大橋寺だいきょうじに西南戦争の銃弾の痕があるのは知っていたが、これまでまだ見ていなかった。2025年4月10日、先哲史料館の展示室で新年度の展示替えがあったので覗いてみたら小川鼎三の中学生時代の日記の一部が活字化されていた。そこに大橋寺の銃弾痕の記述があった。 大橋寺だいきょうじの位置と銃弾痕 以前、西南戦争時に官軍が大迫山と呼んだ山の東部に展望所や付近の登山道を整備している三角台を守る会の村上中造さんが大橋寺の役員をしているので、今日(2025.4.13)待ち合せて銃弾痕のある場所を案内して頂いた。偶然、門の中で親戚の河村陽子さんに遇った。毎朝ここまで散歩していると。 ▢この日は丁度本堂で法…
本日は佐賀近代史研究会の会合に参加してきました。佐賀近代史研究会は、再来年で設立50年を迎えます。私は幕末明治の頃の佐賀に興味を持って以来、佐賀近代史研究会編の『佐賀近代史年表』に大変お世話になっています。私が気になる人や事柄について、色々な本で調べよ
島津斉彬 薩摩藩のお家騒動で40歳を過ぎてようやく藩主になった島津斉彬は藩の富国強兵に努め、洋式造船、反射炉・溶鉱炉の建設、地雷・水雷・ガラス・ガス灯の製造などの集成館事業を興した。 阿部正弘とも親交が深くペリー来航で斉彬を必要とした阿部は参勤交代の次期を早めて江戸に呼び寄せた。 西郷吉之助 薩摩の下級武士であった西郷吉之助は斉彬が藩主になって藩内から意見を求めるようになると意見書を書く。それは藩政批判の色が濃い過激な内容だった。 しかし、斉彬は西郷の一本気な性格に興味を抱き江戸へ連れて行く供に指名する。 江戸についた西郷はお庭番として身分が低いながらも斉彬の側近として取り立て..
江戸剣術修行 坂本龍馬は嘉永6年4月に江戸に剣術修行に出てきた。北辰一刀流の千葉定吉の道場である。 道場には定吉の他に長男・重太郎と三人の娘(その内一人は龍馬の婚約者と言われる佐那)がいた。 黒船来襲 江戸に出てきてわずか2月ほどで龍馬は黒船騒ぎに遭遇する。 土佐藩からの命で品川付近の警備にあたっていたそうだが、ペリーは6月11日には江戸湾深くに進入してきたこともあり龍馬が黒船を直接見たであろうことは想像できる。 この直後に家族に戦となったら異人の首を取ると手紙に書いているが、当時の龍馬は純朴な攘夷青年であったのだろう。 佐久間塾 嘉永6年12月1日に龍馬は佐久間象山の..
クリミア戦争 1853年10月にロシアとオスマン帝国の間で戦端が開かれた。クリミア戦争の始まりである。 この戦争にイギリスとフランスが介入して来るという話は以前からあり、開戦前であったプチャーチンの航海中にもイギリスの邪魔があった。 補給と退避 中立地帯である長崎もプチャーチンらにとって安全とも言えず、補給の必要性もあり香港に向かうことになる。川路らの使節団が長崎に到着する前にプチャーチンは長崎を去っていった。 ペリー 香港へ避難したプチャーチンはそこでペリー艦隊と遭遇する。イギリスの妨害で補給が困難であったプチャーチンはペリーに石炭を融通してもらうように頼み、日本との交渉..
全国菊池の会事務局長。https://zenkoku-kikuchinokai.jp/ 市川ジャズ会長。90年バンド『ZIPANG』を結成(15年間休眠中)。新自由主義社会の経済政策は格差社会を作り、資本主義社会の破滅へ。
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