5月の新車 トミカ 106 「西濃運輸 カンガルー便トラック」をレビュー!!
新選組を行く(その2)@日野
マグロ解体ショー!角上魚類へ買い物ドライブ
東浦(とううら)自工製のバス
東急バス 日野 ポンチョ(その1)
京王バス 日野 ブルーリボンⅡ ノンステップ(その2)
【TINYQ】日野 300 Tow Truck (レッカー車)
川崎市交通局 日野 ブルーリボン ハイブリッド(その1)
神姫観光、新社番採用と思われる新車登場
力高環保服務有限公司 Hino 500
【トミカ】今月の新車はフォード『マスタング エコブースト ファストバック』と日野『ポンチョ』
成田空港交通 日野 ブルーリボンⅡ ワンステップ
南アルプス急行 日野 セレガ SHD
京成トランジットバス 日野 ブルーリボン(その1)
栗山交通 日野 セレガ
山頭(やまがしら)遺跡は西南戦争中、田原坂の戦い後に戦場になった戦跡で、田原坂の南東約5㎞に位置します。国道建設に先立ち発掘調査が行われ、調査区内の北西部では官軍陣地(第4次調査区)、南東部では薩軍台場跡(第5次調査区)が見つかっています。発掘調査で検出できた遺構や遺物について、前にも述べた(鹿児島県考古学会その他)ことと重複するけど、山頭遺跡について自分の考えを再び述べます。 実は発掘調査報告書を閲覧しようと思えば奈良文化財研究所のHPで「全国文化財総覧」を開いて探せばPDF化されたものに辿り着き、全頁を見ることが可能です。(※「発掘調査報告書以外の文化財刊行物も多数含まれることから、全国遺…
梅雨の合間に、久しぶりに草取りができました!!あっという間に伸びる草に、嫌になりますが、ボチボチ草取りをやりました。さて、来月から佐賀県立美術館で、佐賀新聞の創刊140周年を記念した「北斎・広重 大浮世絵展」が開催されるそうです。どんな展示がなされるかな?
松蔭、江戸に戻る 長崎でロシア船に密航するのに失敗した松蔭は翌年の春に来るというペリーの米国艦隊に密航しようと江戸に戻ることにする。 松蔭が江戸に戻ったのは嘉永6年12月27日(1854年1月25日)であった。 友と弟子と師 江戸に戻った松蔭は友人の宮部鼎蔵と弟子の金子重輔と共に過ごす。松蔭は金子と二人で密航を考えていたが、宮部鼎蔵はギリギリまで反対していた。 しかし、松蔭の決意が固いと知ると見送りの宴を開いて送り出した。 師の佐久間象山は松蔭の決意を称えて詩を送った。 こうして嘉永7年3月5日(1854年4月2日)に松蔭と金子重輔は江戸を出て黒船に向かう。
江戸剣術修行 坂本龍馬は嘉永6年4月に江戸に剣術修行に出てきた。北辰一刀流の千葉定吉の道場である。 道場には定吉の他に長男・重太郎と三人の娘(その内一人は龍馬の婚約者と言われる佐那)がいた。 黒船来襲 江戸に出てきてわずか2月ほどで龍馬は黒船騒ぎに遭遇する。 土佐藩からの命で品川付近の警備にあたっていたそうだが、ペリーは6月11日には江戸湾深くに進入してきたこともあり龍馬が黒船を直接見たであろうことは想像できる。 この直後に家族に戦となったら異人の首を取ると手紙に書いているが、当時の龍馬は純朴な攘夷青年であったのだろう。 佐久間塾 嘉永6年12月1日に龍馬は佐久間象山の..
クリミア戦争 1853年10月にロシアとオスマン帝国の間で戦端が開かれた。クリミア戦争の始まりである。 この戦争にイギリスとフランスが介入して来るという話は以前からあり、開戦前であったプチャーチンの航海中にもイギリスの邪魔があった。 補給と退避 中立地帯である長崎もプチャーチンらにとって安全とも言えず、補給の必要性もあり香港に向かうことになる。川路らの使節団が長崎に到着する前にプチャーチンは長崎を去っていった。 ペリー 香港へ避難したプチャーチンはそこでペリー艦隊と遭遇する。イギリスの妨害で補給が困難であったプチャーチンはペリーに石炭を融通してもらうように頼み、日本との交渉..
全国菊池の会事務局長。https://zenkoku-kikuchinokai.jp/ 市川ジャズ会長。90年バンド『ZIPANG』を結成(15年間休眠中)。新自由主義社会の経済政策は格差社会を作り、資本主義社会の破滅へ。
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