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二刀を用いることで有名な二天一流兵法の祖。水墨画家・工芸家としても知られる。幼名は「辨助」(弁助)と伝えられる。著書『五輪書』の中では自ら新免武蔵守藤原玄信を名乗っている。現在、明らかに自筆とみなされている有馬直純宛書状・松井興長宛書状には自ら宮本武蔵玄信と記している。熊本市弓削の墓誌には新免武蔵居士とある。京都の兵法家吉岡一門との戦いや巌流島(山口県下関市)での試合が、小説、時代劇映画、テレビドラマ(時代劇ドラマ)等の題材になり有名。著書である『五輪書』は、単なる兵法書以上の価値を持つものとして日本のみならず世界に読者を持つ。二天の名で製作した優れた水墨画・鞍や鍔などの工芸品が現在に伝わる。
黒田如水の長男として姫路に生まれる。その幼少期は織田信長の人質として過ごす。一五八二年(天正十年)から秀吉に従軍し、度々戦功を挙げ河内国に四百五十石の封禄を与えられた。同十二年の小牧・長久手の戦いで大坂城を根来・雑賀一揆衆から守り、二千石の加増を受ける。同十五年の九州征伐にも如水と共に参陣し、日向財部城攻めの功により、所領を豊前に移される。同十七年、如水の家督を継ぎ豊前中津十二万石の領主、従五位下甲斐守に叙任した。文禄・慶長の役にも参戦し、数多の戦功を挙げる。一六〇〇年(慶長後)の関ヶ原の合戦では家康方につき、筑前国五十三万余石を賜り、福岡城を居城とする。一六二三年(元和九)京都で死去。五十五歳。
幕末〜明治時代初期の政治家。維新の三傑の一人。薩摩藩(鹿児島県)の下級武士の出身で通称を吉之助。南洲と号した。大久保利通とともに薩摩藩を公武合体から倒幕運動へと動かし薩長同盟を成立させた。ついで王政復古のクーデターを指導し戊辰戦争では政府軍の総参謀として江戸城の無血開城を実現。明治新政府では参議となり廃藩置県では西郷のひきいる軍事力がにらみをきかせた。のち征韓論をめぐる争いにやぶれて辞職し鹿児島に帰って私学校を開き士族の子弟を教育した。1877(明治10)年かつがれて西南戦争の首領となったが新政府軍にやぶれて鹿児島で自殺した。
戦国時代、安土桃山時代の武将。通称は十兵衛。正式な名のりは、源光秀。幼少時の名は桃丸。生年は不詳であるが、光秀死後かなりのちの江戸時代に書かれた軍記文学『明智軍記』に記載された辞世の句とされる漢詩に「五十五年夢」とあることから、1528年に推定されることもある。『明智系図』によれば、清和源氏の流れである土岐氏一族の明智氏の出自とされているものの、出自、前半生の経歴は、ともにはっきりしていない。妻は妻木載煕の娘の煕子。娘は細川忠興正室玉子(細川ガラシャ)で、細川ガラシャの女系の系統は現在の細川護煕元首相に続く。
熊野水軍の長、湛増の子と言われるが出生を正確に記す史書はない。一説では、母の胎内に18ヶ月おり、産まれた時には髪が肩まであり歯も生えそろっていたと言われる。五条大橋から衣川の自害まで常に義経に従う。敵軍からは鬼の弁慶と恐れられ義経の忠実な家来として活躍した。千本狩りや立ち往生、内弁慶の慣用語など、その人物像を伝える言葉は今も多く残る。
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平安時代末期から鎌倉幕府初期の武将。梶原景時の嫡男。通称を源太といった。 木曽義仲追討に際し、宇治川の戦いにおいて佐々木高綱と先陣を争い渡河。続く一ノ谷の戦いでは箙に梅の花の枝を挿して奮戦し、板東武者にも雅を解する者がいると敵味方問わず賞賛を浴びた。 その後も鎌倉幕府内で順調に地歩を固めるが、源頼朝の死後父とともに失脚し、駿河国で討ち取られた。
磨墨は梶原景季の愛馬であり名馬として知られた。磨墨に乗った景季は、1184年(寿永3)の宇治川の戦いで、やはり名馬の誉れ高い池月(いけづき)に乗る佐々木高綱と先陣を争った(宇治川の先陣争い)。磨墨を葬った場所と称する所は日本各地にあり。
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