとこということになります。 家康も駿河在住時の顔見知りであったかも知れませんね。 そういった強い今川との姻戚関係があったとすると、義元が桶狭間で死したあとも駿河は遠方にも関わらず、また周囲が松平に帰順していく流れにあっても頑なに今川方として
昨日午後お寺に来られたご夫婦は二人とも歴史好きでいつもご一緒で歴史散策を楽しんでいるとのこと。 本堂にご案内して田沼時代の遺物について少々語らせていただきました。 別件、ブログでは以前、菅山の川田砦について記したことがありましたが、その方はそのあたり(老児保険施設の南の台地)の地名について、地元の古い伝承で「コジロ」と言れていることを教えてくださいました。 お名前が川田さんと仰るそうで、尚更その情報の真正度はup。 高天神籠城組の末裔を推測します。 私は予定がありましたので途中で失礼させていただきましたが、何より二人一緒の趣味、同行は頼もしいこと。 それを奥方に言うと「何を・・・」とばかりに叱られました。 「散々連れ回されて甚だ迷惑」とのことでした。 まぁ10回に一回程度のお付き合い、言い返したら怒るでしょうが 「山城」と言えば最近はまったく不同意。 「下で待ってる」の常套句はまだマシの程度。 「時に足手まとい」ではありますがね。 昨日は服部半蔵が夜陰に乗じて上ノ郷城に侵入して火をかけ家康方の勝利を導き、さらに鵜殿家の継承者2人を生け捕りにして駿河人質(瀬名と信康)奪還の駒を得るなどwの立役者になるなどお話の世界・・・などとは記したものの、実際にその件についてその名、渡辺半蔵(正成)を推測できるものも「あるにはある」のでした。 昨日記した忍者の件は「鵜殿由緒書」に加え「三河物語」にも記されているといいますが、史料といわれるものは、各々時間のタイムラグがあって、まずはその書を記すにあたって以前の書物をあたるワケで、表現が違えども、あたかもその場に居合わせた如くに記すものですから記述の頻度が多いとしても他の確度からの検証も必要ですが・・・ この上ノ郷城落城が忍者(忍び・忍びの兵・甲賀衆)の仕事であるという件はかなりに有名なところで、伴与七郎なる甲賀者が 江州より呼び出され鵜殿長照(鵜殿長持の息生け捕りにされたのは彼の二人の息子)を滅ぼした功労者として家康から感状を与えられています。 そして伴氏は甲賀出自。彼が従者として連れてきたという者に「服部藤助と中山久蔵」の名があります。 服部半蔵が岡崎に住まったこともあってその地が伊賀町・伊賀八幡などの名称が残る通りですが、甲賀者が伊賀者を連れてきても不思議はないところではあります。 ただし寛政譜から見るに半蔵正成の没年が慶長元(1596)五十五歳とありますが、そうであれば生誕
C54のキャブは、C53のキャブを流用し、キャブ屋根の高さが合う様に調整。始めに、C57のボイラーとキャブ屋根上部まで(4.5mm)と、キャブの下から底面(12mm)を計測してから、C53のキャブが載る様に動力側を加工しました。また、キャブの窓枠等のディテールを削って平らにして、
足利氏は、清和源氏の源義家の三男、源義国を真の祖とする。 義国の次男、源義康は、上野国の足利荘を相伝すると、足利義康を称した。 源姓足利氏の誕生である。 義…
先般、大正十一年生まれの百一歳の方の葬儀式のお勤めに。 地元で書道教室を開いていた方ですが奥様はまだまだ健勝。 ご主人の収集した書関係の文書、筆、硯等やコレクションを「処分せよ!!」との強いお達しがあったためこれまでこつこつと「燃やすか捨てるか」をしてきたとのこと。 それは棺の中に納められた「書」関連の書物を私が目にしたことから色々と聞き出したのですが、ついつい私のエゲツナイ本音が出てしまいました。 「これって値段が付きそう・・・」 故人への家族の想いとしてそれが故人と一緒するわけですから私の横槍は無意味ですが、経験上その棺の中には「おお!!」と溜息が出るような代物が入ること度々目撃しています。 かなり値の張りそうな着物とか・・・ 施主はこれまで大量の(価値のありそうな)古文書類を処分してきたそうで「これが最後の一冊」と棺に。 自宅にはまだ「処分に困っているものがある・・・」とのことでしたので、もし捨てるなら「一度は拝見したいものだ」と未練たらたらでお願いしました。 聞けば施主もその息子さんも「まったく興味がなし」と。 ネットで処分することも同様とのこと。 物欲皆無のスッキリサッパリの家系、天晴れ。 そういえば奥方も息子も私の集めた書物等を「捨てる・処分する」を断言していましたが。 人によってはその価値100%200%あったとしてもその近き親族であっても無価値-100%レベルの感覚があるものです。 さて、日々色々な情報が舞い込んで気がかりなこと多々ありますが、今一番に心に残るその言葉。 賽銭箱にあるあの言葉を目にするたびに「涙が溢れる」という方の件。 娘さんと父母3人で数日前にお参りし、翌日にまた今度は夫婦二人で本堂にいらしたところを奥方が出くわしたといいます。 その翌日が娘さんの手術の日とのことで阿弥陀さんにご挨拶に参ったと。 感じ入ります。 是非に阿弥陀さん、何とかして欲しい・・・というのが私の切なる願いです。 手術が成功しますように・・・そしてまた家族の笑顔を見せて欲しい。 生きる、生かされる・・・大切なこと。 ①②はその拙寺賽銭箱のことば。 釋海嵐は息子。実名が法名です。 あ奴がそれを言うのは妙に説得力があります・・・ そして③④は昨日記した隣のコインランドリーの駐車場の図。 息子に「こんなんです・・・」と画像を送ると「ヤな感じだね・・・」。 私は「尤・・・」とのみ。 大き目トラックもこれまであの駐車場を
『121城目』志布志城 (鹿児島県志布志市) 登城日:令和3年7月30日(金)鹿児島県志布志市志布志町に在る志布志城この近くに、鹿児島県志布志市志布志町志布志という地名が在るので、国内で一番長い住所?と思って調べてみたら、「秋田県北秋田郡上小阿仁村大字沖田面字
渋川義季は、1423年(応永三十年)、少弐満貞に博多を攻められ、敗北し、肥前国山浦城に逃れた。 その敗北を契機に九州探題の勢力は、衰退を始めた。 1425年…
昨日午後お寺に来られたご夫婦は二人とも歴史好きでいつもご一緒で歴史散策を楽しんでいるとのこと。 本堂にご案内して田沼時代の遺物について少々語らせていただきました。 別件、ブログでは以前、菅山の川田砦について記したことがありましたが、その方はそのあたり(老児保険施設の南の台地)の地名について、地元の古い伝承で「コジロ」と言れていることを教えてくださいました。 お名前が川田さんと仰るそうで、尚更その情報の真正度はup。 高天神籠城組の末裔を推測します。 私は予定がありましたので途中で失礼させていただきましたが、何より二人一緒の趣味、同行は頼もしいこと。 それを奥方に言うと「何を・・・」とばかりに叱られました。 「散々連れ回されて甚だ迷惑」とのことでした。 まぁ10回に一回程度のお付き合い、言い返したら怒るでしょうが 「山城」と言えば最近はまったく不同意。 「下で待ってる」の常套句はまだマシの程度。 「時に足手まとい」ではありますがね。 昨日は服部半蔵が夜陰に乗じて上ノ郷城に侵入して火をかけ家康方の勝利を導き、さらに鵜殿家の継承者2人を生け捕りにして駿河人質(瀬名と信康)奪還の駒を得るなどwの立役者になるなどお話の世界・・・などとは記したものの、実際にその件についてその名、渡辺半蔵(正成)を推測できるものも「あるにはある」のでした。 昨日記した忍者の件は「鵜殿由緒書」に加え「三河物語」にも記されているといいますが、史料といわれるものは、各々時間のタイムラグがあって、まずはその書を記すにあたって以前の書物をあたるワケで、表現が違えども、あたかもその場に居合わせた如くに記すものですから記述の頻度が多いとしても他の確度からの検証も必要ですが・・・ この上ノ郷城落城が忍者(忍び・忍びの兵・甲賀衆)の仕事であるという件はかなりに有名なところで、伴与七郎なる甲賀者が 江州より呼び出され鵜殿長照(鵜殿長持の息生け捕りにされたのは彼の二人の息子)を滅ぼした功労者として家康から感状を与えられています。 そして伴氏は甲賀出自。彼が従者として連れてきたという者に「服部藤助と中山久蔵」の名があります。 服部半蔵が岡崎に住まったこともあってその地が伊賀町・伊賀八幡などの名称が残る通りですが、甲賀者が伊賀者を連れてきても不思議はないところではあります。 ただし寛政譜から見るに半蔵正成の没年が慶長元(1596)五十五歳とありますが、そうであれば生誕
戦国武将の辞世の句や短歌を載せています。歌の意味や武将の簡単な経歴を紹介しています。まだ始めたばかりで少ないですが、よろしければご覧下さい(`・ω・´)ゞ
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