在野の研究者の歴史書から学んだ結果をまとめたもの
「その1」の続きです。標高394メートル、比高150メートルの白尾山の山頂にある籾井城の主郭跡に到着しました。 主郭跡には「籾城公園」と刻まれた石碑があり...
丹波八上城から丹波の旧街道沿いに8kmほど東に進んだところに、かつて籾井城がありました。ここは、八上城主・波多野秀治に属していた籾井氏の居城と伝わります。...
「その3」のつづきです。金山城跡主郭から西側に少し降りたところに、「鬼の架け橋」と呼ばれる奇岩があります。それが、これ。 鬼の架け橋です。2つの大岩の間に...
「その2」のつづきです。登り始めて1時間弱、ようやく丹波金山城主郭に到着しました。 金山城主郭は標高540mの金山の頂上にあります。 わたしがここを訪れた...
「その1」のつづきです。丹波金山城を登り初めて約40分、残り400mの表示を過ぎたあたりで、初めて曲輪跡のような削平地に出ました。 ここは、かつて園林寺と...
美濃を逃れた明智光秀とその家族は、隣国の越前に亡命しました。今回から越前編の始まりのようです。光秀が一時、越前に住んでいたという説は、二つほどある史料か...
1週前に登城した八上城跡から北西へ約15km、その2週前に登城した黒井城跡から7kmほど南にある金山の頂上に、丹波金山城跡があります。 国道176号線の南...
丹波八上城から北西約3km、篠山城から北東約1kmのところに、かつて澤田城がありました。澤田城は八上城主・波多野秀治の配下の武将・小林近江守長任によって築...
丹波八上城跡から篠山川を挟んで対岸にある井根山の山頂に、般若寺城跡があります。天正6年(1578年)、丹波攻略中の明智光秀が八上城を包囲攻撃するために築い...
弘治2年(1556)4月20日、美濃国長良川のほとりにおいて斎藤道三、斎藤高政(義龍)の両軍が激突します。世にいう「長良川の戦い」です。両軍の兵力差につ...
「その4」のつづきです。八上城本丸跡まで攻略しましたが、城跡はまだまだつづきます。 本丸跡東側の登山道を降ります。 少し下ると、長細い帯曲輪のような場所に...
「その3」のつづきです。いよいよ八上城本丸跡に登ります。 二ノ丸跡から本丸跡につながる登り口です。虎口のように見えますが、往時にはなかった登り口で、昭和6...
いよいよ前半のクライマックス、長良川の戦いの幕が切って落とされる・・・と思いきや、今回は開戦前の話でしたね。斎藤高政(義龍)が弟二人を謀殺したのが弘治元...
「その2」のつづきです。八上城の城館跡と伝わる右衛門丸から1段上に登ると、「三ノ丸跡」に出ます。 三ノ丸跡です。約550㎡あるそうです。 立て札の説明書き...
「その1」のつづきです。八上城登山道を登り始めてすぐの主膳屋敷跡を過ぎると、急勾配の山道に入ります。 でも、登城道は丸太の階段で整備されており、歩きづらい...
在野の研究者の歴史書から学んだ結果をまとめたもの
日野市および周辺の地域情報や歴史にまつわる話を取り上げています。
日本100名城・続日本100名城に関する記事なら何でもOKです
親鸞
令和3年(2021年)の大河ドラマ「青天を衝け」を応援しましょう。
ガイドブックに載っていない、ローマの観光スポットを歴史とともに語る。
夫余(ふよ、朝鮮語: 부여、拼音: Fúyú、正字体:夫餘)は、現在の中国東北部(満州)にかつて存在した民族およびその国家。扶余(扶餘)[1]とも表記される。 https://ja.wikipedia.org/wiki/夫余
町奉行・寺社奉行・公事方勘定奉行、自身番屋・辻番・木戸番、火付盗賊改、関東取締出役、目明し・岡っ引き・手先、囚獄、評定所などに関するトラバ用テーマです。
私が書き残しておかなければ、永遠に埋蔵金が発掘されないであろうと思い、気力と体力のあるうちに30数年前に埋蔵金の研究をしたことを記載する。当時、埋蔵金発掘番組が世間を騒がしていたことを記憶されている方もおられると思うが、日本トレジャーハンティングクラブの代表として、TV局に番組の修正を依頼した経緯なども付け加えておく。
戦後GHQは昭和三年から昭和二十年までに刊行されていた書物のうち7769点を指定し、本屋などで流通していた書籍を没収・廃棄し、戦後の日本人に読めなくしました。 どのような書籍が没収されていたかを調べると、軍国主義的な書籍よりも圧倒的に多いのは、戦勝国にとって都合の悪い史実などが書かれた本であることが分かります。 GHQ焚書は、「国立国会図書館デジタルコレクション」で、3割程度の本がネットで公開されています。実際に読んでみると、戦後詳しく知らされてこなかった史実などが満載です。