在野の研究者の歴史書から学んだ結果をまとめたもの
「その4」のつづきです。備中高松城跡から南西へ1kmほど離れたところに、かつての高松城水攻めの際に羽柴秀吉が築いたとされる堤防の一部が現存しています。 こ...
「その3」で紹介した清水宗治自刃の地跡のすぐ近くに、「ごうやぶ遺跡」という高松城水攻めの関連史跡があります。 写真は、その誘導板。その説明文によると、宗治...
首里城の続きです。 今度は内側の「西のアザナ」付近です。 西のアザナ付近にあるガジュマル 西のアザナ付近は多種多数の植樹がされており、まるで自然公園のようでした。 そしてやっぱり自撮りしておく… で、これが西のアザナかぁ~と思っていたら、ここはまだ西のアザナへ向かう途中の広場だったんですね。 「アザナ」というと、古い言い回しだと綽名(あだな)の事だったりしますので…西の綽名ってなんぞ?? と思っていたら沖縄でのアザナは物御台の意味だそうす。 というわけで、更に先に進むとちょっと小高くなっているところがありました。 首里城西のアザナからの眺め 首里城には「西のアザナ」の他に「東のアザナ」もあり、…
豊後竹田からまだ日のあるうちに大分市に戻れたので、急いで大分府内城も見学することにしました。日本100名城登城86城目です。大分府内城について大分府内城全体図(現地案内板より)歴史慶長2年(1597年)豊臣家家臣の福原直高ふくはら なおたか
松山城について松山城全体図(現地の案内板より)歴史関ケ原の合戦での功績によりこの地を与えられた伊予国正木城(松前)城主・加藤嘉明によって、慶長7年(1602年)に築城が開始されました。嘉明は慶長8年(1603年)に正木城からこの地に移り、地
松山城の次は、同じ松山市内にある湯築城へ向かいます。日本100名城80番、登城90城目です。湯築城について歴史湯築城は、建武2年(1335年)に伊予国守護の河野氏によって築城されました。その後250年にわたって河野氏の居城でしたが、天正13
旅行3日目の午後は、100名城82番、登城92城目の伊予大洲城です。伊予大洲城について歴史鎌倉時代末期の元弘元年(1331年)、守護・宇都宮豊房が築城したのが伊予大洲城の始まりと言われています。その後長く伊予は宇都宮氏の支配下にありましたが
愛媛旅行最終日、午前は日本100名城79番の今治城です。登城93城目です。今治城について歴史慶長7年(1602年)に藤堂高虎によって築城開始、慶長9年(1604年)に完成しました。慶長13年(1608年)に高虎は伊勢国の津に国替えとなりまし
山陽・山陰旅行1日目、最初の見学地は、岡山県総社市にある鬼ノ城きのじょうです。日本100名城69番、登城77乗目です。鬼ノ城について歴史鬼ノ城は、天智2年(663年)の白村江はくすきのえの戦いで敗れた大和朝廷が、防衛のために築いた防衛施設の
山陽・山陰旅行第1日。総社から伯備線で倉敷へ向かい、山陽本線に乗り換えて、福山へ。というわけで、午後は日本100名城71番の福山城です。登城78城目です。福山城について(登城口の案内図より)歴史福山城は、江戸時代初期に西国の外様大名に対する
萩城について(萩博物館のジオラマ)歴史慶長9年(1604年)、毛利輝元もうり てるもとによって築城が開始され、慶長13年(1608年)に完成しました。輝元は完成を待たず、慶長9年中に入城しています(萩が選ばれたのは幕府の指示で、実は輝元は山
旅行3日目の午後は、出雲からJRの特急で30分移動して、松江城とその周辺の見学です。松江城について歴史関ケ原の戦いで戦功のあった堀尾忠氏ほりお ただうじが初代松江藩主となり月山富田城に入城しますが、月山富田城は中世山城で近世の藩の中心として
旅行4日目は朝から月山富田城がっさんとだじょうへ。日本100名城65番、登城81城目です。月山富田城について歴史月山富田城の始まりは鎌倉時代の承久3年(1221年)頃、鎌倉幕府御家人で出雲源氏の祖である佐々木義清ささき よしきよが出雲・隠岐
いざ登城林泉寺からシャトルバスで春日山神社前に移動しました。シャトルバス終点、ここが春日山城の上り口です。周辺には土産物店、駐車場などがあります。春日山城を一周する道の途中には自販機もトイレもありませんので、ここで諸々ととのえてから出発です
新潟旅行3日目は、日本100名城31番の新発田しばた城です。登城60城目です。(現地の案内板より)いざ登城JR新発田駅から新発田城にむかいます。徒歩20分くらいの距離で、要所要所に案内板があるので迷うことはないと思います。写真は警察署、裁判
岐阜・愛知小旅行です。まず最初の目的地は、日本100名城46番の長篠ながしの城です。登城62城目です。いざ登城長篠城駅へ向かうJR飯田線の車中から、長篠城の南西を流れる豊川です。写真の右側が長篠城で、川を渡るとまもなく長篠城駅に到着です。ち
長篠城に続いて、日本100名城45番の岡崎城にむかいます。登城63城目です。(現地の案内板より)いざ登城岡崎城の最寄り駅はJR岡崎駅ではなく、愛知環状鉄道の中岡崎駅または名鉄の岡崎公園駅です。今回は、長篠城-(JR飯田線)-豊橋-(JR東海
首里城の続きです。 今回は城壁の外よりレポートします。 弁財天堂側から見た首里城 ここは円鑑池にある弁財天堂側から見た首里城です。 城壁の高さが良くわかりますね。 背後は入場者受付のある歓会門の付近。見えている楼閣は色は朱ですが、形は中国より日本の城の楼に似ている感じがします。 弁財天堂と円鑑池 水の守り神でもある弁財天堂は首里城の北側の円鑑池の中央に鎮座しており、首里城より一段低くなった土地にあります。 円鑑池は隣の龍潭と合わせるとそこそこ広いものの、首里城のほんの一角でしかないので、平城や平山城における水掘としての役割は無さそうです。 沖縄観光情報「たびらい」さんの記述によると「首里城や円…
「その2」の続きです。高松城址公園の東にある妙玄寺というお寺の境内に、「清水宗治自刃之地跡」と刻まれた供養塔があります。 その入口にある石碑です。 さらに...
「その1」のつづきです。備中高松城本丸跡にやってきました。 現在、本丸跡は芝生公園になっています。 備中高松城は永禄年間(1558~70年)に、備中松山城...
長篠城・岡崎城の見学が予定より早く終わってしまったので(長篠城の見学可能範囲が予想より小さかったのが主な原因)、今回は予定になかった名古屋城に行くことが出来ました。 愛・地球博の時に初めて訪れて以来10年ぶり2回目の登城です。愛・地球博の時
三の丸三の丸は現在、公園になっています。正保城絵図によると、三の丸の南東隅には三重櫓、北東隅には二重櫓があり、周囲を土塀で囲まれていて、南側は逆川に面していました。なぜか入口には鯱が…。本丸三の丸公園と車道を挟んだ向かいにある四足門よつあし
いざ登城雨の中彦根城にやってきました。JR彦根駅からほぼ真っ直ぐ5,6分歩くと堀に到着。今回の旅行で観てきた山城が多かったので、大規模な堀がある城を観るのは久しぶりな気分。この写真の右手に延びる道沿いに植えられているのがイロハ松です。先ほど
旅行7日目の午後は今回の旅行最後の城攻略、日本100名城72番の吉田郡山城です。登城84城目です。吉田郡山城について現地案内板より歴史吉田郡山城は、鎌倉末期~南北朝時代の武将・毛利時親もうり ときちか(毛利元就の9代前の祖先)によって築かれ
関宿城(せきやどじょう)房総の魅力500選城郭構造 平城天守構造 なし(模擬櫓、層塔型3重3階)築城主 簗田満助、簗田成助築城年 1457年千葉最北端に位置する台地に築かれた城。天正2年(1574)に北条氏が攻め落とし、北条氏の滅亡後は譜代大名が城主を務めた。(千葉県野田市関宿三軒家)関宿城ギャラリー(2016秋)(関宿城博物館正門)千葉県の北の先っちょにある関宿城博物館にやってきました!入り口の前に展示?し...
【元気だね!】豊後大野かるたで、ものしりを目指そう!新田小学校で先生になる大分の親方2024
【衆院選2024】あなたの一票を大切に✨|衆議院議員総選挙、私も投票 in 大分県豊後大野市
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【想い出】7月29日|高校野球、サッカー、祭り、青年団、グルメ、温泉、大分、熊本etc...
【初夏を楽しむ】大分県豊後大野市「大辻山」で、あじさいと古墳を楽しむ【青年団】
【きれいだね✨】ホタルを見たよ、大分県豊後大野市内山公園で2024|青年団できれいな想い出づくり
【よろしくね】シン大分県連合青年団&大分市青年団2024|新体制&新風は若者から
【青年団】おおいた青年交流祭が、ユースポストで全国に紹介される【大分 機関誌】
(青春物語#6)青年団活動のひとときを一部紹介
【新しい風】大分県連合青年団の団長が変わります!|私は事務局長に変身!
(albumの君#4)(albumの君#5)に至る前段階説明
【春だね】チューリップフェスタ&緒方平野を歩く in 大分県豊後大野市2024【青年団】
【集まる】5年ぶりの「おおいた青年交流祭」で、大分の若者が熱く語る!【青年団】
【募集!】おおいた青年交流祭で、若者と交流しよう♪知事や大分市長も参加!【青年団】
【青年団 大分】楽しい♪大人も熱中!百枝小学校で豊後大野かるた教室【なないろベース】
福岡城の次は太宰府へ移動して、大野城おおのじょう/おおののきの遺構を見学します。大野城について概要天智天皇2年(663年)の白村江の戦いで日本・百済連合軍が唐・新羅連合軍にに敗れた後、大和朝廷が防衛のために築いた城です。日本書紀によると、天
首都圏の緊急事態宣言が解除されましたね。でも私の周りは急に何かが変わったりはしておりませんが、皆様の生活はいかがでしょうか。 さて、首里城の続きです。 前回と同じ城の南側ですが今回はちょっと先の内側の郭の石壁です。 石壁の一部がスキマのように空いている所で撮影しました。 カメラの手前なので写ってないですが通路の壁の一部に凹型の構造があり、その一か所だけにこんなスキマがありました。 首里城の枡形虎口 図にするとこんな感じで、撮影は矢印の所。これは、このスキマから内部に入ろうとする敵を三方から囲んで袋叩きにするという枡形虎口(ますがたこぐち)に近いものではないかなーと思います。あるいは逆に、場内か…
本日は春分の日ですね。古代の日本では春分の日と秋分の日を年の区切りとしていたそうで、現代の1年を、2年として数えていたようです。大昔的に言うなら今日は正月ですね。では古代の琉球ではどうしていたのでしょうね? 文献が残っているのは鎌倉時代くらいからなのでちょっとよくわかりません。 さて首里城の続きです。ここは首里城の南、内側にある城壁の出入口です。 首里城内壁の虎口 これは戦国の城で言うところの、虎口…のようなものだと思います。 ボトルネックを作って敵勢を一度には通さない出入口ですね。 写真には写っていなけど、手前の入り側は横から階段を上がって入らなければならないので、後ろから槍などでの援護も出…
伊奈氏陣屋(いなしじんや)埼玉県指定史跡城郭構造 陣屋築城主 伊奈忠次築城年 天正19年(1591)徳川家康が関東入国に伴い関東郡代・伊奈忠次が築いた陣屋。忠次は四代官頭に数えられ、備前検地を実施したことでも知られる。(所在地:埼玉県北足立郡伊奈町)伊奈忠次とは…(信長の野望より)1550年 三河国幡豆郡小島城で生まれる1563年 父・忠家が三河一向一揆に加わるなどして徳川家康の下を出奔1575年 長篠の戦いで功...
過日、羽柴秀吉(豊臣秀吉)の水攻めで有名な備中高松城跡を訪れました。現在、城跡は「高松城址公園」として整備されています。 城跡は国の史跡に指定され、「続日...
首里城の続きです。外壁をぐるっと周って見てみましたが、予備知識なしの感想はこんな感じでした。・山城なのに平城並みのサイズと防御構造がある。ただし石壁主体で堀はほぼ無し(空堀はあるのかも)・日本的な所と中国的な所が混在しており、壁の形は日本の城の造りよりも昔の中国の城塞都市に似ている。狭間のようなものはなし・壁の石の積み方は場所により違いがあり、長方形に切って縦横に積んでいたり、不定形で斜めに積み上げられていたりと様々。(どうも造られた時代が違うようです。)・ただし日本の古い城のような自然石をそのまま組み積んだようなところは見当たらず(沖縄の古民家ではそういうのもありましたが)、 びっしりとスキ…
「その3」のつづきです。田辺城本丸跡東側の「心種園」と呼ばれる庭園を歩きます。「心種園」という名称は、細川藤孝(幽斎)の詠んだ歌にちなんで名付けられた名称...
「その2」のつづきです。現在の舞鶴公園は、かつての田辺城の本丸にあたりますが、その公園内に、天守台跡の石垣が復元整備されています。 天守台は本丸の西端に位...
「その1」のつづきです。田辺城本丸跡西側に戻ってきました。 平成4年(1992年)に復興された城門です。中は田辺城資料館になっています。 いろんな角度から...
旧海軍ゆかりの地として知られる京都府北部の舞鶴市に、かつて田辺城がありました。天正6年(1579年)、織田信長の命を受けた細川藤孝(幽斎)と明智光秀が丹後...
在野の研究者の歴史書から学んだ結果をまとめたもの
日野市および周辺の地域情報や歴史にまつわる話を取り上げています。
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親鸞
令和3年(2021年)の大河ドラマ「青天を衝け」を応援しましょう。
ガイドブックに載っていない、ローマの観光スポットを歴史とともに語る。
夫余(ふよ、朝鮮語: 부여、拼音: Fúyú、正字体:夫餘)は、現在の中国東北部(満州)にかつて存在した民族およびその国家。扶余(扶餘)[1]とも表記される。 https://ja.wikipedia.org/wiki/夫余
町奉行・寺社奉行・公事方勘定奉行、自身番屋・辻番・木戸番、火付盗賊改、関東取締出役、目明し・岡っ引き・手先、囚獄、評定所などに関するトラバ用テーマです。
私が書き残しておかなければ、永遠に埋蔵金が発掘されないであろうと思い、気力と体力のあるうちに30数年前に埋蔵金の研究をしたことを記載する。当時、埋蔵金発掘番組が世間を騒がしていたことを記憶されている方もおられると思うが、日本トレジャーハンティングクラブの代表として、TV局に番組の修正を依頼した経緯なども付け加えておく。
戦後GHQは昭和三年から昭和二十年までに刊行されていた書物のうち7769点を指定し、本屋などで流通していた書籍を没収・廃棄し、戦後の日本人に読めなくしました。 どのような書籍が没収されていたかを調べると、軍国主義的な書籍よりも圧倒的に多いのは、戦勝国にとって都合の悪い史実などが書かれた本であることが分かります。 GHQ焚書は、「国立国会図書館デジタルコレクション」で、3割程度の本がネットで公開されています。実際に読んでみると、戦後詳しく知らされてこなかった史実などが満載です。