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第4章 平成初期 5 社会的身分差別(3) イブラヒム1世
スペイン王国成立までのイベリア半島の歴史
9-6-5 ロマノフ朝の成立
9-7-6 ベーリングの後援者
慶應大の世界史日本史
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「伊達政宗に滅ぼされた豪族」粟野氏とは何か①
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北野武監督映画『首』 観ました❗️
歴史散歩について
関ヶ原の戦い(西軍の敗因のまとめ)
四面楚歌~西軍総崩れの引き金となった裏切り~
北条時政が、源頼朝の妻、北条政子として、源頼朝と共に挙兵し、治承・寿永の乱にて、貢献したことは、本書において、既に述べた。 源頼朝の最初の妻、八重の父、伊藤…
二階堂行政は、生没年は、不明であるが、母は、源頼朝の母、由良御前の父の妹、即ち、由良御前の叔母である。 行政の父は、藤原南家乙麻呂流の工藤行遠で、行政である…
中原親能は、1143年(康治二年)に、京の下級貴族、中原広季の息子として生まれた。 別説では、親能の実父は、参議の藤原光能で、母が、前・明法博士の中原広季の…
大江広元は、1148年(久安四年)、京の下級貴族の家に生まれた。 出自は、諸説、存在し、藤原北家御子左流、藤原光能の息子で、母の再婚相手、中原広季に養育され…
源頼家は、十八歳の若さとはいえ、父の頼朝に似ず、政治的に無能な、暗君であった。 御家人達が、「鎌倉殿」に求めるのは、特に土地問題の訴訟に関する、公正な裁判で…
源頼家は、源頼朝の嫡男である。 頼朝には、伊東祐親の三女、八重姫との間に生まれた、長男の千鶴丸がいたが、生後、祐親に殺され、その存在が、知られていないため、…
源頼朝は、娘の大姫の死後、なお、天皇の外戚になるとの野望を捨てなかった。 頼朝は、大姫に代わり、次女の三幡の入内を画策する。 そして、三幡は、女御の称号を与…
1195年(建久六年)、源頼朝は、丹後局を招いて、政子及び、大姫と対面させた。 そして、丹後局に銀製の蒔絵の箱に砂金300両を納め、白綾30反等、数多くの派…
父の源頼朝によって、源義高が、誅殺されたのは、大姫が、七歳の年であった。 大姫の心は、深く傷付き、その後、十数年を経ても、義高への思いに囚われたまま、床に伏…
1195年(建久六年)、源頼朝は、東大寺落慶供養のため、上洛し、政子、大姫、頼家等を同道させた。 東大寺は、近隣の興福寺と共に、1180年(治承四年)に、平…
源頼朝の最初の妻は、伊東祐親の三女、八重姫と言われる。 源頼朝は、平治の乱の後、伊豆国に流罪となり、同地の最大の豪族、伊東祐親に預けられ、その監視下に置かれ…
御門葉の内、足利義兼は、源頼朝の挙兵後、頼朝の許に馳せ参じ、源義高の討伐にて、戦功を挙げた。 その後、源範頼の率いる、平家追討軍に従軍すると、その功績によっ…
源頼朝は、武家政権支配のため、源氏一門を「門葉」として、「御家人」の格上とした。 しかし、同時に、源氏一門は、源頼朝にとって、最大の脅威であった。 東国の武…
鎌倉殿の武家政権には、草創期、「門葉」の身分があった。 『吾妻鏡』には、甲斐源氏の板垣兼信が、頼朝に対して、自分は、御門葉であるのに御家人に過ぎない、土肥実…
曾我兄弟の仇討事件が、鎌倉に最初に報告された時、頼朝が、討たれたと誤報された。 北条政子が、夫の頼朝の死を嘆くと、源範頼は、「後には、それがしが控えておりま…
北条時政が、曽我兄弟を使って、源頼朝を殺害しようとしたとの説は、その後の二人の関係によって、否定されている。 しかし、陰謀は、確実に存在した。 曽我兄弟の仇…
1193年(建久四年)5月28日に、富士野の巻き狩りにおいて、曽我兄弟の仇討事件が、発生したことは、既に、詳述した。 父の河津祐通の仇、工藤祐隆を、曽我祐成…
繰り返しになるが、源義朝には、九人の息子がいた。 義平、朝長、頼朝、義門、希義、範頼、全成、義円、義経である。 長男の義平、次男の朝長は、平治の乱によって、…
源頼朝は、曽我時致の言葉を聞いて、「天晴れ、男子の手本よ。本当は、頼朝に恨みなど、抱いていないのに、見苦しい様を見せまいと思って、申したのであろう」と時致を…
曽我時致が、五郎丸に捕まると、大見小平次が、祐成討死及び、時致生け捕りの報告に、頼朝の許に来た。 頼朝は、「その若造をお前に預ける」と命じ、小平次は、時致を…
混乱の中、「松明を付けて、投げ出せ」との声が飛び、松明及び、火の付いた、蓑、笠が、投げ出された。 白日の様に、明るくなった中を進み出たのが、伊豆国の御家人、…
御家人達は、次第に事情を把握すると、曽我祐成、時致の兄弟に対して、相模国の住人、横山党の愛甲季隆が、飛び掛かって来た。 『曽我物語』における、最大の見せ場と…
曽我兄弟は、工藤祐経の屋形に入ったが、祐経と王藤内の姿はなかった。 兄弟は、一瞬、呆然とするが、祐成は、「鎌倉殿の警護のため、侍所が近い。恐らく、宿直に参上…
曽我十郎祐成は、弟の五郎時致を屋形に戻らせると、屋形巡りを装い、工藤祐経の様子を探りに行った。 しかし、幕の隙間から、覗いていると、祐経の郎党に見つかり、屋…
曽我兄弟は、箱根権現の別当坊を辞すると、獄七里、山七里、野七里の箱根古道を超え、伊豆の国府、三嶋に到着した。 二人は、三嶋大社に参詣して、笠懸を七番ずつ、射…
曽我十郎祐成は、富士野での仇討の決意を固めると、虎御前を曽我の里に連れ帰った。 祐成は、虎御前に、遊女の身でありながら、自分の様な、「貧道」の者に対して、懸…
1192年(建久三年)、源頼朝は、征夷大将軍に任じられると、その祝いとして、大規模な、狩場巡りをする旨を、諸国に触れさせた。 巻き狩りは、当時、武士達の遊興…
藤原仲成は、摂津源氏の源頼政の嫡子、源仲綱の乳母子と言われる。 以仁王の挙兵以前、源頼政は、伊豆守であり、仲成は、頼政と代官として、伊豆国に下っていた。 曽…
曽我十郎祐成は、僧侶の修行を捨て、箱根山を抜け出した、弟の筥王を連れ、北条時政館を訪れた。 そして、時政は、烏帽子親となり、筥王を元服させると、自分の名前の…
筥王は、箱根山の箱根権現において、三年間、僧侶になるための修行に励んだ。 しかし、1187年(文治三年)、源頼朝が、ニ所詣のために、多数の御家人を引き連れて…
河津祐通の長男の一万及び、次男の筥王は、母の連れ子として、曾我祐信の許に赴き、養育された。 『曾我物語』では、九歳の一万及び、七歳の筥王が、九月十三夜の名月…
河津祐通には、三人の息子がいた。十郎、五郎、御房殿である。 三男の御房殿は、祐通の存命中、生まれておらず、祐通が、死去した、五日後に生まれた、御房殿は、伊東…
工藤祐経は、伊東祐親の娘、万劫御前を妻としていたが、祐経と祐親の関係悪化に伴い、万劫御前を祐経と離縁させ、土肥実平と再婚させてしまった。 祐親に所領を横領さ…
源頼朝は、平治の乱後、十四歳の時、伊豆国に流罪となったが、流人時代の二十年間の頼朝の動向を記した、書物は、少ない。 『曾我物語』は、流人時代の頼朝が、登場す…
日本の中世、「武家社会」には、「仇討」の習慣があった。 「仇討」は、無論、父母兄弟を殺害された、被害者が、加害者を殺害して、復讐を果たすことを意味する。 日…
前述の通り、源頼朝は、1184年(元暦元年)、公文所を設置した。 その後、「公文所」は、「政所」に改称される。 公文所は、荘園の公文書管理・指揮・命令・政務…
本書の「武都」の章の「天下草創」編は、「鎌倉」の章と時期は、重なっている。 筆者の意図としては、「鎌倉」の章が、源義仲、平家追討、頼朝と義経の対立と義経の死…
翌年の1186年(文治二年)3月12日、近衛基実に代わり、九条兼実が、摂政に任官し、藤原氏の長者となった。 前年の頼朝の内覧推薦は、兼実には、「寝耳に水」で…
藤原五摂家の九条家の祖、兼実は、1164年(長長寛2年)から、1200年(正治2年)に至るまで、三十六年間、日記を書き綴っていた。 その日記、『玉葉』は、平…
1185年(文治元年)12月6日、源頼朝の代官、北条時政は、源義経・源行家の頼朝への謀反に協力した、朝廷の関係者の処罰を申請した。 廟堂粛清である。 後白河…
荘園については、「坂東」の章において、既述したが、「地頭」とは何かを理解するため、再度、解説する。 日本は、6世紀以前の大和朝廷の時代、各地の豪族が、土地と…
源義経は、兄の頼朝との対立が、決定的になると、叔父の源行家と共に、後白河法皇に、源頼朝追討の院宣を求めた。 後白河法皇は、義経に強要され、院宣を下したのか、…
源頼朝は、源義仲討伐軍には、年貢の納入に滞り、食糧不足に陥っている、京に大軍を入れたため、乱暴狼藉を働いた、義仲の轍を踏ませなかった。 頼朝は、範頼の軍勢を…
源頼朝は、源義仲討伐の功績により、正四位下に叙任した。 官位は、得られなかったが、その際、頼朝は、源義仲及び、源行家に与えられていた、平家没官領を与えられて…
古代の征夷大将軍は、大伴弟麻呂、坂上田村麻呂の二代しかなく、その後、蝦夷征討を行った、文屋綿麻呂は、征夷将軍であり、「大将軍」ではなかった。 征夷大将軍は、…
「将軍」とは、中国発祥の言葉であり、文字通り、「軍を将(ひき)いる」ことである。 将軍は、比較的大規模な、軍隊の指揮官に与えられる、官職及び、称号であると同…
寿永二年十月宣旨は、源義仲が、平家追討のため、京に不在中に出されていた。 東海道を除けば、信濃国・美濃国・北陸道は、実際は、源頼朝ではなく、義仲の支配下にあ…
源義仲が、破竹の勢いで、京に進撃し、平家を都落ちさせると、甲斐源氏、信濃、美濃、近江等の武士達は、義仲に従って、平家と戦った。 義仲の勢力は、頼朝を上回り、…
平家の棟梁、平宗盛は、源頼朝の提案を拒絶した。 父の平清盛が、「頼朝の首を、我が、墓前に供えよ」、「「我の子孫は、一人、生き残る者といえども、骸を頼朝の前に…
源頼朝は、清和源氏の棟梁を自負していたため、親王でさえない、以仁王の令旨を受け、挙兵した、その他の清和源氏の一人に過ぎない状態を改善したいと考えていた。 下…
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親鸞
令和3年(2021年)の大河ドラマ「青天を衝け」を応援しましょう。
ガイドブックに載っていない、ローマの観光スポットを歴史とともに語る。
夫余(ふよ、朝鮮語: 부여、拼音: Fúyú、正字体:夫餘)は、現在の中国東北部(満州)にかつて存在した民族およびその国家。扶余(扶餘)[1]とも表記される。 https://ja.wikipedia.org/wiki/夫余
町奉行・寺社奉行・公事方勘定奉行、自身番屋・辻番・木戸番、火付盗賊改、関東取締出役、目明し・岡っ引き・手先、囚獄、評定所などに関するトラバ用テーマです。
私が書き残しておかなければ、永遠に埋蔵金が発掘されないであろうと思い、気力と体力のあるうちに30数年前に埋蔵金の研究をしたことを記載する。当時、埋蔵金発掘番組が世間を騒がしていたことを記憶されている方もおられると思うが、日本トレジャーハンティングクラブの代表として、TV局に番組の修正を依頼した経緯なども付け加えておく。
戦後GHQは昭和三年から昭和二十年までに刊行されていた書物のうち7769点を指定し、本屋などで流通していた書籍を没収・廃棄し、戦後の日本人に読めなくしました。 どのような書籍が没収されていたかを調べると、軍国主義的な書籍よりも圧倒的に多いのは、戦勝国にとって都合の悪い史実などが書かれた本であることが分かります。 GHQ焚書は、「国立国会図書館デジタルコレクション」で、3割程度の本がネットで公開されています。実際に読んでみると、戦後詳しく知らされてこなかった史実などが満載です。