善光寺は長野市大字長野に位置する無宗派の仏教寺院である。善光寺本堂は1953年3月、国宝に指定された。また、三門と経堂は重要文化財である。本堂では床下の真っ暗な通路を通り戒壇巡りが体験できる。長野は善光寺の門前町として発達した都市なので、古くから長野盆地を善光寺平と称していた。遠くとも一度は詣れ善光寺。 牛に引かれて善光寺参り。
テーマは、参加ランキングのカテゴリー・サブカテゴリーに関係なく、記事のテーマが合えばどなたでも参加することができます。
1件〜100件
「関ヶ原の戦い」(1600年)の折の出来事です。いささかの手違いがあって、心ならずも 西軍にその身を置くことにしたのが薩摩国・島津義弘(1535-1619年)でした。戦闘についての作戦もそれなりに具申しましたが、ただ西軍指揮官である石田三成(1560-1600年)はそれに賛意を
江戸時代のあれこれを紹介した本にひょいと出会って、何気にそれを 眺めていたところ、「将軍の一日」というページに行き当たりました。 筆者はこれまで一度たりとも「将軍生活」というものを経験したことが ありませんでしたから興味津々です。 首を突っ込んでみると、ご丁寧にも将軍生活のイラスト入り日課時間割も 添えられています。 しかも、その時間割も親切なことに当時用いられて…
苦労の末に奪取した自らの権力を、わが子・秀頼に継承させるべく心を砕いた晩年の豊臣秀吉(1537-1598年)は、政権運営の一端を配下の有力武将、いわゆる「五大老」に輔弼させる形を取りました。徳川家康・前田利家・毛利輝元らに混じって、五大老には、秀吉に可愛がられてそ
「士農工商」とは、元々は中国・儒教が生んだ身分概念ですが、日本の学校教育などでは、これを江戸時代における身分序列であり、「四民」を偉い順に並べたものだと教える向きもありました。しかし、実際には儒教の概念を超えるものではなく、身分序列というほどに厳密で窮屈
織田信長(1534-1582年)から偏諱の「信」の字を、また下の字「康」を父・徳川家康(1543-1616年)から与えられたのが、後に「切腹」に追い込まれることになる家康嫡男・松平信康(1559-1579年/生前は徳川姓)でした。通説によれば、その「切腹」の発端は信康正室・徳姫が父
~宇宙の中心である中国王朝の文化・思想のみが最高のもので あり、それを持たない周辺(辺境)の異民族は単なる野蛮人に 過ぎない~こうした思想を「中華思想」と呼びますが、これがハンパなものでないことは、東西南北四周の異民族の総てに対して、野蛮人を意味する東夷
太宰府天満宮に立ち寄ったあとは、西鉄二日市駅から天神大牟田線の下り列車に乗車。南下再開します。JRの鹿児島本線が西側を付かず離れずで並走しています。あちらは一旦佐賀県に入って基山や鳥栖など経由していくのに対し、西鉄は佐賀には入らず県境付近の福岡県側を進んでいきます。西鉄小郡駅では急行待ち、更には特急通過待ちで8分停車。そして甘木線の分岐する宮の陣駅に停車。おっ、この駅は・・・。更には筑後川を渡って櫛原駅...
今回のタイトルが本年の大河ドラマのそれをパクったものになっていますが、 それは生来の面倒臭がりが出ただけのことで、決して悪意があってのことでは ありません。 その点、悪しからずご理解くださいネ。 さて、お話は戦国時代。 少しばかり極端な表現が許されるなら、その戦国乱世の常に中心に存在して いたのは少なからぬ尾張者の武将たちでした。 そうしたことは現代の尾張者・…
強い者勝ちという戦国の時世にあって一介の足軽から身を起こし、ついには 最高権力者にまで上り詰めた人物、それが豊臣秀吉(1537-1598年)でした。 ちなみに、この秀吉とその直前に天下の大部分を掌握していた織田信長 (1534-1582年)、さらには秀吉の後に天下を平定した徳川家康
あけましておめでとうございます。 今年も宜しくお願いします。 皆様に、いい波動をお届けできたら幸いです。 幸せいっぱいの一年でありますように。 aimetoitoi.base.shop
慶長5年9月15日(1600年10月21日)、美濃国不破郡関ヶ原(現在の岐阜県不破郡関ケ原町)にて、徳川家康公率いる東軍と石田三成ら西軍が「関ヶ原の戦い」を行いました。 「関ヶ原の戦い」の約3ヶ月前、慶長5年7月25日(1600年9月3日)下野国しもつけのくに小山おやまに布陣していた家康公は、豊臣軍の諸将を集めて軍議を開きます。 この「小山評定おやまひょうじょう」により結束した東軍は、反転して西へ向かい進軍していきます。 今回は「小山評定」が行われた場所である須賀神社をご紹介いたします。
明けまして本年もどうぞ・・・ということで、年初に選んだテーマはこれ。 以前にも取り上げた※ことがありますが、少子高齢化が切実な問題として 語られるようになった昨今の日本の状況です。 (※№474 日本史の「忘れ物」26 人口僅少時代に巻き戻す) その際に「人口動態予測」として挙げたのが…
徳川家康公騎馬武者像は、家康公が松平姓から徳川姓に改姓した25歳当時の姿を模した銅像です。 日本最大級の騎馬像であり、家康公の銅像としてはおそらく唯一の騎馬武者姿の銅像です。 令和元年11月2日に完成したため、現在最も新しい家康公の銅像ではないでしょうか。
住吉神社は東京都中央区佃にある、徳川家康公ゆかりの神社です。 家康公と住吉神社のある佃島の村人たちとの縁は、天正年間に家康公が清和源氏ゆかりの霊廟・多田院を参拝する際に、摂津国・田蓑島の漁夫達が漁船に家康公を乗せて神崎川を渡った所から始まります。 しかし、家康公と佃村の村人たちの出会いにはもう1つの説があります。 その縁は天正10年(1582年)に起きた「本能寺の変」からの「神君伊賀越え」にさかのぼるそうです。
小山評定跡碑は、栃木県小山市中央町1丁目1-1にある記念碑で、同地は「小山評定」が行われた地です。 日本史上最大の野戦合戦「関ヶ原の戦い」の直前に、上杉討伐軍(会津討伐軍)を反徳川勢力討伐軍に転換させた「小山評定」が行われました。 まさに、関ヶ原の戦い開戦前の見所の1つがここで行われたのだと思うと、感慨深いものがあります。
★都合により、しばらくの間(10日~2週間程度)記事の更新をお休みします。☆☆☆前回の「著名人の自宅を探訪~代田・代沢散策(4):服部克久/河口慧海/萩原朔太郎/円乗院」では、世田谷区の代田を散策しながら、服部克久の自宅や文士・著名人の旧宅跡を探訪しました。今回は、代田を散策しながら、中島みゆき、なべおさみなど芸能人・著名人の自宅を探訪します。(※)他の芸能人・著名人関係の記事については、「芸能人・著名人...
今回は、「失われた三田用水遺構と戦艦大和と目黒新富士~三田用水跡散策(6)」での散策場所近くにある史跡を通じて、隠れキリシタンについて考察してみます。また、本記事は「三田用水跡暗渠散策シリーズ」の番外編となりますが、番外編としては本記事の他に以下の2つの記事とシリーズがあります。①「日本最大のイスラム寺院・東京ジャーミイを訪問」②『「芸能人・著名人の自宅」と「湧水」を探訪~代々木八幡・初台・西原・大...
歴史のいわゆる通説・俗説に繰り返し触れていると、単純にそれを史実と受け 止めてしまい、それ以外の見解には妙な違和感を覚えてしまうこともあります。 それどころか、場合によってはヨタ話・トンデモ説ということにして 切り捨ててしまうことさえ珍しくありません。 じつはつい最近のこと、読んでいた本の内容にそうした思いを味わうことが あったので、ちょっとばかりの親切心を発揮し…
六所神社は、松平家初代・松平親氏の時から産土神として信仰されてきました。 松平家9代目となる徳川家康公の産土神として拝礼が行われたのも、この六所神社です。 古くは征夷大将軍・坂上田村麻呂が、東征の折に祈願しました。 境内の社殿等は徳川幕府三代将軍・徳川家光が造営した当時の物が現存しています。
元々は中国・儒教が生んだ概念である「士農工商」は、日本では江戸時代の身分序列を表わしたとされています。また学校の授業では、この「士農工商」は「四民」を偉い順に並べた序列だと教える向きもあるようです。しかし、これはどうやら間違いだと言ってもいいのでしょう。
紅顔の美少年(のはず)だった筆者には、かつて学校授業でこんなことを 学んだ記憶があります。 もっとも、紅顔ではなく厚顔と表現する方が適切だったと評する人も いなかったわけではありませんが、それはともかくとして本題は 江戸幕府での幕政改革についてです。 いわゆる「江戸幕府の三大改革」という歴史用語を教えられました。 ところが筆者の性格が元々、よく言えば素直、別の言…
家康から義直へ 天下統一を果たした徳川家康と、泰平の世に尾張国統治を 任された家康の息子義直。 義直へと受け継がれた治世方針に焦点をあてながら二人の生涯 そして、義直の家康への想いを遺品や史料などから読み解きます 2021年9月12日まで 徳川美術館 愛知県名古屋市東区徳川町1017 ☎052-935-6262 xn--cckkci4eve7kf8f.com
デッチあげ・自作自演の強盗事件を「狂言強盗」と呼んでいるが、ではなぜここに古典芸能である「狂言」との表現が登場するのか、姫隊員は疑問に思ったことはないかえ?考えてみれば、この表現は本家本元の「狂言」に対して大変に失礼な言い方になるような気がするゾ。しかし
今回は、徳川家康公がどんな書籍を読んでいたかについてまとめました。 家康公は読書家であり、本から多くを学び、それが軍略や治世にも活かされています。 では、家康公はどんな書籍を読んで、何を学んでいたのでしょうか。 家康公が手がけた図書館事業や出版事業とあわせて、ご紹介いたします。
今回は、徳川家康公が詠んだ和歌を特集します。 和歌は奈良時代末期に成立した『万葉集』など、日本における伝統芸能でも特に古い歴史を持ちます。 そんな和歌は詠み手の人間性や価値観、経緯や背景、理想や信念が滲にじみ出るものではないでしょうか。 家康公が詠んだ和歌から、家康公の人柄に迫ってみたいと思います。
自分が属する組織に不満を感じる。 これは古今東西誰にもあり得ることで、日本もまたその例外ではありません。 そうした不満人物?の一人に、江戸時代初期の旗本・大久保彦左衛門 (1560-1639年/諱は忠教<ただたか>)を挙げることができそうなのですが、 まずは、その経歴を少し覗いてみることにしましょう。
戦国武将・小早川秀秋(1582-1602年)のプロフィールはこうなっています。○羽柴(豊臣)秀吉(1537-1598年)の義理の甥として 生まれる(奇しくも「本能寺の変」の年)○秀吉の養子(1585年)になり、秀吉妻・おねに育てられる。○養父・秀吉に実子・秀頼(後継者)が誕生
さて、平々凡々とか人畜無害とか、ともかくそのように揶揄されることも 決して珍しくない筆者の生き様からは到底想像できないものの一つに、 いわゆる「数奇な運命」と表現されるものを挙げることができます。 そこには紆余曲折というか波乱万丈が満載されているわけですから、筆者の 平々凡々・人畜無害とはまさに対極にある人生といえます。 そうした「数奇な運命」は何も男性に限ったも…
今回は 都バス S-1 上野松坂屋⇔錦糸町駅 の路線を旅します。 主な経路は上野松坂屋-上野公園山下-上野駅-浅草雷門-とうきょうスカイツリーー押上-錦糸町駅…
徳川家康公は元亀元年(1570年)に三河国・岡崎から本拠地を移して以降、天正14年(1586年)に本拠地を駿河国・駿府に移すまでの17年間、遠江国・浜松を本拠地としていました。 今回は、そんな浜松の家康公ゆかりの地を巡るツアープラン・モデルコースをご紹介いたします。
日本史では「戦国時代」(1467-1590年)に区分されているおよそ100年間は 世界史視点での「大航海時代」(1415-1648年)にちょうど重なっていることに 気が付きます。 それまではせいぜいが中国・朝鮮などアジア地域の国家だけが「外国」だった ものが、これ以降の日本は遠くヨーロッパにも少なからずの「外国」が…
あかがね くろがね 徳川美術館 愛知県名古屋市東区徳川町1017 本展の主人公は「あかがね」と「くろがね」 金属の中でも、派手で豪華な金、銀ではなく 銅と鉄に着目しました。 刀装具などの武具類をはじめ、尾張徳川家に伝えられてきた 金属工芸品を展示しています
今回は、徳川家康公が亡くなった原因だと言われている『鯛の天ぷら』の再現レシピに挑戦しました。 『鯛の天ぷら』といっても江戸時代初期に家康公が召し上がったものは、今日の一般的な『鯛の天ぷら』とは違ったレシピだったようです。 当時は鯛や食用油が貴重であり、天下人であっても天ぷらを食べる機会は少なかったようですが、現代を生きる私たちは簡単に挑戦できます。
三方ヶ原古戦場は、若き日の徳川家康公が軍神・武田信玄に真正面から野戦合戦を仕掛け、生涯唯一の惨敗を喫した「三方ヶ原の戦い」が行われた古戦場跡です。 元亀3年(1572)12月22日、家康公の居城・浜松城の北に広がる三方ヶ原台地にて、徳川・武田両軍が激突しました。 この敗北が、後の家康公を作り上げていく大きなターニングポイントとなりました。
微妙に異なる見解もあるようですが、戦国の世を終焉させた徳川家康(1543- 1616年)が江戸に幕府を開いた1603年から、それに代って明治政府が樹立され た1868年までの二世紀半(265年)ほどの期間を、一般的には「江戸時代」と 呼んでいます。 これより一つ前の時代区分である「安土…
今回の路線バスの旅は、東京駅丸の内南口から 都営バス 都05系統で ウォーターフロント・エリアへ向かいます。 せっかくですから出発前に皇居を見学しましょう。…
今回の路線バスの旅は、 東98 等々力操車場⇔東京駅南口 です。 主な経路は、等々力操車場-都立大学駅北口-目黒駅-白金台駅前-慶大前-赤羽橋駅前-東京タワー…
ひょんな成り行きから、近しい者数人で愛知県丹羽郡大口町にある 「大口町歴史民俗資料館」を訪ねることになりました。 ここら辺の土地勘を持ち合わせている者がいないために、まずはその場所を 調べることから。 すると、筆者の生息地からひたすら北へ30kmほどと判明したので、あとは カーナビ任せに。 これで何事もなくスンナリ到着できるはずでし…
豊臣秀吉(1537-1598年)政権下で、ともに五大老としてその職責を担っていた徳川家康(1543-1616年)と前田利家(1538?-1599年)のその後は以下のようになりました。○1598年 豊臣秀吉の死 (享年62)○1599年 前田利家の死 (享年62?)○1600年 故・利家の妻・まつ(
西来院は、静岡県浜松市にある曹洞宗のお寺です。 西来院には徳川家康公の正室・築山殿(瀬名姫)の霊廟「月窟廟」があります。 築山殿は近年だと、大河ドラマ『おんな城主直虎』にて菜々緒さんが演じて話題になりました。
広沢山普済寺は、静岡県浜松市にある曹洞宗のお寺です。 「三方ヶ原の戦い」で武田信玄に敗れた徳川家康公は、命からがら浜松城に逃げ帰りました。 その晩、家康公は普済寺を焼いて「浜松城が燃えている」と武田勢に思わせ、油断させました。 その直後、犀ヶ崖付近で夜営していた武田勢に対して、大久保忠世らが率いる徳川勢が夜襲をしかけます。 結果、武田勢に痛手を負わせることに成功し、家康公は信玄に一矢報いました。
犀ヶ崖古戦場は静岡県浜松市にある、古戦場です。 徳川家康公が武田信玄に野戦を挑むも惨敗し、浜松城まで逃げ帰った「三方ヶ原の戦い」。 その敗走の晩に、徳川勢が武田勢の夜営地を夜襲しました。 今でも、その急峻な崖に古戦場としての趣を感じることができます。
浜松城は静岡県浜松市にある城跡です。 元亀元年(1570年)、徳川家康公は岡崎城から本拠地を移して以降、天正14年(1586年)に本拠地を駿府城に移すまでの17年間に渡り、この浜松城を本拠地としていました。 今回は合計117枚に及ぶ写真を余すことなく掲載して、浜松城の魅力を大特集いたします。
♪あたまを雲の/上に出し/四方の山を/見おろして/ かみなりさまを/下に聞く/富士(ふじ)は/日本一の山/ 唱歌「富士山」の歌詞にもある通り、日本一高い山は富士山であることは 日本人の常識になっているといっても過言ではありません。 その富士山について、裾野は山梨県と静岡県に広がり頂上は3,776mなどと、 友人とちょっとした雑学競争…
NHK大河ドラマ『麒麟がくる』が次回で最終回をむかえ、本能寺の変が描かれます。歴史好きな人はもちろん、歴史にそれほど興味がない人でも、日本人なら誰もが知っ...
「その2」のつづきです。 天正10年(1582年)2月、甲斐武田征伐に乗り出した織田信長は、同年3月11日、甲州の天目山において武田勝頼を自刃に追い込み...
「その1」のつづきです。 織田信長によって京都を追放された足利義昭は、備後の鞆にいました。鞆は古くから足利将軍家とも所縁が深く、たとえば、初代将軍の足利...
なんか、すごいニュースが飛び込んで来たので取り急ぎ、気持ちを発散しておきたいの巻き!な、なんと、2023年の大河ドラマの主人公が家康様だっていうじゃないですカぁぁぁぁぁ。 ぱちぱちぱちぱち! 正直、家康様没後400年際の時に静岡県民の方々が、徳川家康公を大河の主役にしくださぁい!とNHKに陳情に行ったものの、なんと2015年の大河は宿敵「真田丸」に決定したため、うぉー。これは当分、家康公が主役の大河はや...
元城町東照宮(もとしろちょうとうしょうぐう)は、静岡県浜松市にある神社です。 戦国時代に引間城(曳馬城)があった地に、明治19年(1886年)に建立されました。 かつて、浜松城を本拠地とした徳川家康公を祀っています。
NHK大河ドラマ「麒麟がくる」。武田信玄の駿河侵攻。織田信長の鷹狩り。信長の遠望。武田軍の頭脳。甲陽軍鑑。風林火山。天永寺と天沢。穴山梅雪・高坂昌信・山本勘助…
NHK大河ドラマ「麒麟がくる」。武田信玄の駿河侵攻。武田・北条・今川の三国同盟崩壊。徳川家康の二つの密約。信玄にかけたワナ。北条のかけ引き。信長と謙信の影。さ…
椿姫観音(つばきひめかんのん)は静岡県浜松市にある御堂です。 引間城(後の浜松城)城主・城主飯尾連竜の死後、その妻・お田鶴の方は城を守るために徳川家康公と一戦交え、そして討ち死にしました。 椿姫観音は、そのお田鶴の方を祀る御堂です。
浜松八幡宮は静岡県浜松市にある神社です。 徳川家康公が「三方ヶ原の戦い」で武田信玄に惨敗し、敗走する際に逃げ隠れた雲立楠が現存しています。 また、浜松城の鬼門を護る神社でもあります。
戦国の「なんでもあり」の状況から、最終的な勝者の地位を占めることに なった人物が三河国出身の徳川家康(1543-1616年)でした。 その「なんでもあり」の状況には、家康自身も何度も直面しています。 たとえば、家臣・明智光秀(1528?-1582年)の謀反によって主君・織田信長 …
「その1」のつづきです。元亀2年(1571年)10月、室町幕府15代将軍・足利義昭が下した御内書に応えるかたちで、甲斐の武田信玄が西へ向けて出陣しました。...
遠江分器稲荷神社は静岡県浜松市にある神社です。 古くは征夷大将軍の坂上田村麻呂が東夷征伐の折に神馬を奉納し、源頼朝公が神馬と幣帛を奉納し、徳川家康公が松平忠頼に命じて修造したという由緒があります。 また、家康公を支えた徳川四天王の一人・本多忠勝の屋敷跡が隣にありました。
五社神社・諏訪神社は、静岡県浜松市にある神社です。 五社神社は、戦国時代初期の曳馬城主・久野越中守が城内に創建したのに始まり、後に徳川家康公が三男・徳川秀忠の産土神としました。 諏訪神社は、奈良時代の征夷大将軍・坂上田村麻呂が東征の折に奉斎したのに始まり、こちらも後に家康公が秀忠の産土神としました。
NHK大河ドラマ「麒麟がくる」。武田信玄の駿河侵攻。武田・北条・今川の三国同盟。北条早雲がやって来た。上杉謙信の塩対応。二つの大きな杉とねずみ。東国の複雑な人…
拝啓 皆さま GOTOトラベルして来た~!・・・と、かな~り言いづらくなってきた今日この頃のコロナ状況ですが、いかがお過ごしでしょうか。 や、でも歴史散策は激しく騒いだりしないですし、それはもう大人し~い二人旅ですので、ね。 ・・・テヘ。 寒さも身に染みる季節となり、手洗い・マスク・社会的距離など、予防と配慮がなお一層大事になりますが 皆で気を付けつつこの冬を乗り切りたいですね。...
NHK大河ドラマ「麒麟がくる」。信長の二条城と大イベント。醍醐寺と藤戸石。藤戸の戦い。吉備国と桃太郎伝説。岡山県倉敷市の藤戸。源範頼と源義経。源平合戦・一ノ谷…
浄土宗来迎山峰月院宗仲寺は、徳川家康公ゆかりの寺であり、家康公がお手植えされた銀杏の木が現存しています。 家康公が、鷹狩りの際に立ち寄ったとの言い伝えが残されています。 また、元和3年(1617)家康公のご棺を駿府の久能山東照宮から日光東照宮に移動する際は、この宗仲寺で休憩しました。
NHK大河ドラマ「麒麟がくる」。織田信長の堺・名茶器・今井宗久・朝倉義景・武田信玄・若狭武田家にからむ訴訟の一件。若狭湾の恵みと鯖街道。若狭ひとしお。浜焼き鯖…
NHK大河ドラマ「麒麟がくる」。本圀寺の変って 何か変。三好三人衆を誘い出せ。信長の二条城。松永久秀のクリスマス・プレゼント。織田信長の戦術。朝倉義景と若狭武…
NHK大河ドラマ「麒麟がくる」。茶器「九十九髪茄子」。在原業平と伊勢物語。付喪神と日本人。金華山とキンカ頭。ウサギとミミズク。神話のお話し。織田信長家臣団の呼…
NHK大河ドラマ「麒麟がくる」。織田信長の上洛作戦。足利義昭と信長の入京。義昭将軍。三好勢の敗走。信長の名物狩り。勝竜寺城の戦い。松永久秀を助ける。信長の野心…
NHK大河ドラマ「麒麟がくる」。織田信長の上洛作戦。上洛への根回し。六角氏の内部抗争と苦悩。観音寺城の戦い。運命の桑の実。桑実寺と竹生島事件。琵琶湖に浮かぶ安…
豊臣秀吉(1537-1598年)亡き後の豊臣家を圧倒する形をもって、徳川家康(1543-1616年)が開いたのが江戸幕府(1603年)でした。しかし、幕府の優位性を確保するためには、「仮想敵国」である諸藩を押さえ付けておく必要がありました。そこで、手っ取り早い方法として目を付
NHK大河ドラマ「麒麟がくる」。織田信長の北伊勢侵攻。進むも退くも滝川一益。神戸具盛の交渉。織田四天王と方面軍司令官。運命を変えた人事異動。鉄甲船。清須会議の…
NHK大河ドラマ「麒麟がくる」。織田信長の上洛作戦。足利義昭の岐阜への旅。甲賀と信楽と紫香楽。六角氏と甲賀。斯波氏と紫波。南面の桜に「こころ旅」。志賀理和気神…
NHK大河ドラマ「麒麟がくる」。織田信長の天下布武。浅井長政とお市。朝倉氏と斯波氏。西の丸と京極竜子。立政寺の柿。近江国の人間模様。朝倉義景・六角義賢・蒲生氏…
NHK大河ドラマ「麒麟がくる」。足利義昭の将軍への道。朝倉義景の事情。織田信長・浅井長政 vs 三好三人衆・六角義賢。稲葉良通の一徹人生。戦国時代の生存の厳し…
NHK大河ドラマ「麒麟がくる」。足利将軍後継者選び。松永久秀の壮大な陰謀。終わらない二大勢力の抗争。近衛前久と公家の生き方。トップの器とは。 麒麟(39)器…
NHK大河ドラマ「麒麟がくる」。織田信長の麒麟花押。足利義輝の息子。進士藤延と明智光秀。波多野秀治と丹波国。牧のはりつけ伝説。将軍の子。足利義高・覚山天誉・徳…
今回は東京都江東区にある、浄土宗龍徳山雲光院を訪れました。 雲光院は徳川家康公の側室・阿茶局の発願により、慶長16年(1611年)に増上寺の高僧であった潮呑上人を開山上人として開創されました。 阿茶局の法号である「雲光院」の名が、そのまま寺の名称となっています。
江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』によると、二代将軍・徳川秀忠が「関ヶ原の戦い」や「大坂の陣」の折に戦勝祈願のために「禰宜舞(ねぎまい)」を舞わせた神社との事です。 この「禰宜舞」は一子相伝にて代々受け継がれ、今日でも毎年7月と9月に披露されています。 今日を生きる私たちが、400年前に家康公や秀忠が祈願した舞を観ることができる――歴史ロマンあふれる魅力を感じます。
今回は徳川家康公が江戸と京都を往来する際に宿泊した、中原御殿の跡地を訪れました。 中原御殿は、平塚から江戸城虎ノ門を繋ぐ中原街道筋に建てられた御殿です。 現在、中原御殿の跡地には石碑『相州中原御殿之碑』が建立されているのみですが、中原御殿の裏門が近隣にある善徳寺の三門として移築されて現存しています。
お寺の鐘に刻まれた「国家安康」「君臣豊楽」の言葉が時の天下人・徳川家康公を激怒させ、大坂の陣は起こり豊臣家が滅亡した―― 学生時代、歴史を動かしたこの碑文を、日本史の教科書や資料集で見た人も多いのではないでしょうか。 今回は、京都・東山の方広寺を訪れ、ついにこの歴史的梵鐘を見ることができました。
家康公の旗印「厭離穢土欣求浄土」とは、一体どういう意味なのでしょうか? 今回は徳川家康公の旗印に書かれた「厭離穢土欣求浄土」という言葉の意味と、その言葉に込められた家康公の想いに迫ってみます。
攝取山浄土院東明寺は神奈川県川崎市幸区塚越2-118にある、浄土宗のお寺です。 東明寺という名前は、中原街道沿いにある西明寺にて徳川家康公が名付けました。
NHK大河ドラマ「麒麟がくる」。足利義輝の最期。永禄の変。松永久秀・三好三人衆。辞世の句。二条御所。天下五剣。将軍の花押。向井理さん。 麒麟(37)辞世の言…
戦国の覇者・織田信長(1534-1582年)の家臣であった明智光秀(1528?-1582年)は、主君・信長に対する謀反「本能寺の変」(信長暗殺事件/1582年6月)を決行しました。その直後には、その首謀者・明智光秀に対する、これまた信長家臣・羽柴秀吉(1537-1598年)が弔い合戦と
NHK大河ドラマ「麒麟がくる」。足利義輝・細川晴元・三好長慶・松永久秀の複雑な関係性。朽木谷での思い。たまと伊呂波太夫。足利義昭・六角氏。京都市・滋賀県大津市…
NHK大河ドラマ「麒麟がくる」。織田信長と今川義元の「桶狭間の戦い」。松平元康の決断。信長の陰謀。厭離穢土 欣求浄土。刈谷城の陰謀。清洲同盟。水野信元と石川数…
NHK大河ドラマ「麒麟がくる」。織田信長と今川義元の「桶狭間の戦い」。岡部元信・朝比奈泰朝・朝比奈親徳・瀬名氏俊・鵜殿長照の人生の狭間。名古屋市・岡崎市・豊橋…
NHK大河ドラマ「麒麟がくる」。織田信長と今川義元の「桶狭間の戦い」。桶狭間古戦場。義元の首と胴体。戦人塚。岡部元信の選択。今川氏真の大逆転劇。吉良氏と一色氏…
考えてみれば、宗祖・親鸞(1173-1263年)さんもまったく与り知らないことになりますが、後世の浄土真宗は二つの本山を持つことになりました。一般的には、それを「東本願寺」と「西本願寺」と呼んでいますが、ただし、これは便宜上のことであって、正式にはどちらも「本願寺
NHK大河ドラマ「麒麟がくる」。織田信長と今川義元の「桶狭間の戦い」。勝因と敗因。人事考課と意識改革。必勝作戦。 麒麟(32)桶狭間は人間の狭間(14)「引…
NHK大河ドラマ「麒麟がくる」。織田信長と今川義元の「桶狭間の戦い」。義元の最期。信長公記と太田牛一。戦場につくる狭間。狭間を封鎖せよ。公にしたくない公記。一…
まいど御無沙汰しておりますっ。完全に数カ月ペースのブログになっとる・・・。前回長篠の戦い編がやっと終わったので、続きで長篠旅行のメモリアルやら書いて、一気に武田対徳川の戦&本能寺の変あたりまで書こうかなっ。とも思っていたのですが、マスク作りにドハマりしたりした後、コロナ禍が一端落ち着いたかのようにみえた先月半ば頃に気分転換がてら、ご近所で家康様ゆかりの神社仏閣を探してボチボチ散策してみたところ、タ...
筆者が学校授業で学んだ頃の「江戸時代」の社会については、概ねのところあまり良い評価がされていませんでした。総じて、封建制・士農工商・鎖国・飢饉など、「薄暗いイメージ」で語られる内容が少なくなかったからです。しかし、学校授業から離れ、歴史に対して割合自由で
江戸時代を舞台にしたTV時代劇の劇中に登場した文字を書くシーンでは、 筆記ツールとして毛筆が使われていました。 その数日後、今度は幕末維新を描いたTVドラマです。 ここにも同様のシーンが登場しましたが、筆記ツールはやはり毛筆でした。 さて、こんなプチ体験から、個人的にちょっとした素朴な疑問を持つことに なりました。 ~するってぃと、日本人が…
国政の根幹に関わる問題であり、またそこに外国事情までが重なっていたこと もあって、その後の展開にいささかの複雑さを呈したのが、対馬藩による 国書偽造事件「柳川一件」でした。 第三代将軍・徳川家光(1604-1651年)の治世において告発されました。 これよりはるか昔のこと、聖徳太子(574-622年)が送った国書に対する 隋・煬帝の返書を遣隋使…
本格的な登山シーズンを迎えながらコロナ禍の影響で出かけられないアル ピニストも多かろうという配慮からでしょうか、筆者の生息地(名古屋)の 地元紙・中日新聞(2020・6・5/朝刊)が史的伝説「さらさら越え」を取り 上げました。 歴史好きには少しは知られたお話です。 その見出しには~佐々成政 真冬の北アルプス踏破伝説~とあり、 一回り大き…
仙台藩の初代藩主である伊達政宗には、「遅れてきた戦国武将」とのの異名もあります。いったい何に遅れたのか?政宗が地元・奥州を固めた(政宗23歳)頃には、既に天下は豊臣秀吉のものになっていたのですから、つまり、政宗はバトルロイヤルが演じられていた「戦国の世」に
孔子(前552?-前479年)に始まった「儒教」を新たな形で体系化・発展させた 「新儒教」ともいうべき思想は、その創始者の名を取って「朱子学」と呼ばれ ました。 中国南宋・朱熹(1130-1200年)、つまり「朱子」(朱先生)による 新学問ということです。 じつはこの思想は…
物語はいよいよ桶狭間の戦いへ・・・と思いきや、合戦前の話でした。引っ張りますねぇ。今回はほとんどが創作の回だったので、何を書こうか迷ったのですが、タイト...
最終回まで一年の長丁場という理由もあって、大河ドラマにはこれまで あまり関心を寄せていませんでした。 ところが本年は放送直前に主要配役の一人を演じる女優さんの不祥事、さらに その後には新型コロナウイルスの影響などがあって、何かとその行方に注目 させられました。 そこで、ついでのことに今回、その大河ドラマ「麒麟がくる」の主人公・ <…
~とりわけ有能な官僚だが、武将としては戦下手~ 戦国時代の武将・石田三成(1560-1600年)に対する現代人の平均的な評価は 概ねのところこのあたりに落ち着きそうです。 戦争戦闘の類が得意ではなかったのは確かなようで、そのことは実質的な 大将デビュー戦となった「忍城の戦い」<…
竹千代手習いの間とは、徳川家康公が松平竹千代と名乗っていた幼少の頃、臨済寺の僧侶にして今川義元の名参謀・太原雪斎から手習いを受けていた部屋の再現展示です。 令和2年4月26日放送の大河ドラマ『麒麟がくる』紀行第15回でも、この部屋の再現展示が紹介されました。 竹千代手習いの間は、駿府城公園の東御門・巽櫓に設立された資料館で展示されております。 家康公は今川義元の下に送られて駿府で人質として過ごしていた頃に、雪斎から様々な知識を学び得ており、後の家康公の基礎が出来上がった時期でもありました。
二ヶ領用水とは、徳川家康公が小泉次大夫に命じて作らせた用水路であり、主に現在の神奈川県川崎市を縦断するように流れている神奈川県最古の人工用水路です。 慶長4年(1599年)に普請が始まり、慶長16年(1611年)に竣工した12年に及ぶ難工事でした。 二ヶ領用水という名前の由来は、江戸時代2つの領(稲毛領と川崎領)に流れていた事に由来します。
善光寺は長野市大字長野に位置する無宗派の仏教寺院である。善光寺本堂は1953年3月、国宝に指定された。また、三門と経堂は重要文化財である。本堂では床下の真っ暗な通路を通り戒壇巡りが体験できる。長野は善光寺の門前町として発達した都市なので、古くから長野盆地を善光寺平と称していた。遠くとも一度は詣れ善光寺。 牛に引かれて善光寺参り。
武田神社は山梨県甲府市古府中町にある神社。武田信玄公を祭神とする。躑躅ヶ崎館の跡地に建てられている。旧社格は県社。明治維新後、歴史上の忠臣に追贈を行うことが行われた。大正4年、武田信玄に従三位が追贈されたのを契機に、武田神社奉建会が設立され、大正8年には社殿が竣工し、4月12日には初の例祭が行われた。
甲斐善光寺は山梨県甲府市善光寺にある浄土宗の寺院。山号は定額山。詳しくは定額山浄智院善光寺と称する。長野県長野市にある善光寺をはじめとする各地の善光寺と区別するため甲斐善光寺と呼ばれることが多く、甲州善光寺、甲府善光寺とも呼ばれている。永禄元年、武田信玄によって創建された。信玄は越後の上杉謙信との間で現在の長野県長野市南郊において川中島の戦いを行うがこの際信濃善光寺に戦火が及ぶことを恐れた信玄が、自分の領地である甲斐のこの地に本尊などを移したのだといわれている
恵林寺は、山梨県甲州市塩山小屋敷にある寺院。山号は乾徳山。臨済宗の寺院で、妙心寺派に属する。庭園は国の名勝に指定されている。天正4年4月には、快川を大導師に信玄の葬儀が行われた。天正10年4月3日、天目山の戦いで武田氏が滅亡した後に恵林寺に逃げ込んだ六角義弼の引渡しを寺側が拒否したため、織田信忠軍による焼き討ちにあった。この際、快川紹喜が燃え盛る山門の上で安禅必ずしも山水を須いず、心頭を滅却すれば火も自ら涼しと偈を発して快川紹喜は焼死したことで知られる。信長横死後に甲斐を領した徳川家康により再建され、快川の法嗣も招かれた。また、江戸時代の将軍徳川綱吉時代に側用人であった柳沢吉保の墓所にもなっている。
甲斐の国 風林火山博は、平成19年放送のNHK大河ドラマ風林火山に合わせ、全国からの観光客に向けダイナミックに展開する大型複合イベントです。風林火山関連の展示や各種イベント等を通じ、ドラマの世界をより深く知り、体感していただくとともに、史実に基づき武田信玄の時代や軍師山本勘助について探求します。さらには、山梨県に点在する関連史跡の紹介や厳選した山梨の地場産品などを展示販売する官民協働による博覧会です。山梨県民情報プラザ特設会場。山梨県甲府市丸の内一丁目。甲府駅徒歩5分。
皆さんがたずねたあるいは行きたい、資料館・博物館についての記事を載せてください。 歴史・民俗・考古学の資料が展示されているものを中心に・・・。 内容がずれてもかまいません。 ではよろしく。
邪馬台国の時代から、古墳時代の始まり、その終焉までをテーマに、いろいろと意見交換する場を提供できたらと考えています
真珠湾攻撃について。
松江城北側の内堀に沿った一帯で、市の伝統美観地区。日本の道100選にも選ばれている代表的な松江の観光スポット。かつては中級藩士の武家屋敷が並んでいた地域で、堀川沿いに老松が立ち並び、今も城下町の風情を残している。周辺には、小泉八雲記念館や八雲旧居、武家屋敷、田部美術館など見どころ満載。
兼六園は、石川県金沢市にある日本庭園。広さ約3万坪、江戸時代を代表する池泉回遊式庭園としてその特徴をよく残している。国の特別名勝に指定されている。岡山市の後楽園と水戸市の偕楽園と並んで、日本三名園の一つに数えられる。金沢市の中心部に位置し、旧百間堀を道路とした百間堀通りを橋で渡ったところの石川門から、金沢城を復元中の金沢城公園へと続いている。
在野の研究者の歴史書から学んだ結果をまとめたもの
日野市および周辺の地域情報や歴史にまつわる話を取り上げています。
日本100名城・続日本100名城に関する記事なら何でもOKです
親鸞
令和3年(2021年)の大河ドラマ「青天を衝け」を応援しましょう。
ガイドブックに載っていない、ローマの観光スポットを歴史とともに語る。
夫余(ふよ、朝鮮語: 부여、拼音: Fúyú、正字体:夫餘)は、現在の中国東北部(満州)にかつて存在した民族およびその国家。扶余(扶餘)[1]とも表記される。 https://ja.wikipedia.org/wiki/夫余
町奉行・寺社奉行・公事方勘定奉行、自身番屋・辻番・木戸番、火付盗賊改、関東取締出役、目明し・岡っ引き・手先、囚獄、評定所などに関するトラバ用テーマです。
私が書き残しておかなければ、永遠に埋蔵金が発掘されないであろうと思い、気力と体力のあるうちに30数年前に埋蔵金の研究をしたことを記載する。当時、埋蔵金発掘番組が世間を騒がしていたことを記憶されている方もおられると思うが、日本トレジャーハンティングクラブの代表として、TV局に番組の修正を依頼した経緯なども付け加えておく。
戦後GHQは昭和三年から昭和二十年までに刊行されていた書物のうち7769点を指定し、本屋などで流通していた書籍を没収・廃棄し、戦後の日本人に読めなくしました。 どのような書籍が没収されていたかを調べると、軍国主義的な書籍よりも圧倒的に多いのは、戦勝国にとって都合の悪い史実などが書かれた本であることが分かります。 GHQ焚書は、「国立国会図書館デジタルコレクション」で、3割程度の本がネットで公開されています。実際に読んでみると、戦後詳しく知らされてこなかった史実などが満載です。