横浜上陸 嘉永7年2月10日、ペリーは横浜に上陸した。対する応接掛は林復斎で全権を任されていた。 日本の歓待 上陸したペリー一行らを迎えた幕府はまずは接待ということで最高の料理人と最高の食材による懐石料理をご馳走することにした。莫大な費用がかかった接待であったが、食文化の違いと謙遜文化の意思疎通ミスによりアメリカ側は粗末な食事を与えられたと思った。 日米交渉は誤解からスタートしたのである。仮に万次郎が通訳として同席していたらこのようなすれ違いはなかったであろう。 交渉開始 アメリカ側の要求は複数の港の開港、そこでの薪水の給与、漂流民の保護なと多岐にわたり、また通商や領事の常..
国境問題 日露の国境問題はこの会談から始まった。千島列島と樺太の領有権を双方とも争ったのだ。 この問題は結論が出ずに先送りされることになる。 通商・和親 プチャーチンはアメリカより先に条約を結びたかったが、川路の粘りにより今後に条約を結ぶときはロシアを優先するという言質をとるのみにいたる。 日プチャーチン長崎を去る 嘉永7年1月8日(1854年2月5日)、ロシア艦隊は長崎を出港する。
クリミア戦争 1853年10月にロシアとオスマン帝国の間で戦端が開かれた。クリミア戦争の始まりである。 この戦争にイギリスとフランスが介入して来るという話は以前からあり、開戦前であったプチャーチンの航海中にもイギリスの邪魔があった。 補給と退避 中立地帯である長崎もプチャーチンらにとって安全とも言えず、補給の必要性もあり香港に向かうことになる。川路らの使節団が長崎に到着する前にプチャーチンは長崎を去っていった。 ペリー 香港へ避難したプチャーチンはそこでペリー艦隊と遭遇する。イギリスの妨害で補給が困難であったプチャーチンはペリーに石炭を融通してもらうように頼み、日本との交渉..
早くも2月となってしまいました・・・時がたつのがあまりにも早いと感じます。自分がもたもたしているからだろうかとも思いますが・・・明日は『大隈重信の妻美登と娘熊子』について、話をせねばなりません。美登さんのことが、色々な所で話題になり、どのような人だったのか知
3月にワタクシの住んでおります東大和市市内で講座を行います。講座のテーマは、今年の大河ドラマに合わせて徳川家康です。おそらく、日本中でいま、家康関連の講座やらガイドやら企画が目白押しじゃないかと思います。そちらでは合戦とかお城とか、そういった話がテーマになるんじゃないかと思うんですが、ワタクシの講座では「そもそも家康のルーツって何なん?ドラマ見たけど、徳川じゃなく松平って言うてるよね?芸名なん?ほ...
本日もとても良いお天気の佐賀でした!!お天気に誘われて、夫の運転で、11時ごろから当てもなく出かけることにしました・・・最近よく使う、諸富ICから有明海沿岸道路に乗り、南方面へ向かっているうちに、前方に見える島原半島が気になり、結局終点より更に南方へ行き、結
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自衛隊多連装ロケットM270 MLRS 露ウクライナ戦争では多数の戦車やヘリがロケット兵器により撃滅されている。ロシアが1週間もすれば勝利を得ると目論ん…
どうも、souljemです。 さて、、、 現在、神戸に滞在中の私ですが、、、 有馬温泉から無事に帰還したその足でさっそく夜の神戸の街へ、、、本当は記事にするつもりはなかったのですが、思った以上に綺麗だったのでどうぞ、、、 ザックリとなので、テキトーに流しちゃってくださいね、、、 ということで、、、 神戸 夜さんぽ 時は2022年の2月なのでコロナ禍の後半くらいですね、、、 まずは阪急の神戸三宮駅からスタート、、、 高架下の飲食店街がいい感じ、、、 スタイリッシュなEKIZOと赤ちょうちんのギャップが面白い、、、 お酒好きには嬉しい街ですね、、、 高架を抜け、しばらく歩くと街はひときわお洒落に、…
今日は太陽の恩恵を受け暖かく、筑後川を目指して日課のウォーキング!まずは、中地江川を渡り、城原川を目指し歩き、城原川の堤防を下り、佐賀江川との合流点である蒲田津へ。蒲田津より下流は、城原川だと思い込んでいたのですが、佐賀江川だということを初めて知りまし
多摩川を歩く(その37)(二子玉川⑦:兵庫島) 2022.9.27
(写真は、兵庫島の「枯れ流れ」)”思い出のニコタマ”でだいぶ寄り道をしてしまいましたが、今回からは、本来の”多摩川沿いを歩く”に戻ります。自宅の新横浜から、市営地下鉄のあざみ野駅で東急田園都市線に乗り換え、「二子玉川駅」で下車します。南北朝時代の1358年、「新田義興」(にったよしおき:新田義貞の次男)は、「足利尊氏」の死去に乗じて、鎌倉攻略のため進軍します。しかし、義興は多摩川の矢口の渡しで謀殺され、義興の家来の「由良兵庫助」(ゆらひょうごのすけ)も壮絶な死を遂げました。そして、この「兵庫助」の死体は、多摩川の増水時に、矢口の渡しから、上流のこの河川敷の島に流れ着きました。村人達は、災いを恐れて、「兵庫助」をこっそりとこの島に供養しました。これが、「兵庫島」の名前の由来です。(新田義興が多摩川の矢口の渡...多摩川を歩く(その37)(二子玉川⑦:兵庫島) 2022.9.27
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