<長澤の手掘りトンネルと薄木隧道>淡路島の淡路市には、隧道ファンがよく訪れる素掘り隧道が2ヶ所ある。一つは地形図にも記載されている長澤地区の通称「長澤の手掘り…
<海食洞を抜ける胎内くぐり>以前、女陰似の洞穴として淡路島の岩樟神社を紹介したが、同島の淡路市の明神崎に鎮座する西濱神社の崖下にも、女陰似の隧道型海食洞「ひげ…
江戸湾でごねるペリー 戸田氏栄や黒川嘉兵衛が黒船に乗り込んで浦賀まで戻ることを要求するが、ペリーはそれに応じずに江戸湾内にとどまる。 この時に幕府は交渉場所を鎌倉として、なるだけ江戸からペリーらを遠ざけようとしたが、ペリーは江戸での交渉を望み話し合いは平行線のまま膠着する。 交渉地決定 幕府は洋式軍艦を製作していた中島三郎助と香山栄左衛門を黒船へ送り込んだ。ペリーらから信頼を得ていた香山の尽力により交渉地が横浜に決定することになる。 鎌倉と江戸との折衷案であった。
水戸藩の大砲 海防参与となった徳川斉昭は幕府にいくつかの意見書を出したりと精力的に幕政に関わっていた。 嘉永6年12月15日(1854年1月12日)には大砲74門を幕府に献上した。 軍艦つくりに着手 年が明けて嘉永7年1月2日(1854年1月30日)、水戸藩はいよいよ軍艦の建造を始める。
島津斉彬 薩摩藩のお家騒動で40歳を過ぎてようやく藩主になった島津斉彬は藩の富国強兵に努め、洋式造船、反射炉・溶鉱炉の建設、地雷・水雷・ガラス・ガス灯の製造などの集成館事業を興した。 阿部正弘とも親交が深くペリー来航で斉彬を必要とした阿部は参勤交代の次期を早めて江戸に呼び寄せた。 西郷吉之助 薩摩の下級武士であった西郷吉之助は斉彬が藩主になって藩内から意見を求めるようになると意見書を書く。それは藩政批判の色が濃い過激な内容だった。 しかし、斉彬は西郷の一本気な性格に興味を抱き江戸へ連れて行く供に指名する。 江戸についた西郷はお庭番として身分が低いながらも斉彬の側近として取り立て..
自衛隊多連装ロケットM270 MLRS 露ウクライナ戦争では多数の戦車やヘリがロケット兵器により撃滅されている。ロシアが1週間もすれば勝利を得ると目論ん…
「歴史ブログ」 カテゴリー一覧(参加人数順)