在野の研究者の歴史書から学んだ結果をまとめたもの
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No.005【万世一系を実現した、藤原氏の内紛】五拾四
モンゴルが日本に攻めてくる話 その2
No.005【万世一系を実現した、藤原氏の内紛】五拾参
No.005【万世一系を実現した、藤原氏の内紛】五拾弐
裏鬼門と山上大神宮~其の④
No.005【万世一系を実現した、藤原氏の内紛】五拾壱
No.005【万世一系を実現した、藤原氏の内紛】五拾
モンゴルが日本に攻めてくる話 その1
No.005【万世一系を実現した、藤原氏の内紛】四拾九
No.005【万世一系を実現した、藤原氏の内紛】四拾八
No.005【万世一系を実現した、藤原氏の内紛】四拾七
No.005【万世一系を実現した、藤原氏の内紛】四拾六
No.005【万世一系を実現した、藤原氏の内紛】四拾五
乱?変? 梶原景時
【2025年】大河ドラマのコンサート情報まとめ
シーズンオフで宿泊費が安いうちにと6月に福岡へ二泊三日の城巡りにいってきました。初日に行ったのが福岡城です。潮見櫓一度移築した後に現在の位置に戻されて再建された櫓で、潮見櫓とされていましたが、最新の研究ではどうも違う櫓だったらしく現在は詳細が不明となっているそうです。二の丸 多聞櫓福岡城で移築とかもしていない唯一の現存櫓で、両端が二層の櫓になっています。中の公開は限られているようで私が行ったとき...
駿府には今川時代から居館があり、現在の駿府城は徳川家康が安土桃山時代に作った駿府城を自身の隠居後の城にする為、拡充した駿府城となってます。東御門と巽櫓東御門巽櫓二層の巽櫓はL字型で見る角度で印象が大きく変わります。東御門と巽櫓のなかは博物館となっており、巽櫓には家康が人質時代の勉強部屋が再現されていました。坤櫓二層三階の櫓で中も公開されていますが、営業時間に間に合わず外観のみ眺めてきました。城内...
九州旅行からの帰り道ですが、今日の夜までに家に帰り着けば良いので、大阪港から比較的近い岸和田城を観に行くことにしました。続100名城登城20城目です。岸和田城について歴史岸和田に初めて城が築かれたのは建武年間(1334~1336年)頃という
曲輪5(中野久尾)埋蔵文化財センターのジオラマより曲輪5へ曲輪3(本丸)から降りて、次は曲輪5(中野久尾なかのくび)へむかいます。細いV字型の空堀の底を通って進みます。空堀5(曲輪4と曲輪5のあいだ)は細い上に上り下りが大きく、微妙に曲がっ
九州旅行8日目は、鹿児島県大隅半島東部にある志布志城を見学します。現地の案内板より志布志城について歴史志布志城の築城年代ははっきりしていませんが、現在志布志城を構成する松尾城・内城・高城・新城の四つのうち松尾城と内城は南北朝時代には存在して
本丸・蔵之城枡形大空堀まで降り、次は弓場城と本城へ。この写真右側を登っていきます。上り始めてすぐ、人の背より高い壁と左手に直角にまがり先を見通せない道に行き当たります。枡形構造です。さすが本丸に至る道、他より防衛がしっかりしています。知覧城
九州旅行4日目は、鹿児島県薩摩半島の南部・知覧に向かいます。知覧は五年前に一度訪れていますが、今回の旅行では前回行かなかった続100名城の知覧城が第一目的地です。続100名城登城18城目です。知覧城平面図(駐車場案内板より)知覧城について歴
時刻は12:30。天候は回復するどころか、ますます激しい雨に。ここから先は上り下りが多くなり舗装されていない道もあるのでちょっと迷ったのですが、覚悟を決めて見学続行です。稜線上灰塚展望所まずは城内で最も眺望がいいといわれている灰塚展望所へ。
温故創生館まずは駐車場入口からすぐのところにある温故創生館(展示館)を見学します。入場無料、なんと御城印まで無料で貰えました。もちろん続100名城スタンプもゲット。展示の前に、鞠智城を紹介するビデオを鑑賞。僕1人のために上映してくれました…
九州旅行3日目です。続100名城登城17城目、熊本県北部の鞠智城へ行きました。鞠智城について歴史鞠智城について正確なことは判っていませんが、鞠智城は天智2年(663年)の白村江の戦いの後、唐・新羅に対する防衛のために大和朝廷によって築かれた
宮島を出た後は、広島城を見てきました。広島城は元々、大天守一棟と小天守二棟のほか、大量の二重櫓や多聞櫓で囲われた巨城でしたが、明治維新後は陸軍の基地となり、さらに戦災で残存建築を失ってしまいました。現在は原爆で焼失した大天守の外観復元と二の丸櫓群が復元されています。江戸城や姫路城など多くのお城は防衛の為、本丸が高台の上で狭いことが多いのですが、広島城は本丸が凄く広く、二の丸は大きめの馬出レベルの...
八王子市が八王子城と滝山城のご城印を駅近くの博物館で販売を開始し、購入条件がお城を訪ねた証拠を提示できる事とのことなので、まだ証拠がない滝山城へ行ってきました。滝山城は武田信玄の猛攻に会い、二の丸まで撤退しながらも守り抜いたお城ですが、その際に防御力の不安と山梨方面の監視が弱いという点から八王子城へ移ることとなりました。小宮曲輪画像右側が小宮曲輪の土塁と堀切三の丸三の丸土塁三の丸跡千畳敷千畳敷の...
本丸櫓群土浦城は現在二つの櫓と櫓門と門が存在し、櫓門と門は現存遺構で、二つの櫓の内、東櫓は復元で、西櫓は昭和まで残っていましたが台風で破損し解体、その後に解体した廃材を利用し再建されたという現存に近い復元となっています。太鼓櫓門現存遺構西櫓解体から再建された櫓東櫓復元された櫓櫓の隣が現存遺構の門である霞門です。土浦城は東西櫓の再建で本丸櫓群がすべて再建されている城址となっており、何気に珍しいお城...
中学校の修学旅行依頼30年弱ぶりに二条城を訪れました。城壁通常の城壁には狭間という銃眼が設けられていますが、江戸時代という平和な時代に建てられたお城だけあって狭間がついていないという非常に珍しい城壁です。東南隅櫓現存する二つの二層櫓の一つで東大手門の直ぐそばにある櫓西南隅櫓東南隅櫓と違い唐破風が用いられた櫓で場内からだとみずらいので城外から撮影しました。二の丸御殿とその周辺二の丸御殿内部は残念な...
大阪城、岸和田城をみた翌日は和歌山まで足を延ばし、和歌山城を見てきました。庭園・おはしろうか庭園と藩主の生活と仕事ばだった西の丸をショートカットできるようにつないだ橋で、平和な時代の城らしい設備です石垣和歌山城は徳川御三家の居城ですが、その前は豊臣時代に最初のお城が築かれたそうで、そのせいか見られる石垣も野面積みっぽいのと切込み接ぎっぽいのが見ることができます。天守曲輪天守は第二次大戦の空襲で...
大阪城を見た後は岸和田城を見に行ってきました。岸和田城の本丸は櫓や門、天守が復元されていて視界を遮る樹木なども少なく、外観を楽しむにはうってつけのお城です。天守天守は現在は復興天守の三層の天守が建てられていますが、元々は、5層の天守があり、天守喪失後に三層の天守と二層の小天守の再建申請がされましたが、再建がされなかったそうです。八陣の庭三国志の八陣をテーマにしている枯山水っぽい庭だそうです。
2021年の12月に大阪、和歌山でお城巡りをしてきました。最初に行ったのが大阪城です。大阪城は豊臣秀吉が建築したお城ですが、現在残っている遺構は徳川時代のものです。天下の名上にふさわしい巨城ですが、残念なのが天守です。大阪城天守外観現在の天守は徳川時代の天守台の上に作られた復興天守で、徳川時代と豊臣時代がごっちゃになった天守が建っています。豊臣時代の天守は黒に金で飾られた壮麗な天守で、徳川時代の...
愛媛を一通り回った翌日は四国を電車で移動し、岡山から新幹線に乗ることにしたので、途中の今治駅で下車し今治城を見てきました。今治城は層塔型天守を考案した築城名人の藤堂高虎が自身の居城として作られましたが、大坂の陣で功績をあげた為、直ぐ別の領地へ移封されてしまいました。築城当初は天守がありましたが、移封の際に亀山城に寄贈したと言われており、天守は残っていませんでしたが現在は模擬天守として再現されてい...
湯築城は愛媛を収めた大名家で豊臣秀吉によって取り潰された河野氏の居城として作られたお城です。現在も2重の堀と要塞部分があった山、平地部分の居住区が残されており、居住区は一部家屋が再現されています。武家屋敷平地部分にあった武家屋敷が二棟再建されていました。そのうち一棟は内装も再現されており、マネキンと一緒に展示されています。御殿跡武家屋敷のお国は城主が住んでいた可能性がある御殿と庭園があった区画が...
石垣に登ってみるそれでは石垣に登ってみましょう。先ほど外から観ていたとき、天守台の上などに人影が見えたので、どこかから登れるはずです…本丸北西(裏門枡形)というわけで、早速天守台に行ってみようと、本丸北西部・裏門枡形と天守台の間にあったこの
続100名城、登城16城目は、熊本県の八代城(190番)です。八代城復元模型写真(南側入口前の案内板)八代城について歴史八代城以前、この地には麦島城がありました。加藤清正が肥後藩主となると、清正は麦島城に重臣の加藤正方を城代として送ります。
杉山城について続100名城登城2つめは、埼玉県比企郡嵐山町にある【杉山城】です。杉山城は戦国時代の山城で、築城の年代や築城主ははっきりしていません。時代は室町~戦国時代、築城主は山内上杉氏か後北条氏か地元豪族の金子氏か…と様々な説がありいま
二の丸中ノ御門を登って二の丸へ。中ノ御門跡を二の丸側から。枡形の様子がわかるかな…。中ノ御門を別の角度で。二の丸は、かつては城主が生活する御殿があり、人吉城の中心となる存在でした。なぜか現在は林のようになっています。御殿平面図(現地・二の丸
日本100名城、最後に登城することになったのは、熊本県南部にある人吉城です。三の丸~本丸平面図(現地・二の丸案内板)人吉城について歴史人吉城は、鎌倉時代前期の元久2年(1205年)、肥後国人吉荘の地頭に任ぜられた相良長賴さがら ながよりが築
北ルート本丸の売店で資料や記念品を購入した後、北ルートに進みます。天守を南側から。大天守の出入口が附櫓になっているのがよくわかります。天守を西側から。この写真を撮影している天守の西側にある曲輪は、加藤清正の重臣・加藤平左衛門の屋敷があったこ
本丸・天守外観本丸本丸御殿前には井戸跡があります。本丸御殿の建物は大広間など一部しか復元されていないので建物からかなり離れたところにあるように見えてしまいますが、図面によると井戸があったのは御裏台所、御祈祷所御風呂屋などに囲まれた一角だった
熊本城について100名城登城98城目は熊本城です。歴史熊本には、現在の熊本城以前に、室町時代の文明年間(1469~1487年)に出田秀信いでだ ひでのぶが葉城した千葉城と、出田氏の衰退後の大永・享禄年間(1521~1531年)に鹿子木親員か
連休初日を広島で過ごし、二日目は広島港から高速船に乗って愛媛の松山へ移動。松山城、湯築城、道後温泉本館を見て回りました。松山城は山頂にあるため、リフトを利用したのですが、コインロッカーに荷物を預けた際にうっかり広角レンズも一緒に預けてしまい、室内の撮影がうまくできませんでした。復元された櫓も多いようですが本丸周辺の櫓が多く復元されており、それだけでも見ごたえは最高です天守は姫路城と同じ連立式で小...
緊急事態宣言が解除された隙をついて今年の3/27、3/28に姫路城、明石城、尼崎城へ行ってきました。姫路城でたっぷり4時間以上見て回った後、宿に行くには時間が早かったので、翌日の予定だった明石城を繰り上げて見に行くことに。明石城は天守台が残っていますが、天守が一度も建てられたことが無いお城です。かつては本丸には三重櫓が4棟あったそうですが、現在は巽櫓と坤櫓の2棟現存しています。通常ならいずれかの...
緊急事態宣言が解除された隙をついて今年の3/27、3/28に姫路城、明石城、尼崎城へ行ってきました。姫路城は色々なお城を見てきましたが、なんというか他の城とは一線を画しています。三の丸より北側は備前丸以外は城壁や多聞櫓が残っていたり、復元されていたりで、かなりお城の外観が保たれています。更に他の城では樹木が伸び放題で町から城の遺構がほとんど見えないということがざらにありますが、姫路城は樹木の管理...
今年の2月20日卒業した学校に用事があり、ついでに甲府城と武田神社へ寄ってきました私が学生時代は甲府城はほぼ放置されていたというか、城址として活用されておらず、城内になぜかプロペラ機が展示してあったりしていましたが、久しぶりに行ってみると城址として復元整備されており驚きました。甲府城は武田家滅亡後、徳川支配になり、さらにその後、豊臣家の家康牽制の重要拠点となり徳川時代には江戸防衛の要として将軍に...
昨年2020年 12月25日から境港、松江、出雲へ行っていました。境港で水木しげるロードを堪能した後、松江への直通バスで松江城へ行きました。現存12天守の一つですが、築城時期が判明したことで6年前に63年ぶりに国宝指定を受けた国宝としては新しいお城です平成になってから復元された二の丸櫓群の一つで登城を知らせる太鼓があった櫓だそうです。ちゃんと太鼓が置かれていました武具の保管庫に使われていたといわ...
東京都下に住んでいる私にとって他県ではあるが行きやすく、遺構が多く残っている小田原城へ行ってきました。二の丸隅櫓は元々倍くらいの大きさだったらしいのですが地震で倒壊し、その後現在の規模で再建されたそうです。銅門は当時の建築手法で再建されているようで大きな木材にチョウナで削ったような跡も再現されていました。銅門内部は公開されており、中で駄目な小田原評定をしていました。北条氏直、氏照、氏政の御三方常...
静岡県の美術館で開催されていた富野由悠季の世界展のついでに足を延ばし、掛川城へ行ってきました。掛川城の天守は戦後初の木造建築天守として再建され、正確な外観が不明だったため、同じ山名一豊が建築した高知城が掛川城に似せて建築したとの文献から、高知城の天守をモチーフに再建を行っているそうです。掛川駅を降りるとすぐに天守が見られます。天守内部は博物館の様になっています。掛川城の二の丸御殿は現存する建築で...
在野の研究者の歴史書から学んだ結果をまとめたもの
日野市および周辺の地域情報や歴史にまつわる話を取り上げています。
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親鸞
令和3年(2021年)の大河ドラマ「青天を衝け」を応援しましょう。
ガイドブックに載っていない、ローマの観光スポットを歴史とともに語る。
夫余(ふよ、朝鮮語: 부여、拼音: Fúyú、正字体:夫餘)は、現在の中国東北部(満州)にかつて存在した民族およびその国家。扶余(扶餘)[1]とも表記される。 https://ja.wikipedia.org/wiki/夫余
町奉行・寺社奉行・公事方勘定奉行、自身番屋・辻番・木戸番、火付盗賊改、関東取締出役、目明し・岡っ引き・手先、囚獄、評定所などに関するトラバ用テーマです。
私が書き残しておかなければ、永遠に埋蔵金が発掘されないであろうと思い、気力と体力のあるうちに30数年前に埋蔵金の研究をしたことを記載する。当時、埋蔵金発掘番組が世間を騒がしていたことを記憶されている方もおられると思うが、日本トレジャーハンティングクラブの代表として、TV局に番組の修正を依頼した経緯なども付け加えておく。
戦後GHQは昭和三年から昭和二十年までに刊行されていた書物のうち7769点を指定し、本屋などで流通していた書籍を没収・廃棄し、戦後の日本人に読めなくしました。 どのような書籍が没収されていたかを調べると、軍国主義的な書籍よりも圧倒的に多いのは、戦勝国にとって都合の悪い史実などが書かれた本であることが分かります。 GHQ焚書は、「国立国会図書館デジタルコレクション」で、3割程度の本がネットで公開されています。実際に読んでみると、戦後詳しく知らされてこなかった史実などが満載です。