在野の研究者の歴史書から学んだ結果をまとめたもの
19日華子さま世界文化賞受賞式典 20日今上雅子さま受賞者と懇談
セット売りは怖い?・・・佳子さま愛子さま二人連れ
また時代は次へ。
11月第4週 18日~24日 ご予定
11月11日~17日 天皇皇后 ご動静
16日 百合子さまお舟入り(2)主に映像
16日 百合子さまお舟入り(1)主に資料
杖なし歩行の魔女ミテコ、東大・自民は腐り切れ。タイタニックのピーヒョロ青年❣️
三笠宮崇仁親王妃 百合子殿下 薨去
【三笠宮妃百合子さま ご逝去】(2)
101歳、三笠宮崇仁親王妃殿下百合子さま ご逝去
ネットで話題のアレコレ、、どんなに上手に隠しても
鴨場のあの子は今どこに。赤坂サティアンが妄想でありますように。
【朗報】なれどモヤっと・・12日 鴨場接待復活が発表される
【ホタ嫁幕間考察ー観点②】様々な観点から物語を読む・其之弍
出雲国風土記 飯石郡 『狭長社(狭長神社)』
ちょっと寄り道...ヤマタノオロチ伝説を巡る旅 『釜石』
あの世とこの世の境界線~出雲国風土記 意宇郡 『伊布夜社(揖夜神社)』と黄泉比良坂
ちょっと寄り道...ヤマタノオロチ伝説を巡る旅 『尾留大明神旧社地』
出雲国風土記 出雲郡 『杵築大社(出雲大社)』 番外編
出雲大社荒垣外摂末社を徹底解説!~出雲国風土記 出雲郡 『杵築大社(出雲大社)』 荒垣外摂末社編
全国の神々が集う!~出雲国風土記 出雲郡 『杵築大社(出雲大社)』 本殿・拝殿編
出雲国風土記 出雲郡 『加毛利社(加毛利神社)』
出雲国風土記 飯石郡 『多倍社(多根神社)』
出雲国風土記 飯石郡 『日倉社(日倉神社)』
出雲国風土記 意宇郡 『佐久多社(嘉羅久利神社)』
出雲国風土記 出雲郡 『杵築大社(出雲大社)』 境外摂末社編
出雲国風土記 大原郡 『船林社(船林神社)』
出雲国風土記 意宇郡 『賣豆貴社(賣豆紀神社)』
出雲国風土記 大原郡 『宇乃遲社(宇能遅神社)』
明治時代の1890年(明治23年)に完成した関門海峡の守り、 下関要塞の火の山砲台。 ここは、当時の施設の一部が今も残っていて、 自由に入ることができます!! (下関要塞火の山砲台) 山口県下関市の関門海峡沿いにある標高268mの山「火の山」。 ここには1888年(明治21年)、下関要塞の一部として「火の山砲台」の建設が始まり、1890年(明治23年)に砲台が完成しました。 下関要塞火の山砲台には、砲台があり、地下にはや指令室、倉庫があり兵舎や倉庫などの構造物が作られていました。 明治維新後、一等国の仲間入りを目指し殖産興業・軍備増強に力を入れる明治政府が、当時のアジア情勢の中、清国の北洋艦隊…
日本海に面した京都府舞鶴港。舞鶴港は、太平洋戦争が終結した1945年(昭和20年) 10月7日に、引き揚げの第一船となる「雲仙丸」が入港してから、以後、13年間で66万人の引揚者を迎えました。 舞鶴引揚記念館はその舞鶴市に、引き揚げやシベリア抑留に関した情報を伝え残そうと1988年(昭和63年)4月に開館しました。 2015年(平成27年)10月10日には収蔵資料のうち570点がユネスコ世界記憶遺産に登録されました。 (終戦で海外にいた日本人が日本へ引き揚げてくる) 1945年(昭和20年)8月15日の太平洋戦終結後、中国東北部の旧満洲や朝鮮半島、 さらに南太平洋など多くの国や地域に残されてい…
京都府舞鶴市にある引き揚げ桟橋(平桟橋)・・・。 中国大陸やソ連などから引き揚げた方々が最初に日本の土を踏んだ場所です。 (最後の引き揚げ港・舞鶴) 太平洋戦争が終結した時、兵隊350万人、民間人310万人の合計660万人以上の日本人が海外に残されていたといわれます。 その引揚げのために舞鶴港の他9港が指定されました。 舞鶴港は終戦から2ヶ月後の1945年(昭和20年)10月7日に引揚の第1船となる「雲仙丸」が舞鶴に入港して2100人が帰国しました。 1950年(昭和25年)以降は、舞鶴港だけが国内唯一の引揚港として、引き続き引揚者を受け入れました。 舞鶴港は1958年(昭和33年)9月の最後…
読売巨人軍のホームグラウンドとして有名な東京ドーム。東京都文京区後楽園にあるこの野球場の敷地内、21番ゲートの前にある、富坂警察署東京ドーム警備派出所の前の階段を下りると2つの石碑があります。 この2つの石碑は、『鎮魂の碑』(ちんこんのひ)と呼ばれるもので、太平洋戦争などで命を落としたプロ野球選手の功績を記念して建てたものです。 (戦争で亡くなった球児を鎮魂) 1937年(昭和12年)7月7日に起きた蘆溝橋事件から始まった日中戦争、さらに1941年(昭和16年)12月8日に始まった太平洋戦争では、多くの野球選手が戦場に赴きました。 そして名投手沢村栄治、吉原正喜、阪神の景浦将といったプロ野球の…
太平洋戦争末期、米軍は日本各地を空襲しました。 空襲時に日本の戦闘機を米軍から守るために隠しておく格納施設=「掩体壕(えんたいごう)」が、各地の飛行場周辺に作られました。 いわば飛行機の防空壕と言った感じです。 (帝都の空の守り) 帝都・東京には1941年(昭和16年)調布飛行場が設置され、同年8月には陸軍専用の 飛行場として使われました。 ここに帝都防空の拠点として「飛行第244戦隊」が置かれ、陸軍の三式戦闘機「飛燕」などが配備されました。 そして陸軍調布飛行場の周辺には、130基もの掩体壕が設置されました。 しかし、その多くは戦後に取り壊されました。 (調布飛行場の掩体壕は4つだけ現存) …
調布飛行場の東隣にある武蔵の森公園。 住所で言うと三鷹市です。 この公園の中に、太平洋戦争中に作られた掩体壕が今もあります。 今回はその1つ。大沢1号を紹介します。 (掩体壕・大沢1号) 調布飛行場は、太平洋戦争中は陸軍の飛行場でした。 調布飛行場は1938年(昭和13年)に計画され、1939年(昭和14年)に着工。 1941年(昭和16年)4月に南北方向1000mと東西方向700mの2本の滑走路が完成します。 太平洋戦争末期に米軍の本土空襲、特に帝都空襲が本格してきます。 そこで陸軍調布飛行場の周辺には、空襲から戦闘機を守るために飛行機の防空壕=掩体壕が作られました。 今の地図だと、大沢1号…
調布飛行場の東隣にある武蔵の森公園。 この中に、太平洋戦争中に作られた掩体壕があります。 今回はその1つ。大沢2号を紹介します。 (調布飛行場に作られた掩体壕:大沢2号) 調布飛行場は1941年(昭和16年)4月に南北方向1000mと東西方向700mの2本の滑走路が完成し、その後、陸軍の飛行場として使用されます。 ここには陸軍の戦闘機・飛燕を中心とした飛行部隊が配置されていました。 現在は、東京から伊豆諸島に向かう飛行機を中心に発着しています。 太平洋戦争中、陸軍調布飛行場周辺には米軍の空襲から戦闘機を守るために、飛行機の防空壕=掩体壕が作られました。 下の地図をご覧ください。赤で囲んだ部分、…
★今回の撮影および資料提供に関して、大膳自治区会の皆様にご協力を頂きました。 皆様、本当にありがとうございました。 「野辺今から体当り」 「このままでは爆撃を受け北九州の街が破壊される。それを阻止するために今から敵機に体当たりします!!」 自らの命と引き換えに故郷の街を空襲から守ってくれた飛行隊員に対し、 地元の方々が感謝の気持ちを忘れずに毎年開催している慰霊祭があります。 今回、その慰霊祭に参加させていただきました。 (体当たりで街を守る) 1944年(昭和19年)8月20日早朝、中国四川省成都を発進したB29重爆撃機が、北九州の八幡製鉄所などの軍需工業を攻撃目標として飛来します。 「敵機襲…
調布飛行場から見て対岸に、「どんぐり山」と呼ばれる高台があります。 住所で言うと東京都三鷹市大沢4丁目です。 現在、私立の保育園があるこの高台からは、調布飛行場を見下ろすことができます。 ここに太平洋戦争時に、空襲で飛来する米軍機を迎え撃つ高射砲が装備され、 東部第1903部隊調布隊が駐留していました。 (帝都防空の高射砲部隊) 1944年(昭和18年)9月、調布飛行場を一望できる見晴らしがいい、どんぐり山の一帯に、首都防衛のため高射砲陣地が置かれました。 ここには「八八式7センチ野戦高射砲」6門が備えられ、仲午六隊長以下186名の東部第1903部隊が陣地を構築し駐屯していました。 1945年…
8月6日・・・1945年(昭和20年)のこの日、 広島に人類史上初の原子爆弾が投下されました。 8月6日は月曜日。広島は快晴。 この時期は夏休み中でしたが、学生や女子挺身隊など多くの人々は朝8時から軍需工場で作業をしていました。 また、空襲で家屋が燃え広がるのを防ぐための建物疎開も行われていました。 テニアン島を飛び立ったB29は、およそ7時間後に広島市上空に到着します。 朝7時9分、空襲警報がなります。広島市民は一旦、防空壕に隠れますが、すぐに警報が解除され、外へ出て作業を行っていました。この時、警報が解除されなければ、多くの人が防空壕の中にいたと思いますが、、。 そして8時15分、原子爆弾…
戦争で人類史上初めて原子爆弾が投下された都市・広島市。 太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)8月6日月曜日の事です。 あれから・・76年目を迎えた2021年(令和3年)8月6日金曜日、 おっさんは広島市を訪れ原爆関係の史跡を歩いてきました。 76年目を迎えた当日に歩いて、そこから見えたものを紹介します。 ★このブログに掲載した昔の白黒写真は、原爆関係の史跡などの案内板などに記載されていたものを引用させてもらっています。 (朝8時から平和記念式典) 2021年(令和3年)の「原爆死没者慰霊式・平和祈念式」(平和記念式典)は、 午前8時から広島市中区の平和記念公園で開催されました。 この日、と…
太平洋戦争中に敵の空襲から航空機を避難させるために作られた掩体壕。 この掩体壕は、日本各地にありますが、築城海軍航空隊に近い、福岡県行橋市稲童地区には、大型の飛行機を格納する巨大な掩体壕が作られ、今も残っています。 (築城海軍飛行場) 「築城海軍航空隊」は1942年(昭和17年)10月に宮崎県富島町(現・日向市)に開隊し、1943年(昭和18年)6月に福岡県の築城に移転して本格的に活動を行います。 福岡県東部のこの地区に飛行場が作られたのは、瀬戸内海や関門海峡を控えた内海航路の要衝であり、また洋上爆撃や電撃作戦や訓練がやりやすかった点が考えられます。 築城飛行場の面積は145万㎡で、長さ180…
8月15日は終戦の日です。 1945年(昭和20年)に、日本がポツダム宣言を受諾し、太平洋戦争の戦闘行為が事実上停止した日です。 この日は水曜日でした。 【読売新聞より引用 発表後50年が経過し著作権は消滅しています】 (時代背景) 1945年(昭和20年)。 日本本土は連日、米軍の空襲にさらされ、ほぼ焼け野原。 空襲が来てもB29には高射砲は届かず、迎え撃つ戦闘機は不足し、飛行機を飛ばす 原料のガソリンもほとんど枯渇していました。 市民生活を見ると、働き手である成年男子が戦場にとられたため農作業従事者や労働力が不足し、国力も低下していました。 食料は配給制になり、物不足が深刻化し、野草やカエ…
福岡県北九州市小倉にある「長崎の鐘」。 被爆地長崎から贈られたものです。 なぜ、「長崎の鐘」が、福岡県北九州市にあるのか・・・ 実は、「長崎原爆」が当初の予定では「小倉原爆」だったからです。 8月9日は北九州市小倉に原爆が落とされる予定でした。 ちょっとしたことで物事が決まったり、その後の事に大きな影響を与える事態が起きたりすることがあります。 今回紹介する小倉原爆もその1つだと思います。 (小倉原爆) 1945年(昭和20年)8月9日は長崎市に原子爆弾が投下された日です。 しかしながら当初、米軍の投下目標地は同じ九州でも福岡県の北九州・小倉でした。 当時の小倉の様子はこちらのブログを読んでく…
終戦の1週間前、1945年(昭和20年)8月8日、当時の日本の工業の心臓部で 鉄鋼生産の拠点だった八幡製鉄所やその周辺の壊滅を目的とした大規模な空襲が起きます。八幡大空襲です。 この八幡大空襲では、約1万4千戸が焼損、約2500人が死傷しました。 この八幡大空襲の慰霊祭が、空襲から76年目となる2021年{令和3年)8月8日 {日}午前9時半に行われたので参加してきました。 (多くの方が亡くなった小伊藤山公園で慰霊祭) 慰霊祭が行われたのはJR八幡駅から徒歩10分ほどの小伊藤山公園です。 今回慰霊祭の会場となった 小伊藤山公園がある周辺は、小伊藤山と呼ばれていた高さ 50メートルほどの小高い丘…
太平洋戦争中には、撃墜したB29の乗組員を、一般市民が殺害する事件が各地で起きています。 日本国民は、米英を鬼畜米英だと憎悪を植えこむ教育を受けていたうえに、身内を戦争で失う、あるいは空襲で家や故郷を焼かれるなどしていたため敵国人に恨みを持っていました。 そのため撃墜されたB29から脱出した米兵を市民が見たときに、強い憎悪と殺意を抱き殺害するという事が起きているのです。 (国領稲荷神社の惨事) B29の乗組員殺害は東京でも起きています。 入手した資料には「国領稲荷神社の惨事」と記されています。 なお、この神社は正式な名称がなく「調布稲荷」「小山稲荷」などとも言われています。 (B29飛来) 戦…
敵の空襲から情報通信機能を守るために作られた地下通信司令部壕が 福岡県行橋市に今も残っています。 (築城海軍飛行場) この地下通信指令壕は「築城海軍航空隊」の施設の一部です。。 築城は、瀬戸内海や関門海峡を控えた内海航路の要衝であり、また洋上爆撃や電撃作戦や訓練がやりやすかった点から1943年(昭和18年)6月に海軍の航空隊が宮崎から移転しました。 築城飛行場の面積は145万㎡で、長さ1800m、幅50mの滑走路が、周防灘に向かって 伸びていて、ここで戦闘機乗組員の訓練や教育が行われました。 筑城飛行場の周囲には敵の空襲から飛行機を格納する、掩体壕が複数作られました。 その1つが稲童1号掩体壕…
戦前、中国東北部に誕生した満州国、 その満州国が滅亡したのが8月18日です。 満州国は1932年(昭和7)年3月1日に、中国大陸の東北部に建国されます。 その前年の1931年(昭和6年)年9月18日、満州事変が勃発すると、関東軍によって満洲全土が占領されます。 そして1932年(昭和7年)3月1日に満州国が建国されます。 満州族で清国最後の皇帝だった愛新覚羅溥儀(あいしんかくら・ふぎ)が満州国の執政に就任し、その2年後には満州国の皇帝になります。 【「満州国建国・溥儀皇帝就任」のブログはココ】 (日本の生命線) 満州は石炭や鉄鉱石などの豊富な資源が取れる地域で、資源の乏しい日本にとっては 重要…
★今回の撮影および資料提供に関して、大膳自治区会の皆様にご協力を頂きました。 皆様、本当にありがとうございました。 「野辺今から体当り」 1944年(昭和19年)8月20日 午後5時、飛来したB29が爆弾を投下する事を察知し、 街が爆撃にさらされるのを防ぐために体当たりを行い、自らの命で街を守った方々が います。 (体当たりで街を守る) 1944年(昭和19年)8月20日早朝、中国四川省成都を発進したB29重爆撃機が、北九州の八幡製鉄所などの軍需工業を攻撃目標として飛来します。 「敵機襲来」の情報を受け、北九州の防空を担当していた山口県の下関にある小月基地では戦闘機が迎撃に発進します。 午後5…
福岡県行橋市稲童地区にある安浦神社。 森に囲まれているこの神社では、太平洋戦争中に受けた空襲の傷跡を見ることができます。 (海軍航空隊の街の神社) この神社がある福岡県行橋市稲童地区には、築城海軍航空隊所属の航空機を格納する 巨大な掩体壕=稲童1号掩体壕や地下通信司令部などが作られました。 稲童一号掩体壕 地下通信司令部 そのためこの地域は米軍の攻撃目標となり、何度も空襲を受けています。 旧築城町史などによると、1945年3月から8月15日まで15回の空襲があったとされています。 中でも8月7日の空襲の被害は大きく、37人の飛行訓練生が死亡し、多くの兵士や 民間人が死傷しています。また、稲童掩…
上の写真は戦前の学校に必ず設置されていた奉安殿(ほうあんでん)です。 奉安殿の中には、御真影と呼ばれていた天皇皇后両陛下の写真と教育勅語を安置していて、奉安殿の前を通るときは立ち止まり服装を正したうえで最敬礼をしていました。 (福岡県行橋市で奉安殿に遭遇) 今回、おっさんは海軍築城飛行場関連の施設の現地見学のため福岡県行橋(ゆくはし)市に行きました。 行橋市内にある大型飛行機を格納していた稲童1号掩体壕の施設の片隅に、奉安殿が 移設されているのを偶然見かけました。 奉安殿!!今までその存在は耳にしていましたが実物を見たのは今回が初めてです。 (奉安殿は昭和10年頃から普及) 1890年(明治2…
伊豆諸島への玄関口である「調布飛行場」は、太平洋戦争中は、帝都の防衛拠点・ 「陸軍調布飛行場」でした。 現在の調布飛行場は滑走路が南北に1本だけですが、戦時中はこのほか東西にもう1本ありました。 この調布飛行場から、飛行第244戦隊の三式戦闘機「飛燕」や五式戦闘機が帝都防空のため出撃していました。 【調布飛行場の掲示板より】 陸軍の三式戦飛燕は、B29が東京上空に近づくと調布飛行場から迎撃に向かいます。 ただし、B29は高度1万メートルを飛行しますが、飛燕はそこまで行けないため、武器や装備を外し機体を軽くして、1万メートルにいきました。装備を取り外したため、体当たりをしてB29を撃墜していまし…
在野の研究者の歴史書から学んだ結果をまとめたもの
日野市および周辺の地域情報や歴史にまつわる話を取り上げています。
日本100名城・続日本100名城に関する記事なら何でもOKです
親鸞
令和3年(2021年)の大河ドラマ「青天を衝け」を応援しましょう。
ガイドブックに載っていない、ローマの観光スポットを歴史とともに語る。
夫余(ふよ、朝鮮語: 부여、拼音: Fúyú、正字体:夫餘)は、現在の中国東北部(満州)にかつて存在した民族およびその国家。扶余(扶餘)[1]とも表記される。 https://ja.wikipedia.org/wiki/夫余
町奉行・寺社奉行・公事方勘定奉行、自身番屋・辻番・木戸番、火付盗賊改、関東取締出役、目明し・岡っ引き・手先、囚獄、評定所などに関するトラバ用テーマです。
私が書き残しておかなければ、永遠に埋蔵金が発掘されないであろうと思い、気力と体力のあるうちに30数年前に埋蔵金の研究をしたことを記載する。当時、埋蔵金発掘番組が世間を騒がしていたことを記憶されている方もおられると思うが、日本トレジャーハンティングクラブの代表として、TV局に番組の修正を依頼した経緯なども付け加えておく。
戦後GHQは昭和三年から昭和二十年までに刊行されていた書物のうち7769点を指定し、本屋などで流通していた書籍を没収・廃棄し、戦後の日本人に読めなくしました。 どのような書籍が没収されていたかを調べると、軍国主義的な書籍よりも圧倒的に多いのは、戦勝国にとって都合の悪い史実などが書かれた本であることが分かります。 GHQ焚書は、「国立国会図書館デジタルコレクション」で、3割程度の本がネットで公開されています。実際に読んでみると、戦後詳しく知らされてこなかった史実などが満載です。