在野の研究者の歴史書から学んだ結果をまとめたもの
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【気合♨】松尾神楽の湯立神楽2024は迫力あり! in 大分県豊後大野市【祭り】
鞍ヶ池公園東 矢並八柱神社の神馬 2(高見彰七 推定作品)
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【高見彰七 リスト集2 No.24】 八王山 春光院 (その2)
草津 温泉はないけど
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【高見彰七 リスト集2 No.25】 豊田市渡刈町 銘「与次」 その2
【高見彰七 リスト集2 No.25】 豊田市渡刈町 銘「与次」 その1
五所川原市 長円寺の歴史と史跡をご紹介!卍
先日、道東に行く用事がありその途中で室蘭の地球岬に立ち寄りました。絵鞆(室蘭)半島の名所ですね。筆者、室蘭の中では好きな場所の一つです。室蘭は函館よりもずっとアイヌ語由来地名が多いです。ちなみに絵鞆半島の絵鞆、その由来を引用していきますと上
臼尻は函館市に合併された旧南茅部町の地名です。臼尻村として昭和16年まで存在し、その後は南茅部町に統合されます。その臼尻という地名も遡ると江戸期にその名前を見ることができます。臼尻村役場跡碑臼尻という地名の由来を『角川地名大辞典』から紐解く
今年は寅年ということで、ちょっと「寅」の付いた北海道地名をご紹介。南富良野町に幾寅(いくとら)という地名があります。ちょっと聞くと変わった地名だなと思いますが、そこは北海道です、すぐにアイヌ語が由来の地名と気が付くことでしょう。『角川日本地
旧戸井町の中心地を越えて国道278号線を恵山方面に車を走らせると、熊別川が見えてきます。その地名由来はアイヌ語と言われています。永田方正氏の『北海道蝦夷語地名解』、通称『永田地名解』には亀田郡 Kuma-o-pet クマオペッの項として、魚
函館市の駅から見て太平洋側、大森浜の方にある住吉町。その地名由来はもちろん、他の市町村同様、住吉神社に由来します。しかし、住吉町付近の旧名は尻沢辺という地名でした。『北海道蝦夷語地名解』では、Shiri sara be シリサラベの項として
↓ ↓ いよいよ前回記事からの最終回です。大分時間があいてしまいました。尻岸内川に架けられた「女那川橋」・・・普通に考えるなら「尻岸内橋」が妥当なネーミングです。前回お伝えしたように、尻岸内川は昔、エネケシナイやエ(ゑ・イ)キシナイの呼ばれ
前回、尻岸内の地名由来を調べていると、尻岸内川の大橋の名前が「女那川橋」という地名がありちょっと疑問をもったので調べてみようということになりました。別の川の名前いつもの通り、困ったときの『角川地名大辞典』の女那川の項を調べてみると、昭和8年
尻岸内は江戸期からある地名で、尻岸内村を経て昭和39年に尻岸内町、昭和60年には恵山町と改称します。現在でも、河川名や神社、郵便局にその名前は残されています。尻岸内の中心部は尻岸内八幡神社がある辺りで、現在は大澗町と名前を変えています。尻岸
先日、乙部町を訪れたときにくぐり岩とシラフラという場所に立ち寄ってきました。奇岩と白い絶壁があるところらしいので、ちょっと見ていこうと寄り道。道南に住んでいるといつでも行けるので、わざわざ地元の観光名所を見て回ることも少ないと思います。筆者
更科源蔵氏は詩人でアイヌ文化研究を行った人物です。晩年は北海学園大学の教授も勤められました。更科源蔵氏の『アイヌ関係著作集』は 全10巻でみやま書房から1981-1984に出版されています。今回は筆者の好きな地名関連の著作集Ⅵの紹介です。以
旧戸井町、現在の函館市の地名で、今では町名と岬名になっています。古くは「汐くび」とか「塩くひ」などと文献に見られます。『北海道蝦夷語地名解』では、シリ ポㇰの項として、山下 和人汐首ト訛ル永田方正『初版 北海道蝦夷語地名解 復刻版』(草風館
函館市の銭亀町は昭和41年からの町名ですが、合併前の銭亀沢村が前身となります。函館市に合併される前までの銭亀沢村は、明治35年に銭亀沢村と石崎村、志苔村、根崎村の4か村が合併して成立したものです。その4村が合併前の元々の銭亀沢村があった場所
函館市石崎は汐泊川の東方の津軽海峡沿岸の地名です。『北海道蝦夷語地名解』には、シララ・エト゚の項として岩岬 石崎村永田方正『初版 北海道蝦夷語地名解 復刻版』(草風館、1984年)176頁と記しています。おそらくsirar-etu シラㇽ・
渡島の亀田半島南沿岸部、旧戸井町に小安(おやす)という地名があります。近くには谷地町川・高屋敷川・小安川が流れており、地名の由来になっているのは小安川だと思われます。永田方正氏の『北海道蝦夷語地名解』には、オヤ・ウシの項として、川尻ノ漁塲
道南厚沢部町に当路(とうろ)という地名があります。その由来はもちろんアイヌ語と言われていますが、『角川地名大辞典』から引用すると、(前略)地名は、アイヌ語で沼が群をなしているところとか、湿地帯の多いところの意であるトロに由来するとされる(ア
立待岬は「たちまちざき」とも言われ、函館の南端で函館山の東にある岬です。観光名所としても有名なので道外の方もよく知っている地名かもしれません。近くには石川啄木一族の墓もあります。これはおそらく俗説でしょうが、筆者が子供のころには身を投げ入れ
上原熊次郎の『蝦夷地名考幷里程記』には、夷語、ツ゚ゥトボキなり。ツ゚ゥとは出崎なる山の事。トはのと云う助語なり。ボキとは蔭と申事。此所崎の陰なるゆへ地名になすといふ。(後略)上原熊次郎「蝦夷地名考幷里程記」(山田秀三監修、佐々木利和編『アイ
もしアイヌ語地名や北海道の地名に興味を持ったら、はじめにどの本を手に取ればいいだろうか?と思われる方がいたら、山田秀三氏の書いた『北海道の地名』をオススメします。北海道の地名はアイヌ語由来の地名が大半を占めますが、それ以外のものも存在します
軍川は大沼南部にある小川ですが、その地名を聞くと戦場ヶ原のように昔この川を境にアイヌと和人の戦いがあったのかと思わせる名ですが、真相は全く違います。『角川地名大辞典』によると、軍川の流れ(前略)地名の由来は、文久3年相馬藩の熊川易隆は「箱館
国道5号線を北上して大沼トンネルを抜ける手前までが峠下と呼ばれる地域です。『角川地名大辞典』には峠下の地名由来に関して、 峠ノ下・嶺下とも書いた。渡島地方南部、久根別川上流の函館平野北端に位置する。地名は大峠または長坂峠と称される峠の下に位
二つの地名は函館市の宇賀浦町と志海苔町と現在は呼ばれていますが、この二つには共通点があります。それは、どちらも同じアイヌ語がルーツであるらしいということです。宇賀昆布宇賀浦町地名掲示板宇賀浦町は函館市の大森浜近辺の海岸沿いで昭和6年9月に新
函館方面から国道37号線を海岸沿いに長万部方面へ抜けていくと、37号線は左に曲がり静狩峠へ向かいますが、真っ直ぐというかやや右に反れながら静狩市街に入っていく道があります。静狩市街を真っ直ぐいくと右手に漁港が見えて行き止まりとなります。長万
恵山は道南の最東端の地名であり、今では山や岬、町名としてその名前が残っています。恵山の地名のルーツを探っていくと、やはりアイヌ語に行きつくのですが、『北海道蝦夷語地名解』には岬と山について恵山の意味が二つ書いてあります。まずはエサン、岬の説
七飯町に大沼国定公園があります。その大沼公園は夏は遊覧船や釣り人で、冬はスノーモービルやワカサギ釣りで賑わいます。と言っても最近はめっきり訪れる人が少なくなったなあ、なんて思います。筆者の子供の頃は小さい針でフナやコイを釣る釣り堀ならぬ釣り
在野の研究者の歴史書から学んだ結果をまとめたもの
日野市および周辺の地域情報や歴史にまつわる話を取り上げています。
日本100名城・続日本100名城に関する記事なら何でもOKです
親鸞
令和3年(2021年)の大河ドラマ「青天を衝け」を応援しましょう。
ガイドブックに載っていない、ローマの観光スポットを歴史とともに語る。
夫余(ふよ、朝鮮語: 부여、拼音: Fúyú、正字体:夫餘)は、現在の中国東北部(満州)にかつて存在した民族およびその国家。扶余(扶餘)[1]とも表記される。 https://ja.wikipedia.org/wiki/夫余
町奉行・寺社奉行・公事方勘定奉行、自身番屋・辻番・木戸番、火付盗賊改、関東取締出役、目明し・岡っ引き・手先、囚獄、評定所などに関するトラバ用テーマです。
私が書き残しておかなければ、永遠に埋蔵金が発掘されないであろうと思い、気力と体力のあるうちに30数年前に埋蔵金の研究をしたことを記載する。当時、埋蔵金発掘番組が世間を騒がしていたことを記憶されている方もおられると思うが、日本トレジャーハンティングクラブの代表として、TV局に番組の修正を依頼した経緯なども付け加えておく。
戦後GHQは昭和三年から昭和二十年までに刊行されていた書物のうち7769点を指定し、本屋などで流通していた書籍を没収・廃棄し、戦後の日本人に読めなくしました。 どのような書籍が没収されていたかを調べると、軍国主義的な書籍よりも圧倒的に多いのは、戦勝国にとって都合の悪い史実などが書かれた本であることが分かります。 GHQ焚書は、「国立国会図書館デジタルコレクション」で、3割程度の本がネットで公開されています。実際に読んでみると、戦後詳しく知らされてこなかった史実などが満載です。