在野の研究者の歴史書から学んだ結果をまとめたもの
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源頼朝は、曽我時致の言葉を聞いて、「天晴れ、男子の手本よ。本当は、頼朝に恨みなど、抱いていないのに、見苦しい様を見せまいと思って、申したのであろう」と時致を…
曽我時致が、五郎丸に捕まると、大見小平次が、祐成討死及び、時致生け捕りの報告に、頼朝の許に来た。 頼朝は、「その若造をお前に預ける」と命じ、小平次は、時致を…
混乱の中、「松明を付けて、投げ出せ」との声が飛び、松明及び、火の付いた、蓑、笠が、投げ出された。 白日の様に、明るくなった中を進み出たのが、伊豆国の御家人、…
御家人達は、次第に事情を把握すると、曽我祐成、時致の兄弟に対して、相模国の住人、横山党の愛甲季隆が、飛び掛かって来た。 『曽我物語』における、最大の見せ場と…
曽我兄弟は、工藤祐経の屋形に入ったが、祐経と王藤内の姿はなかった。 兄弟は、一瞬、呆然とするが、祐成は、「鎌倉殿の警護のため、侍所が近い。恐らく、宿直に参上…
曽我十郎祐成は、弟の五郎時致を屋形に戻らせると、屋形巡りを装い、工藤祐経の様子を探りに行った。 しかし、幕の隙間から、覗いていると、祐経の郎党に見つかり、屋…
曽我兄弟は、箱根権現の別当坊を辞すると、獄七里、山七里、野七里の箱根古道を超え、伊豆の国府、三嶋に到着した。 二人は、三嶋大社に参詣して、笠懸を七番ずつ、射…
曽我十郎祐成は、富士野での仇討の決意を固めると、虎御前を曽我の里に連れ帰った。 祐成は、虎御前に、遊女の身でありながら、自分の様な、「貧道」の者に対して、懸…
1192年(建久三年)、源頼朝は、征夷大将軍に任じられると、その祝いとして、大規模な、狩場巡りをする旨を、諸国に触れさせた。 巻き狩りは、当時、武士達の遊興…
藤原仲成は、摂津源氏の源頼政の嫡子、源仲綱の乳母子と言われる。 以仁王の挙兵以前、源頼政は、伊豆守であり、仲成は、頼政と代官として、伊豆国に下っていた。 曽…
曽我十郎祐成は、僧侶の修行を捨て、箱根山を抜け出した、弟の筥王を連れ、北条時政館を訪れた。 そして、時政は、烏帽子親となり、筥王を元服させると、自分の名前の…
筥王は、箱根山の箱根権現において、三年間、僧侶になるための修行に励んだ。 しかし、1187年(文治三年)、源頼朝が、ニ所詣のために、多数の御家人を引き連れて…
河津祐通の長男の一万及び、次男の筥王は、母の連れ子として、曾我祐信の許に赴き、養育された。 『曾我物語』では、九歳の一万及び、七歳の筥王が、九月十三夜の名月…
河津祐通には、三人の息子がいた。十郎、五郎、御房殿である。 三男の御房殿は、祐通の存命中、生まれておらず、祐通が、死去した、五日後に生まれた、御房殿は、伊東…
工藤祐経は、伊東祐親の娘、万劫御前を妻としていたが、祐経と祐親の関係悪化に伴い、万劫御前を祐経と離縁させ、土肥実平と再婚させてしまった。 祐親に所領を横領さ…
源頼朝は、平治の乱後、十四歳の時、伊豆国に流罪となったが、流人時代の二十年間の頼朝の動向を記した、書物は、少ない。 『曾我物語』は、流人時代の頼朝が、登場す…
日本の中世、「武家社会」には、「仇討」の習慣があった。 「仇討」は、無論、父母兄弟を殺害された、被害者が、加害者を殺害して、復讐を果たすことを意味する。 日…
前述の通り、源頼朝は、1184年(元暦元年)、公文所を設置した。 その後、「公文所」は、「政所」に改称される。 公文所は、荘園の公文書管理・指揮・命令・政務…
本書の「武都」の章の「天下草創」編は、「鎌倉」の章と時期は、重なっている。 筆者の意図としては、「鎌倉」の章が、源義仲、平家追討、頼朝と義経の対立と義経の死…
翌年の1186年(文治二年)3月12日、近衛基実に代わり、九条兼実が、摂政に任官し、藤原氏の長者となった。 前年の頼朝の内覧推薦は、兼実には、「寝耳に水」で…
藤原五摂家の九条家の祖、兼実は、1164年(長長寛2年)から、1200年(正治2年)に至るまで、三十六年間、日記を書き綴っていた。 その日記、『玉葉』は、平…
1185年(文治元年)12月6日、源頼朝の代官、北条時政は、源義経・源行家の頼朝への謀反に協力した、朝廷の関係者の処罰を申請した。 廟堂粛清である。 後白河…
荘園については、「坂東」の章において、既述したが、「地頭」とは何かを理解するため、再度、解説する。 日本は、6世紀以前の大和朝廷の時代、各地の豪族が、土地と…
源義経は、兄の頼朝との対立が、決定的になると、叔父の源行家と共に、後白河法皇に、源頼朝追討の院宣を求めた。 後白河法皇は、義経に強要され、院宣を下したのか、…
源頼朝は、源義仲討伐軍には、年貢の納入に滞り、食糧不足に陥っている、京に大軍を入れたため、乱暴狼藉を働いた、義仲の轍を踏ませなかった。 頼朝は、範頼の軍勢を…
源頼朝は、源義仲討伐の功績により、正四位下に叙任した。 官位は、得られなかったが、その際、頼朝は、源義仲及び、源行家に与えられていた、平家没官領を与えられて…
古代の征夷大将軍は、大伴弟麻呂、坂上田村麻呂の二代しかなく、その後、蝦夷征討を行った、文屋綿麻呂は、征夷将軍であり、「大将軍」ではなかった。 征夷大将軍は、…
「将軍」とは、中国発祥の言葉であり、文字通り、「軍を将(ひき)いる」ことである。 将軍は、比較的大規模な、軍隊の指揮官に与えられる、官職及び、称号であると同…
寿永二年十月宣旨は、源義仲が、平家追討のため、京に不在中に出されていた。 東海道を除けば、信濃国・美濃国・北陸道は、実際は、源頼朝ではなく、義仲の支配下にあ…
源義仲が、破竹の勢いで、京に進撃し、平家を都落ちさせると、甲斐源氏、信濃、美濃、近江等の武士達は、義仲に従って、平家と戦った。 義仲の勢力は、頼朝を上回り、…
平家の棟梁、平宗盛は、源頼朝の提案を拒絶した。 父の平清盛が、「頼朝の首を、我が、墓前に供えよ」、「「我の子孫は、一人、生き残る者といえども、骸を頼朝の前に…
源頼朝は、清和源氏の棟梁を自負していたため、親王でさえない、以仁王の令旨を受け、挙兵した、その他の清和源氏の一人に過ぎない状態を改善したいと考えていた。 下…
前述の通り、源頼朝は、富士川の戦いの後、有力御家人の説得により、上洛を諦めた。 この時、頼朝は、己の無力さを痛感したであろう。 富士川の戦いの後、源頼朝は、…
前述の通り、源頼朝は、三つの幸運によって、挙兵に成功した。 そして、第四の幸運は、皮肉なことに、二人の兄、源義平、源朝長が、既に、死去していたことにある。 …
1180年(治承四年)10月20日、源頼朝は、平家軍との富士川の戦いに勝利を治めると、平家軍を追撃し、上洛を望んだが、上総広常、千葉常胤、三浦義澄等の有力御…
平治の乱に敗北し、源氏の棟梁、源義朝は、殺害されて、源家は、壊滅状態に陥った。 平清盛によって、死罪を免れて、十四歳にして、伊豆国の流人となった、源義朝の三…
諸国の在地領主は、近隣の在地領主との紛争の際、寄進した権門の保護を受けることで、自己の私営田を守った。 同時に、私営田の寄進は、在地領主が、権門勢力と結び付…
源頼朝が、関東の覇者になった時、京では、後に頼朝と同盟関係を結ぶ、五摂家の一つ、九条家の藤原兼実が、その日記、『玉葉』において、頼朝を「謀反の賊義朝の子」と…
『鎌倉』の章において、治承・寿永の乱及び、奥州合戦について、既に、詳述したが、本項では、重複するが、「武家政権」の創造の視点から、頼朝の挙兵以降の動向を解説…
前述の通り、20世紀末までは、「いいくに(1192年)つくろう、鎌倉幕府」と、鎌倉幕府は、源頼朝が、「征夷大将軍」に任官した、1192年(建久三年)に成立し…
「幕府」とは、中国の「皇帝」、日本では、「天皇」によって、「将軍」に任命された者が、朝廷の外において、朝廷のため、「政治」「行政」「軍事」を行うために設けた…
それほど頻繁というわけでもありませんが、多少大袈裟な表現なら 「偶然の一致」もどきの史実を、筆者などは時として歴史の中に感じることが あります。 そこで今回は・・・えぇ、まったく行き当たりばったりで申し訳ないのですが、 歴史の中のそうした「偶然の一致」を探してみようと思った次第です。 すこぶる唐突な展開ではありますが、お話を「乙巳の変」…
ごく一般的に使われている歴史用語の中にもなんとはなしに違和感が伴う 言葉もあって、筆者の場合ならその一つが「賜姓皇族」です。 ちょっと面倒な気がしないでもありませんが、折角ですからその説明も拾って おきましょう。 ~皇族がその身分を離れ、姓を与えられ臣下の籍に降りることを「臣籍降下 (賜姓降下)」…
高天原の天照大神はこんな内容の「天壌無窮の神勅」を与え、孫のニニギを 地上の世界へと送り出し(いわゆる「天孫降臨」)ました。 ~いいこと、ニニギちゃん。 この国は我が子孫が王たるべき国なのよ。 さあ今から出発して、しっかりと治めなさいネ。 そうすることで皇位は天地と共に永遠に栄えるのよ。~ そしてこの折、天照大神がニニギに授…
これは筆者だけが持つ悪しき歴史癖?なのかもしれませんが、明治維新後は ともかくとして、それ以前の日本と世界、この双方を重ね合わせて眺めること があまりスムーズにできません。 早々に白状しておくなら、歴史年代を記憶することがてんで苦手なことに その理由があるようです。 こうした傾向は「年代オンチ/数字記憶障害」とでも呼べるのかもしれませ んが、ともかく、覚えたはずの…
治承4年(1180年)8月29日に安房国に上陸した源頼朝は、以仁王令旨を掲げて同地を納める安西景益らに協力を要請するとともに、下総国、上総国への進出を考...
治承4年(1180年)8月23日の石橋山の戦いで大敗を喫した源頼朝は、地元の地理に明るい土肥実平の手引きで山中深く逃げ込み、しばらく身を潜めていました。...
治承4年(1180年)8月17日に挙兵した源頼朝の最初の標的となったのは、伊豆の目代・山木兼隆とその後見の堤信遠でした。出陣は深夜。『吾妻鏡』によると、...
以仁王の乱は、発覚から10日余りという短さで鎮圧されてしまいましたが、『吾妻鏡』によると、それから1ヶ月余りを経た治承4年(1180年)6月19日、源頼...
頼朝と政子、いつの間にか結婚しちゃってましたね(笑)。二人の結婚がいつだったかは正確な史料は残っていませんが、真名本『曽我物語』によると、「安元弐年丙申年...
さて、令和4年(2022年)の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』が始まりました。第1回のサブタイトルは「大いなる小競り合い」。その内容は、北条家と伊東家との小...
実に二十歳で、現在の数え方なら十九歳で亡くなった父を源頼朝、母を北条政子の間に生まれた長女・大姫(1178?-1197年)の生涯には悲しいものがあります。この二十歳の死に対する責めは父親・頼朝が負うべきものでしょう。それには、こんな経緯があったからです。「源氏」の
所用ついでに立ち寄った図書館で、ひょいと手にした本のタイトルが 「女系図でみる驚きの日本史」(大塚ひかり著)となっていました。 まったく知らない著者であるばかりでなく、内容についてもなんの知識も 持ち合わせていませんでしたので、いうならば衝動買いならぬ衝動借りをした というカタチでした。
生まれて直ぐの頃に父親を亡くし、数え二歳の頃には生母とも引き離されて 寺へ預けられる。 ですから、幼い頃に実の両親の愛情を体験することはありませんでした。 その後の僧として寺で過ごすこともまた本人の性に合わなかったようで、 そうした生活環境を嫌って、寺を出奔し奥州へ向かっています。 これが11歳の頃のことです。
さて、いきなりこんなクイズに出くわしたとしたら、アナタは無事に通過することができますか?問題~「前九年の役」と「後三年の役」、さて両役をトータルすると、 全体では何年になるのか?~そう問われれば、まあ大抵の御仁は「前の九年」と「後の三年」を足し算
鎌倉幕府の歴代将軍についての筆者の知識といえば、 ~初代将軍には源頼朝が就き、続く第二代、第三代までは頼朝の嫡流。 それが途絶えた以降は頼朝夫人の北条政子及びその実家である北条家が 幕府の実権を掌握した~ せいぜいがこの程度のことで、言葉を換えるなら第四代以降の将軍については 「何も知らんゾ」という有様でした。 ところが、…
敵対する組織が存在することで「スパイ」活動が活発化することは、国家間の 諜報活動に限らず、企業間のいわゆる産業スパイについても言えることです。 こうしたことは、20世紀におけるアメリカVSソ連(現:ロシア)の姿、 あるいはニュースでも報道される企業間のトラブルなどを眺めれば、割合 無理なく理解できるところです。 そういうことから、ちょっとした連想。
武士政権と聞けば、まず大方は以下の三つの幕府政治を連想することでしょう。 時代順に並べれば、こうなります。 ○鎌倉幕府(1185頃-1333年) 創立者/源 頼朝 ○室町幕府(1336 -1573年) 創立者/足利尊氏 ○
筆者のお気に入りお散歩コースの一つにもなっているのですが、名古屋市内に ある熱田神宮の西側国道の向かいにある誓願寺という浄土宗寺院は、実は 源頼朝(1147-1199年)誕生の地とされています。 えぇ、武家政権を確立し鎌倉幕府という組織を創立したあの有名な頼朝の ことで、それが証拠にちゃんと「頼朝生誕の地」
天孫降臨の際に天照大神から孫の「ニニギ(瓊瓊杵尊)」に手渡されたとされる「天叢雲剣(草薙剣)」、そもそもは、天照大神の弟・スサノオ(素戔嗚尊)が出雲国でヤマタノオロチ(八岐大蛇)と戦った折りに、尾の中から出てきた剣だとされています。しかし、後には「三種神
長らくの間源頼朝を描いたとされていた下の肖像画も、最近はそれを 疑問視する声が上がっているとのことです。 どうしてそんなことになっちゃうのかはよくわかりませんが、そこはそれ お話のついでですから、少し探ってみることにしました。 ところが、これが結構にややこしい道を辿ることになってしまったのです。
奥州藤原氏は順に、初代・清衡(1056-1128年)二代・基衡(1105-1157年)三代・秀衡(1122?-1187年)四代・泰衡(1155-?1189年)と続きました。そして、その本拠にあるあの有名な「中尊寺・金色堂」は、初代・清衡によって1124年に建立されたとされています。ですから、そ
新型コロナの外出自粛でできた時間でネット徘徊をしていたら、ひょっこり こんな文言にぶつかりました。 一般的には「鎌倉大仏」とか「長谷の大仏」の呼び方で知られる大仏像に ついての説明文です。 ~鎌倉大仏および、大仏が鎮座する寺・高徳院の双方とも、その建造理由、 開山(…
結果的に源氏VS平氏の直接対決最終戦となった「壇ノ浦の戦い」(1185年)は、一面では天皇の正統性を担保する「三種神器」の争奪戦という性格も備えていました。結局、この戦いにおいて平氏が擁する第81代・安徳天皇(1178-1185年)は死亡、そして平家は滅亡に至っています。
武家政権、つまり幕府機構のことですが、そのトップである征夷大将軍の地位に就けるのは源氏の血統のある者だけでした。そもそも、武家政権の最初である鎌倉幕府を創立したのが源氏の血筋にある源頼朝(1147-1199年)でしたから、その後の幕府もこの伝統を継承していったと言
歴史の劇的変化の時期には、その主役もどきの人物が登場するものです。 例を挙げるなら平家滅亡に至る時期がまさにその通りで、実際ここの局面 では「奇跡の三連戦三連勝」※を成し遂げた源義経(1159-1189年)の活躍 に目を奪われて他のことにはあまり意識が向かないものです。 ※一の谷の戦い 1184年/屋島の戦い 1185年/壇ノ浦の戦い 1185年 …
日本神話によれば、いわゆる天孫降臨に際し天照大神はこのように宣言した そうです。 ~この地(日本)は私の子孫が王となるべき地であり、またそうする ことで私の子孫(天皇・皇室)が栄えることは永遠である~
源頼朝(1147-1199年)と北条政子(1157-1225年)の夫婦間に長女として生まれた大姫(1178-1197年)が亡くなったのは二十歳のときでした。現在の数え方なら満十九歳に当たる年齢です。その短い生涯は時の政治状況に翻弄されたものであり、もとより自分が望んだ生き方ではあり
知名度比べということなら、「承久の乱」(1221年)は、いささかマイナーな印象にもなりそうですが、その意義の面では突出したものがあったと断言してよさそうです。平たく言えば、その後の「日本のカタチ」を決める戦いになったということです。よく見れば、これよりは有名
平安時代の終わり頃、平氏棟梁であった平清盛(1118-1181年)が、 武士階層出身の初の太政大臣に任じられるや、その直後に、今度は源氏の 貴種にあった源頼朝(1147-1199年)が幕府を開くことで武家政権を確立 させることに成功しています。 そして、武士の二大勢力であるこの源氏と平氏が覇権を争った、概ね 11世紀末から12世紀末までの約100…
ただいまー(玄関がちゃり) // パッと明かりが灯る玄関。爽快。 リノベーション完了後、実はこれが一番良かったなと感じております 残業で夜遅い時間に疲れている状態で帰宅。暗い部屋に帰ってきて玄関の照明スイッチを押す・・・ この何気ないことが今まではちょっとしたストレスになってたんじゃないかなと思いました しかしそういったストレスも今回解消することができました! ストレス解消の立役者。この自動で照明を点けてくれるやつの正体は人感センサースイッチです! これ。 玄関に入ってすぐの位置に設置しております。これがとにかく便利なんです! リノベーション前は一般的な押下するタイプのスイッチでした。 こんな…
武家政権(鎌倉幕府/1185年?-1333年)が樹立されて以降、その トップの座を「征夷大将軍」という称号?で呼ぶことにしました。 その座に就いた人物の数は鎌倉幕府9代、室町幕府15代、江戸幕府15代、 という内訳で、合計では39人になります。 では、この他には金輪際誰も「征夷大将軍」にならなかったかと言えば じつは必ずしもそうとは言い切れない…
それまでにはなかった新しい階層「武士」の登場。その経緯を探ってみると、たいていはこのくらいの説明になっています。〜王朝国家体制の確立によって、朝廷は地方統治を事実上放棄した。 その上、桓武天皇が軍団を廃止した結果として、地方は治安が悪化し 無政府状態に陥り、16世紀まで日本列島は戦乱が頻発するようになった。 国家から土地経営や人民支配の権限を委譲された有力百姓(田堵・名主) 層は、自衛のために武装し、武士へと成長した〜 Wikipedia 「平安時代」...
いわゆる「武士政権」を最初に立ち上げた人物として、普通は平安時代末期に活動した平清盛(1118-1181年)の名が挙げられ、その仕組みを所在地の名称から(京の)「六波羅政権」という呼び方もしているようです。
前九年の役・後三年の役と呼ばれる、長期に渡る奥州合戦に一応の決着がついた後、この地を実質的に統治するようになったのが、いわゆる「奥州藤原氏」の一族でした。その統治は1087年に始まり、鎌倉幕府の創立者・源頼朝(1147-1199年)に滅ぼされる1189年までの、ほぼほぼ百
第45代・聖武天皇の発願により、745年にに制作が開始され、752年には開眼供養の儀式が行われました。このように、「奈良大仏」については、その建立経緯が割合はっきりしているのに、おそらくは鎌倉時代に建立されたであろうもう一方の「鎌倉大仏」となると、~誰が?いつ?
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在野の研究者の歴史書から学んだ結果をまとめたもの
日野市および周辺の地域情報や歴史にまつわる話を取り上げています。
日本100名城・続日本100名城に関する記事なら何でもOKです
親鸞
令和3年(2021年)の大河ドラマ「青天を衝け」を応援しましょう。
ガイドブックに載っていない、ローマの観光スポットを歴史とともに語る。
夫余(ふよ、朝鮮語: 부여、拼音: Fúyú、正字体:夫餘)は、現在の中国東北部(満州)にかつて存在した民族およびその国家。扶余(扶餘)[1]とも表記される。 https://ja.wikipedia.org/wiki/夫余
町奉行・寺社奉行・公事方勘定奉行、自身番屋・辻番・木戸番、火付盗賊改、関東取締出役、目明し・岡っ引き・手先、囚獄、評定所などに関するトラバ用テーマです。
私が書き残しておかなければ、永遠に埋蔵金が発掘されないであろうと思い、気力と体力のあるうちに30数年前に埋蔵金の研究をしたことを記載する。当時、埋蔵金発掘番組が世間を騒がしていたことを記憶されている方もおられると思うが、日本トレジャーハンティングクラブの代表として、TV局に番組の修正を依頼した経緯なども付け加えておく。
戦後GHQは昭和三年から昭和二十年までに刊行されていた書物のうち7769点を指定し、本屋などで流通していた書籍を没収・廃棄し、戦後の日本人に読めなくしました。 どのような書籍が没収されていたかを調べると、軍国主義的な書籍よりも圧倒的に多いのは、戦勝国にとって都合の悪い史実などが書かれた本であることが分かります。 GHQ焚書は、「国立国会図書館デジタルコレクション」で、3割程度の本がネットで公開されています。実際に読んでみると、戦後詳しく知らされてこなかった史実などが満載です。