縄文、弥生、古墳、飛鳥、奈良時代の謎。神社、遺跡、古地に足を運び、忘れられた記憶、隠された暗号を探ります。近ごろは、古いサイノカミ・アラハバキ信仰の視点で(横断的に)探ることも多くなりました
歴史や民俗に関係するならアカデミックなことからサブカルチャーまでなんでも語ります。キーワードは「想像力」です。単に知る楽しさだけでなく、いろいろなことを考えていく楽しさを共有できたらうれしいと思います。
勢いでポチッた航空券で北海道旅行2泊3日・2日目は白金青い池を見てひたすら感動する
北海道旅行2日目。 旭川駅前にある「ホテルルートイングランド旭川駅前」をあとにして、2日目のメイン「青い池」を見に行く。 「青い池」は昔、Macbookの壁紙に使われたことにより有名になった人口池。 青い池は、晴天の日に見ると、とても澄んだ青い池が見られるらしいのだけど、私が行った日は、あいにくの曇りだった。 でも、曇りでも青い池の美しさは、晴れた日と同じだと思う、はず。 www.biei-hokkaido.jp えぞみくじもある「美瑛神社」 青い池に行く前に、「美瑛神社」に行ってお参りをしてきた。 hokkaidojinjacho.jp 由来は明治時代と新しめだけど、本殿などはキレイで豪華。…
嬬恋と赤城を見てきたので、今週はホームグラウンドの榛名山林道は1000m以下だから標高が低い分、ターゲットはそこここに見られる基本的な分布傾向は同じだな帰り道でウフフなアクシデントもありつつ
古墳時代中期(5世紀中頃) 直径47mの円墳 京見塚古墳 (静岡県磐田市国府台653-1 京見塚公園)
静岡県磐田市国府台(こうのだい)の京見塚古墳(きょうみづかこふん)は、古墳時代中期(5世紀中頃)の築造と推定される円墳です。規模は墳丘基底径47m、周溝(しゅうこう)底面からの高さ8.7m、周溝の幅9m。墳丘は2段築成で、上段墳丘裾から段築平面にかけて葺石(ふきいし)が見つ
今川氏に仕えた士豪 朝比奈氏の菩提寺 曹洞宗 九峯山 総善寺 (静岡県藤枝市岡部町(旧志太郡岡部町)殿167)
静岡県藤枝市岡部町(旧志太郡岡部町)殿(との)の曹洞宗 九峯山 総善寺(きゅうほうざん そうぜんじ) は、室町時代の文安元年(1444年)1月に真言僧 大覚龍道(だいかくりゅうどう)が真言宗の寺院として開きました。室町時代後期(戦国時代)の天文23年(1554年)、今川氏に仕えたこ
鎌倉時代の武将 梶原景時の愛馬 磨墨の伝説 馬頭観音堂 (静岡県静岡市駿河区曲金2丁目 静岡市立西豊田小学校の南)
静岡県静岡市駿河区曲金(まがりかね)2丁目の馬頭観音堂(ばとうかんのんどう)は、鎌倉時代の武将 梶原景時(かじわら かげとき)の愛馬「4代目 磨墨(するすみ)」の伝説があります。鎌倉時代初期の正治2年(1200年)、武将 梶原景時一行が谷津山南麓の「狐ヶ崎」(きつねがさき)で
美里町下児玉の金鑚神社に参詣した。 第62回伊勢神宮式年遷宮記念 金鑽神社 御由緒 美里町下児玉322 □御縁起(歷史) 下児玉は、身駒川(小山川)の左岸に位置する細長い形をした村である。明徳元年(1390)の藤原泰治寄進状に「児玉郡下児玉郷内浅羽方田壱町七段」が徳蔵寺の長老大勲に寄進された旨が載ることから、室町時代の初期には既に開発がなされていたことが推測され、また栃木県足利市の鑁阿寺(ばんなじ)が所蔵する永正十年(1513)銘の法華経第一巻の奥書に「下児玉勝輪寺当住持法印祐重」とあることから、かつては隣接する小茂田(こもだ)も下児玉の村域内であったことがわかる。 このように、下児玉は古い歴…
発掘された日本列島2024・山あいの水場遺構「唐堀遺跡」・鶏の埴輪がかわいい「赤堀茶臼山古墳」
千葉県立中央博物館で発掘された日本列島2024を順々に見学していたら、とても大きな木が横たわっていた。 その木はただの木ではなく、U字型の模様みたいなのが4つが彫刻された面白い木だった。 縄文人の生業や祭祀の実態を示す山あいの水場遺構「唐堀遺跡」 彫刻のある木柱 木柱と同じような文様がほどこされた耳飾り 亀ヶ岡文化の東北から運ばれてきたと思われる遮光器土偶 古代ロマン?鶏の埴輪がかわいい「赤堀茶臼山古墳」 縄文人の生業や祭祀の実態を示す山あいの水場遺構「唐堀遺跡」 その木は大きく、かなり目を引く展示だと思った。 木以外の唐堀遺跡の展示品には最初、全く目に入ってこなかったのに、その木を見た瞬間、…
本庄市の古墳巡りの続き。 西五十子古墳群の若泉稲荷神社古墳を訪れた。文献[1]によると「円墳、径38m、葺石」 若泉稲荷神社 所在地 本庄市北堀206 若泉稲荷神社の祭神は、倉稲魂命(ウカノミタマ)である。 伝来の口碑によれば、一ノ谷の合戦(1184)で源氏に従い平重衡を生捕った荘太郎家長 は、その館を現在の小字東本庄に構えたが、治承四年(1180)当社を勧請建立し、この地の鎮守としたと言われている。 その後、天正十八年(1590)小笠原信嶺が本庄氏に代って領主となったとき、旧領主勧請の古社であるので最も崇敬を加え、あらたに社殿をこの地に建立奉遷したと伝えられている。 昭和61年3月 埼玉県 …
いつもありがとうございます。よろしければまた、ポチっとお願いします(^)o(^)古代史ランキング#2024-06-2904:46:51に記事にしましたが、図などを最新のものに訂正しました。今までの成果の目次みたいなものですので、再度掲載いたします。よろしければ、またお付き合いください(#^.^#)#2022年6月末からこのタイトルのシリーズを始めました。当初は「1.日本民族と半島の謎」から「4.倭国大乱と卑弥呼の謎」はすでに公開した内容のダイジェスト版のつもりで始めたのですが、「5.大国主と台与の謎」から概略を書くのが困難になり、「6.日本建国の謎」まで、すでに掲載した内容を各節ごとにまとめました。さらに「7.記紀と日本人の信仰の謎(その15~24)」からは思いつくままに書きましたので、全体の繋がりをご理...【刮目天の古代史】目からウロコの大発見?(目次)
最近は梅雨らしい天気の梅雨は来ないですね。梅雨らしい梅雨とは何ぞや?と言いますと、雨はしとしと降って、家の中はじめじめ、冷蔵庫が普及してなかった頃は、食…
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