Yahooブログからの夜逃げ完了!!当家一族の沖縄での慰霊祭も終了!!これからどないすんね~ん!?
マスコミやネットにあふれる偏向情報に流されないためのオルタナティブな情報を届けます。
戦争に関わる歴史の真実は・・・ http://hide20.web.fc2.com に記事にリンクの一覧表<br><br><br>
太平洋戦争の各地戦跡に足を運んでいます。
退職自衛官です。国際情勢、安全保障、危機管理について私見を少々。ブログを通じ意見交換できれば幸甚。
正しい日本の歴史を知り自虐史からの脱却目指すべく、見聞を広げて頂ける内容を発信しております。
戦前・戦中中国で馬賊総頭目となった小日向白朗氏 戦後の功績 未だ歴史上隠されている”真の事実「米中国交回復と日中国交回復」”を広く世に知ってもらうための小日向白朗学会公式HP開設準備室BLOG
東京湾要塞地帯に残っている戦争遺跡について撮りためた写真を掲載します。往時の雰囲気を味わっていただけ
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織田信長の長女。徳川信康の正室。母は信長の側室で、信忠、信雄の母でもある生駒吉乃(いこまきつの)。清洲城で生まれたと云われる。 夫、徳川信康が自身の書いた築山殿と信康の罪状を訴える十二ヶ条の訴状により、信長の命で処断されるなど波乱の生涯を送る。
三河国宝飯郡牛久保(愛知県豊川市牛久保町)の生まれと伝わる。諸国を流浪し剣術や軍学を修めたとされる。当初は今川氏への仕官を希望していたが叶わず、天文12年(1543年)に板垣信方の推挙を受けて武田信玄に仕える。外見は片目と足が不自由で風采も悪かったと伝えられる。得意の軍略で信玄に様々な献策をして勝利に導くとともに、武田家中に築城術の手ほどきをした。 永禄4年(1561年)の第4次川中島の戦いでは啄木鳥の戦法を考案するが、上杉謙信に裏をかかれて手薄な本隊が奇襲を受けると責任を感じて敵中に突入しそのまま戦死する。享年69。 今でも、当て推量なことを「山勘」「ヤマカン」と言うが、これは山本勘助を略したものが語源であるとする説もある。近現代にあっても彼を軍師として主役・脇役に取り上げた作品は多く、井上靖の歴史小説『風林火山』が特に著名である。
伊達晴宗の次男。伊達氏第十六代当主。子に政宗、小次郎等。
戦国大名、最上義光の次男。最上氏第十二代当主。山形藩主。
益田甚兵衛の子。本名、益田四郎時貞。キリシタン。島原の乱の指導者と云われる。幕府軍の総攻撃により肥前島原、原城(旧領主、有馬家の居城)陥落の際、討死。
徳川家康の嫡男。母は正室の築山殿。家康の跡継ぎとして将来を嘱望されるも、内通の疑いで処断される。
室町幕府第十二代将軍、足利義晴の子。第十三代将軍。塚原卜伝に奥義を伝授された剣豪将軍。義藤から義輝に改名している。
村上顕国の子。信濃埴科郡葛尾城主。武田信玄を度々破り、村上氏の最盛期を築く。
織田信長の二男。一時、北畠氏を継ぐも、本能寺の変後、織田氏に復姓。織田氏の後継者争いでは秀吉と対立。家康と同盟、小牧・長久手の戦いを引き起こすも、信雄は保護者であった家康に無断で単独講和してしまう。
天正3年(1575年)5月、三河国長篠城をめぐり、織田信長・徳川家康連合軍3万5000人と武田勝頼軍1万5000人との間で行われた戦い。徳川氏の信濃国方面の前線であった長篠城が武田軍に包囲され陥落寸前となったため、家康が織田軍の援軍を要請。5月21日(新暦7月9日)に長篠城西方の設楽原(したらがはら)あるいはあるみ原にて野戦が行われ、織田・徳川連合軍側の勝利に終わった。