在野の研究者の歴史書から学んだ結果をまとめたもの
1件〜100件
亀岡の那須与一堂(1)
■「近鉄全線3日間フリーきっぷ」で一人旅をしてくるよ(その7)紅葉の吉野へ電車旅『吉水神社』(奈良県吉野町)
那須与一ゆかりの駒立岩
月夜の駒つなぎ
江戸川柳でたどる偉人伝(源平合戦時代②)源義経・武蔵坊弁慶・静御前・平景清・那須与一・曾我兄弟・文覚・西行・巴御前
那須与一ゆかりの祈り岩
弁慶鍋ころがし(神奈川県川崎市麻生区)を訪問しました
【武都】章「参考文献」六・逆説の日本史 5 ~中世動乱編
那須与一ゆかりの即成院(2)
寿福寺(神奈川県川崎市多摩区)を訪問しました
【武都】章「参考文献」壱・日本の歴史09~頼朝の天下草創
九郎明神社(神奈川県川崎市麻生区)を訪問しました
阿野時元の墓
怪人編25/戦闘巧者だが常識オンチでも
那須与一の孫・愚咄ゆかりの弘誓寺
現代日本ではとんと見られることがなくなった「天然痘」も、実は明治時代に入るまではかなり猛威をふるっており、その凄まじい病状自体がまた「恐怖の対象」になっていた。仮に運よくこの「病状」を乗り越えられたとしても、はっきり天然痘跡が残る人も少なくなく、実際、幕
前述の通り、源実朝は、大江広元に対して、源氏の正統な血統は、自分の代で終わり、子孫が継ぐことはないと述べており、生涯、子供ができないことを自覚していたと思え…
前節、「北条義時」と、本節「源家滅亡」は、年代順に記述していない。 最大の理由は、源実朝の治世を年代順に記述すると、一節では、収まらなくなり、特に、和田義盛…
1213年(建暦三年)5月3日、和田義盛の乱が、鎮圧されると、戦後処理が行われた。 同年9月19日、日光山別当の法眼弁覚が、大夫阿闍梨重慶が、謀反を企ててい…
北条義時は、1205年(元久二年)閏7月の牧氏事件によって、父の北条時政を追放し、第二代執権の座に就いたことは、既に述べた。 父の時政の性急な権力独占が、多…
「丙辰丸」「庚申丸」を建造した「恵美須ヶ鼻造船所跡」 今回は、山口県萩市にある萩の産業遺産群の一つ「恵美須ヶ鼻造船所跡」をお届けします。 萩の産業遺産群には、萩城下町、萩反射炉、恵美須ヶ鼻造船所跡
毛利元政が絶えず身に付けていた、父・元就の歯 今回は、山口県周南市熊毛にある、毛利氏ゆかりの地「毛利元就公歯廟」をお届けします。 中国地方の覇者、毛利元就は、軍略・政略・謀略に優れた武将で、一代の
人為的災害として、犠牲者の多さでは日本史上でも指折り数えられるであろう一つが「明暦の大火」(別名・振袖火事/1657年)だ。その数は10万人以上にもなったようだから、彼らを葬ってやろうにも人数が多すぎて、とてもじゃないが民間だけでは対応し切れない。そこで幕府が
前述の通り、源実朝は、1203年(建仁三年)9月、十二歳の年、征夷大将軍に任官した。 当初、外祖父の北条時政が、執権として、実権を握っていたが、牧氏事件によ…
日本人の歴史教科書と言われる、NHKの大河ドラマは、2024年までの六十三作までに、北条政子、豊臣秀吉の妻のねね、川上貞奴、春日局、日野富子及び、前田利家の…
1206年(建暦三年)5月3日、朝比奈義秀は、鎮西の住人である、小物資政を討ち取り、土屋義清、古郡保忠と、三騎、轡を並べて、敵陣に突入すると、将軍の軍勢を攻…
年(建暦三年)5月2日午後六時、和田軍は、一斉に大倉御所を襲撃して、御所を警護する、将軍の軍勢、北条泰時、北条朝時、足利義氏等の兵と合戦に及んだ。 そして、…
北条義時の思惑とは異なり、将軍の源実朝は、泉親衡の乱は、終焉し、危機は去ったと認識していた。 泉親衡の乱の目的は、北条義時の打倒であり、将軍の源実朝ではなか…
少々乱暴に言い切ってしまうなら、明治に入った頃のいわゆる「文明開化」とは、日本が従来使用していた「モノサシ」を西欧製のそれに切り替えることだったのかもしれん。いい例が、伝統ある?「チョンマゲ頭」から割合素気ない「ザンギリ頭」への転換だが、ひょっとしたら女
1213年(建暦三年)3月9日、源実朝の意向の名目によって、和田義盛の一門、九十八人の面前で、北条義時の郎党、金窪行親、安東忠家は、和田胤長を二階堂行政に引…
泉親衡の乱に参加していたのは、和田義盛の四男の和田義直及び、五男の義重、そして、和田義盛の弟、義長の息子の胤長である。 三人が、泉親衡の乱に参加したのは、武…
泉親衡の乱は、首謀者の泉親衡の逃亡及び、その与同者達の配流及び、恩赦によって、終焉を迎えた。 しかし、泉親衡の乱は、鎌倉の武家政権の草創以来の最大の内乱の発…
千葉成胤が、安念を北条義時に引き渡した。 義時の郎党である、金窪行親の尋問の結果、安念は、謀反の全容を自白した。 首謀者は、泉親衡、与同の武士は、張本百三十…
源実朝は、北条義時が、自身の郎党を武家政権の御家人に列することを認めなかった。 義時の嘆願を却下したため、実朝は、和田義盛の上総介への推挙を認めることができ…
1209年(承元三年)5月12日に、源頼朝の挙兵以来の功臣下、侍所別当の和田義盛が、上総介任官の推挙を源実朝に求めた。 和田義盛は、三浦義明の孫であり、三浦…
橘氏の出身で唯一皇后に立てられた女性、それが第52代・嵯峨天皇の皇后となった橘嘉智子(786-850年/享年65)であり、仏教への信仰が篤く、日本最初の禅院・檀林寺を創建した事績から死後「檀林皇后」と諡号された。千年以上経った今もなお、世に類なき美貌の持ち主だった、
源実朝は、1203年(建久三年)の比企氏の乱の動乱と共に征夷大将軍に就任し、二年後の1205年(元久二年)、畠山重忠の乱及び、牧氏の変が、勃発している。 源…
2022年の大河ドラマ、『鎌倉殿の13人の』主人公は、北条義時である。 後世、鎌倉幕府と呼ばれる、武家政権の構築者、政治的天才の源頼朝及び、瞬く間に、平家を…
1205年(元久二年)8月7日、牧氏の変の翌月、下野国の有力御家人、宇都宮朝綱が、謀反を疑われた。 宇都宮頼綱は、宇都宮業綱の息子で、宇都宮朝綱の孫に当たる…
源頼朝は、「坂東武士の鑑」として、畠山重忠に、「頼朝の後胤」を護ってくれるように、慇懃の詞を尽くしていた。 しかし、畠山重忠は、比企氏の乱の際、妻の父、北条…
平朝雅は、源義光の四男、源盛義の孫である。 源義光の長男の義業は、常陸国の佐竹氏、次男の義清は、甲斐源氏の祖となり、佐竹氏及び、甲斐源氏は、治承・寿永の乱の…
牧の方は、北条時政の後妻で、北条政子、北条義時、阿波局、北条時房の継母である。 北条時政は、1138年(保延四年)の生まれのため、1180年(治承四年)の源…
日本列島をいくつかに分ける場合、代表的なひとつが北から順に、北海道/東北/関東/中部/近畿/中国/四国/九州、この「八つ」の地方に分割する方法だ。まあ、これには異議もないと思うがダ、ひょっとして、ヒメ隊員はこんな疑問を抱いたことはないか?~「中国地方」の
北条義時は、畠山重忠討伐に疑念を抱く、御家人達を見て、事実関係を確認していった。 父の北条時政が、言葉を失い、畠山重忠の謀反は、冤罪であると証明されたが、源…
1205年(元久二年)6月22日、鎌倉は、謀反が発生したと大騒ぎとなり、御家人達は、謀反人を誅するべく、由比ヶ浜へ先を争って走った。 畠山重忠の嫡子の重保は…
坊門信清は、京の朝廷の後鳥羽上皇の外叔父であると同時に、鎌倉の三代征夷大将軍、源実朝の義父になった。 坊門信清は、朝廷の頂点の上皇及び、鎌倉の頂点の将軍、双…
1204年(元久元年)9月10日に始まった、平賀朝雅の平家残党軍との合戦は、三日後の12日には、鎮圧され、その後、伊賀国の残党が、追討された。 わずか、三日…
源全成の死後、北条時政が、千幡の乳母夫の立場になったが、乳母は、北条時政の娘、阿波局のままであった。 牧の方は、北条政子、北条義時、阿波局にとって、継母のた…
熊谷、天野らの殉教碑とキリシタン信徒が眠る墓 今回は、山口県萩市にある「萩キリシタン殉教者記念公園」をお届けします。 政府によるキリシタン迫害により、あまたの命を落とした信徒たちがいます。&nbs
当時の光景が思い出される「山県有朋誕生地」 今回は、山口県萩市にある「山県有朋誕生地」をお届けします。 山県有朋は、奇兵隊総督、明治以来日本陸軍の第一人者となり、首相(2回)枢密院議長を歴任し「元
大砲のレプリカや大砲鋳造遺構がある「郡司鋳造所遺構広場」 今回は、山口県萩市にある「郡司鋳造所遺構広場」をお届けします。 松陰神社のほど近くには「郡司鋳造所遺構広場」があり、公園になっています。&
世界遺産「大板山たたら製鉄遺跡」 今回は、山口県萩市にある「大板山たたら製鉄遺跡」をお届けします。 たたら製鉄とは、千年以上の歴史を持つ日本在来の製鉄技術です。 炉の中で原料の砂鉄と燃料
源実朝は、1192年(建久三年)8月9日、源頼朝と北条政子の次男として、生まれた。 同年7月12日、源頼朝は、念願の征夷大将軍に任官しているため、実朝は、生…
ヒメ隊員はおそらく、「国定教科書」ってものを御存知ではなかろうから、始めに少し簡単な説明をしておこう。~日本では1903年(明治36)から小学校の教科書が国定と され、忠孝の教育が強調されたが、1948年(昭和23)以降は 教科書検定制度に移行した~つまり戦前は忠孝
1203年(建久三年)9月5日、源頼家は、危篤を脱し、意識を回復すると、嫡子の一幡及び、比企一族の滅亡を知ると激昂した。 源頼家は、堀親家を使者として、仁田…
1203年(建久三年)9月2日、北条時政が、比企能員を暗殺すると、能員の従者達は、能員の暗殺を比企一族に伝えた。 比企能員の息子の宗員、時員、五郎、猶子の河…
源全成が、誅殺されると、同年7月16日、全成の三男、阿野頼全が、京の東山延年寺で、源仲章によって、誅殺された。 四男の阿野時元は、外祖父の北条時政、叔母の北…
前述の通り、1199年(正治元年)10月、梶原景時弾劾事件によって、梶原景時は、失脚。 翌年の正月20日、景時は、戦死した。 その三日後の正月23日、三浦義…
佐々木盛綱は、越後、佐渡、信濃国から参じた、御家人達を編成し、阿賀野川を渡った。 佐々木盛綱は、城資盛に軍使を使わすと、資盛は、鳥坂城の付近で戦闘を行うと返…
梶原景時の変の一年後、1201年(建仁元年)正月23日夜、城長茂が、京の三条大路南の東洞院大路東に所在する、小山朝政の邸宅を襲撃した。 朝政は、この時、大番…
「京都守護職/会津藩松平肥後守容保中将/御預浪士/ 新選(撰)組」(前身は壬生浪士組).これが「新選(撰)組」の正式な名称ということになる。ただ、「新選組」と「新撰組」の表記については、さして拘りがなかったのか、局長の立場にあった近藤勇(1834-1868年)自
梶原景時は、源頼朝の死後、わずか、一年後に滅ぼされた。 十三人の合議制は、解体し、鎌倉の有力御家人の権力闘争の皮切りとなった。 そして、その最終的な勝者が、…
1199年(正治元年)12月29日、梶原景時の鎌倉追放後、事件の発端である、結城朝光の兄の小山朝政が、景時に代わり、播磨国守護になり、同時に、美作国守護は、…
三浦義澄・三浦義村・千葉常胤・千葉胤正・畠山重忠・小山朝政・結城朝光・足立遠元・和田義盛・和田常盛・比企能員・藤原朝光・二階堂行光・葛西清重・八田知重・大井…
源頼朝の死後、鎌倉殿になったのは、北条時政の娘、北条政子の息子、源頼家である。 源頼朝は、1182年(寿永元年)の頼家の誕生時、比企尼の養子の比企能員、比企…
1199年(正治元年)正月11日、源頼朝の重病危急の情報は、18日には、京都伝わり、世情は、不穏な空気に包まれた。 村上源氏の嫡流、土御門通親は、その前年に…
2022年の大河ドラマ、『鎌倉殿の13人』において、三浦義村を山本耕史が演じたため、義村の知名度は、飛躍的に上昇した。 大河ドラマの放送前、三浦義村の名を知…
日本神話にはこんなエピソードが語られている。~天照大神の孫・ニニギノミコト(瓊瓊杵命)は「天孫降臨」 を果たした後に、 木花咲耶姫(コノハナノサクヤヒメ)に 出合い求婚したところ、姫神の父親はこの縁談を大いに喜び、 姉の石長姫 (イワナガヒメ)まで差し出
范蠡は、同じく、勾践の家臣、文種に手紙を書き、「狡兎死して走狗烹られ」を説くと、更に、「越王の容貌は 長頸烏喙(首が長くて口がくちばしのようにとがっている)…
稲毛重成は、秩父一族の畠山重能の弟、小山田有重の息子で、畠山重忠の従兄弟である。 1180年(治承四年)の源頼朝の挙兵の際、父の小山田有重は、畠山重能と共に…
1186年(文治二年)、源義経の愛妾の静御前が、源頼朝の命で、鶴岡八幡宮にて、白拍子の舞を披露したとき、重忠は、銅拍子を打って、伴奏を務めた。 翌年、畠山重…
畠山重忠の軍勢は、源頼朝の許に向かおうとした、三浦一族の軍勢と鎌倉の由比ガ浜で、遭遇する。 三浦一族の惣領、三浦義明の娘は、畠山重能の妻であり、縁戚関係のた…
畠山重忠は、秩父平氏の一族の嫡流、畠山重能の嫡子である。 重忠は、武勇の誉れ高く、清廉潔白な人柄によって、存命中から、「坂東武士の鑑」と称された。 後世、良…
1810年2月16日、ウィーンにおいて、2月7日のナポレオン及び、マリー・ルイーズの婚姻契約が、批准された。 2月23日、ナポレオンは、未だ、会ったことのな…
織田信長(1534-1582年)についての一代記「信長記」には、太田牛一(1527-1613年)の手によるものと、これとは別に小瀬甫庵(1564-1640年)が著したものがあって、両者を区別するために、一般的には牛一版を「信長公記」(1600年頃?)、甫庵版を単に「信長記」または「甫庵
呉の滅亡を招いた、傾国の美女である、西施は、出身地の苧蘿村に「施」の姓の家族が、東西二つの村に住んでいて、彼女は、西側の村に住んでいたため、西村の施との由来…
葛西清重は、桓武平氏良文流の秩父一族の庶流、豊島清元の息子である。 秩父一族は、平良文の孫、平将常が、武蔵国秩父郡中村郷を所領として、秩父氏を称した。 将常…
下河辺行平は、小山政光の弟、下河辺行義の息子で、下河辺政義の兄である。 行平は、小山朝政、結城朝光の兄弟の従兄弟であり、宇都宮朝綱、八田知家の兄弟の縁戚にな…
結城朝光は、小山政光の四男で、源頼朝の乳母の一人、寒河尼の息子である。 寒河尼は、八田宗綱の娘であるため、朝光は、宇都宮朝綱及び、八田知家の母方の従兄弟に当…
小山朝政は、秀郷流藤原氏の二代当主である。 父の小山政光は、太田行政の四男であり、武蔵国の太田氏は、秀郷流藤原氏の嫡流を称していた。 政光は、下野国小山を所…
1809年12月26日、ロシア皇帝、アレクサンドル1世は、自身の妹のアンナ大公女と、ナポレオンとの婚姻について、ポーランド王国を再興しないことを約束する、条…
吉田松陰誕生地 今回は、山口県萩市にある「吉田松陰誕生地」をお届けします。 萩城下が一望できる風光明媚な場所に、吉田松陰の実家、萩藩士杉家(家禄26石)の旧宅地がありました。 松陰は、天
「天を回らし、戦いを好転させる」ー人間魚雷「回天」ー 今回は、山口県熊毛郡平生町にある「人間魚雷回天」の資料が展示してある「阿多田交流館」をお届けします。 太平洋戦争(1941〜1945)の終わり
「英雲荘」ー2011年から10年をかけて修復した庭園ー 今回は、山口県防府市にある三田尻御茶屋旧構内「英雲荘」をお届けします。 昨年も見学に行きブログに記事を書いていますが、また違った視点で「英雲
さて、時代は江戸開発が盛んになった頃、そのことによって必然的に干拓地が増えた。また、それに伴ないそこには鰻も棲みつくようになったそうだ。そして、そうした鰻(江戸前)を労働者たちが食べるようになり、さらにはそれがキッカケとなって今日の「鰻食」が普及したとさ
越王勾践は、范蠡及び、文種の補佐を受け、着々と越の国力を増大させ、呉王房への復讐の機会を伺っていた。 伍子胥、孫武がいなくなり、夫差は、中原進出にばかりに目…
神体山・磐座・ご神木など『風土記』の時代から続く原始信仰の絶景を紹介します A magnificent view of an ancient Japanese shrine and temples
宇都宮朝綱は、藤原北家道兼流の宇都宮氏の第三代当主である。 藤原道兼は、藤原道長の同母兄で、「七日関白」と呼ばれた。 藤原道兼の曽孫の藤原宗円は、前九年の役…
千葉常胤は、桓武平氏良文流の上総氏と分裂した、房総平氏の千葉氏の三代当主であり、上総広常とは、又従兄弟に当たる。 千葉氏の相馬御厨は、下総守藤原親通、源義朝…
佐々木四兄弟は、宇田源氏の近江国佐々木荘を地盤とする、佐々木秀義の息子達である。 佐々木秀義は、保元の乱、平治の乱では、源義朝に従ったために、佐々木荘を追わ…
加藤景廉は、利仁流藤原氏の出身で、元々、伊勢国を本拠地としていた。 しかし、父の加藤景員が、伊勢国の平家の家人を殺したため、父及び、兄の光員と共に伊勢国を離…
タレーランは、ナポレオンの新「皇后」問題が、自分の復権の契機になると考えていた。 そのために、盟友のメッテルニヒと共に、マリー・ルイーズの擁立を画策したので…
後に日本最初期の職業写真師のひとりに数えられることになる上野彦馬が生まれたのは1838年。 奇しくもその翌年(1939年)、写真(銀板写真/ダゲレオタイプ)技術が発明され、その影響もあって、早くも1840年代には欧米で一種の「肖像写真」ブームが見られたそうだ。とはい
紀元前485年、呉王夫差は、水軍を率い、斉を攻撃した。 当時の斉は、魯に亡命していた、悼公の殺害の直後であったが、斉軍は、呉軍を撃退した。 晋の宰相、趙鞅は…
神体山・磐座・ご神木など『風土記』の時代から続く原始信仰の絶景を紹介します A magnificent view of an ancient Japanese shrine and temples
大庭景義は、桓武平氏良文流の鎌倉景正の曽孫である。 鎌倉景正は、大庭御厨を開発し、鎌倉景継が、大庭御厨を継承して、大庭氏を称した。 源頼朝の父である、源義朝…
天野遠景は、藤原南家工藤氏の一族で、藤原景光が伊豆国田方郡天野郷を所領として、天野藤内と称し、その息子が、遠景である。 天野遠景の生没年は、不明であったが、…
岡崎義実は、三浦義継の四男で、相模国大住郡岡崎を所領とし、岡崎氏を称した。 即ち、三浦義明の末弟のため、三浦義澄の叔父、和田義盛、三浦義村の大叔父に当たる。…
神体山・磐座・ご神木など『風土記』の時代から続く原始信仰の絶景を紹介します A magnificent view of an ancient Japanese shrine and temples
本項では、十三人の合議制に選ばれていないが、源頼朝の武家政権構築に功績のあった、御家人達を紹介する。 筆者は、個人的には、源頼朝の天下草々において、北条時政…
シェーンブルンの和約後、ナポレオンは、オーストリアにウィーンを返還して、パリに帰還した。 既に、ナポレオンは、自身の生涯の私生活にとって、最大の決意を固めて…
神体山・磐座・ご神木など『風土記』の時代から続く原始信仰の絶景を紹介します A magnificent view of an ancient Japanese shrine and temples
「関ケ原の戦い」(1600年)の直前の話だが、当時豊臣方(西軍)を切り盛りしていた故・豊臣秀吉の腹心・石田三成(1560-1600年)は、有力武将を味方につけるべく、その妻子を人質に取る作戦をとった。人質を大坂城に留め置くことで、彼らが徳川方(東軍)につくこと、それと
伍子胥が、闔閭に夫差を太子にするように進言したのは、夫差の兄弟である、公子子山との後継者争いを防ぐためであった。 夫差は、闔閭が、「勾践が、父を殺したことを…
神体山・磐座・ご神木など『風土記』の時代から続く原始信仰の絶景を紹介します A magnificent view of an ancient Japanese shrine and temples
梶原景時は、政治的感覚が、鋭いため、頼朝の武家政権構想を理解していたと思われる。 源頼朝にとって、安達盛長が、最も心を許せる、家臣であったのに対して、梶原景…
神体山・磐座・ご神木など『風土記』の時代から続く原始信仰の絶景を紹介します A magnificent view of an ancient Japanese shrine and temples
梶原景時は、1140年(保延六年)、梶原景清の次男として、生まれた。 別説では、景時は、景清の父、景長の息子とされる。 何れにせよ、梶原氏は、後三年の役で、…
比企能員は、源頼朝の乳母、比企尼の甥と言われる。 比企掃部允と妻の比企尼の間には、男子に恵まれなかったため、能員を養子とした。 しかし、能員が、比企尼の甥で…
安達盛長は、1135年(保延元年)の生まれであるが、享年からの逆算に過ぎず、実際の生年は、不明である。 安達盛長は、源頼朝が、十四歳の年、伊豆国に配流される…
神体山・磐座・ご神木など『風土記』の時代から続く原始信仰の絶景を紹介します A magnificent view of an ancient Japanese shrine and temples
スールト元帥の撤退後に、クロード・ヴィクトル=ペラン元帥率いる、スペイン駐留のフランス軍、2万3千人が、ポルトガルに進軍した。 ウェリントン公爵は、スペイン…
神体山・磐座・ご神木など『風土記』の時代から続く原始信仰の絶景を紹介します A magnificent view of an ancient Japanese shrine and temples
秦の哀公は、「楚は無道だが、このような忠臣がいるのであれば、滅ぼすべきでない」と、申包胥の様子に心を打たれ、援軍の要請に応じ、戦車を五百台投入して、楚に向か…
神体山・磐座・ご神木など『風土記』の時代から続く原始信仰の絶景を紹介します A magnificent view of an ancient Japanese shrine and temples
在野の研究者の歴史書から学んだ結果をまとめたもの
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親鸞
令和3年(2021年)の大河ドラマ「青天を衝け」を応援しましょう。
ガイドブックに載っていない、ローマの観光スポットを歴史とともに語る。
夫余(ふよ、朝鮮語: 부여、拼音: Fúyú、正字体:夫餘)は、現在の中国東北部(満州)にかつて存在した民族およびその国家。扶余(扶餘)[1]とも表記される。 https://ja.wikipedia.org/wiki/夫余
町奉行・寺社奉行・公事方勘定奉行、自身番屋・辻番・木戸番、火付盗賊改、関東取締出役、目明し・岡っ引き・手先、囚獄、評定所などに関するトラバ用テーマです。
私が書き残しておかなければ、永遠に埋蔵金が発掘されないであろうと思い、気力と体力のあるうちに30数年前に埋蔵金の研究をしたことを記載する。当時、埋蔵金発掘番組が世間を騒がしていたことを記憶されている方もおられると思うが、日本トレジャーハンティングクラブの代表として、TV局に番組の修正を依頼した経緯なども付け加えておく。
戦後GHQは昭和三年から昭和二十年までに刊行されていた書物のうち7769点を指定し、本屋などで流通していた書籍を没収・廃棄し、戦後の日本人に読めなくしました。 どのような書籍が没収されていたかを調べると、軍国主義的な書籍よりも圧倒的に多いのは、戦勝国にとって都合の悪い史実などが書かれた本であることが分かります。 GHQ焚書は、「国立国会図書館デジタルコレクション」で、3割程度の本がネットで公開されています。実際に読んでみると、戦後詳しく知らされてこなかった史実などが満載です。