在野の研究者の歴史書から学んだ結果をまとめたもの
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現代日本ではとんと見られることがなくなった「天然痘」も、実は明治時代に入るまではかなり猛威をふるっており、その凄まじい病状自体がまた「恐怖の対象」になっていた。仮に運よくこの「病状」を乗り越えられたとしても、はっきり天然痘跡が残る人も少なくなく、実際、幕
人為的災害として、犠牲者の多さでは日本史上でも指折り数えられるであろう一つが「明暦の大火」(別名・振袖火事/1657年)だ。その数は10万人以上にもなったようだから、彼らを葬ってやろうにも人数が多すぎて、とてもじゃないが民間だけでは対応し切れない。そこで幕府が
少々乱暴に言い切ってしまうなら、明治に入った頃のいわゆる「文明開化」とは、日本が従来使用していた「モノサシ」を西欧製のそれに切り替えることだったのかもしれん。いい例が、伝統ある?「チョンマゲ頭」から割合素気ない「ザンギリ頭」への転換だが、ひょっとしたら女
橘氏の出身で唯一皇后に立てられた女性、それが第52代・嵯峨天皇の皇后となった橘嘉智子(786-850年/享年65)であり、仏教への信仰が篤く、日本最初の禅院・檀林寺を創建した事績から死後「檀林皇后」と諡号された。千年以上経った今もなお、世に類なき美貌の持ち主だった、
日本列島をいくつかに分ける場合、代表的なひとつが北から順に、北海道/東北/関東/中部/近畿/中国/四国/九州、この「八つ」の地方に分割する方法だ。まあ、これには異議もないと思うがダ、ひょっとして、ヒメ隊員はこんな疑問を抱いたことはないか?~「中国地方」の
ヒメ隊員はおそらく、「国定教科書」ってものを御存知ではなかろうから、始めに少し簡単な説明をしておこう。~日本では1903年(明治36)から小学校の教科書が国定と され、忠孝の教育が強調されたが、1948年(昭和23)以降は 教科書検定制度に移行した~つまり戦前は忠孝
「京都守護職/会津藩松平肥後守容保中将/御預浪士/ 新選(撰)組」(前身は壬生浪士組).これが「新選(撰)組」の正式な名称ということになる。ただ、「新選組」と「新撰組」の表記については、さして拘りがなかったのか、局長の立場にあった近藤勇(1834-1868年)自
日本神話にはこんなエピソードが語られている。~天照大神の孫・ニニギノミコト(瓊瓊杵命)は「天孫降臨」 を果たした後に、 木花咲耶姫(コノハナノサクヤヒメ)に 出合い求婚したところ、姫神の父親はこの縁談を大いに喜び、 姉の石長姫 (イワナガヒメ)まで差し出
織田信長(1534-1582年)についての一代記「信長記」には、太田牛一(1527-1613年)の手によるものと、これとは別に小瀬甫庵(1564-1640年)が著したものがあって、両者を区別するために、一般的には牛一版を「信長公記」(1600年頃?)、甫庵版を単に「信長記」または「甫庵
さて、時代は江戸開発が盛んになった頃、そのことによって必然的に干拓地が増えた。また、それに伴ないそこには鰻も棲みつくようになったそうだ。そして、そうした鰻(江戸前)を労働者たちが食べるようになり、さらにはそれがキッカケとなって今日の「鰻食」が普及したとさ
後に日本最初期の職業写真師のひとりに数えられることになる上野彦馬が生まれたのは1838年。 奇しくもその翌年(1939年)、写真(銀板写真/ダゲレオタイプ)技術が発明され、その影響もあって、早くも1840年代には欧米で一種の「肖像写真」ブームが見られたそうだ。とはい
「関ケ原の戦い」(1600年)の直前の話だが、当時豊臣方(西軍)を切り盛りしていた故・豊臣秀吉の腹心・石田三成(1560-1600年)は、有力武将を味方につけるべく、その妻子を人質に取る作戦をとった。人質を大坂城に留め置くことで、彼らが徳川方(東軍)につくこと、それと
若武者・牛若丸(後の源義経/1159-1189年)と、後にその郎党となった僧兵・武蔵坊弁慶(生年不詳-1189年)との出会いは、童謡「牛若丸」にも歌われるほど有名で、こんな内容になっています。~京で千本の太刀を奪う悲願を立て、通りがかった武者に 決闘を挑んでは、それに
~織田信長(1534-1582年)は、大将の馬の廻りに付き添って護衛・ 伝令・決戦兵力として働く親衛隊的な存在である「馬廻」などの 精鋭を赤・黒二色の「母衣衆(ほろしゅう)」として抜擢した~さらに、~その中でもとりわけ優秀な者については、部隊の指揮官にまで 昇進さ
「逆説の日本史 20幕末年代史編Ⅲ」の中で、著者・井沢元彦氏は佐久間象山(1811-1864年)の暗殺に触れ、こう書いています。 ~日本史上もっともテロが横行した幕末の文久から元治にかけても、 「人斬り」とまで呼ばれた人間は四人しかいない。 この「人斬り彦斎」こと熊
天皇の命令、さらにはそれを記した文書を意味する詔と勅には区別があって、厳密にはこうなるそうです。○詔 → 臨時の大事に用いる。○勅 → 尋常の小事に用いる。両方を合わせて「詔勅」という表現も用いられます。ところが、日本の歴史の中には「偽勅」「密勅」という
~殿中(江戸城内)において浅野長矩が吉良義央に刃傷に及ぶ~いわゆる「元禄赤穂事件」(1701年)の発端となった出来事ですが、この第一報は、当時の常識を打ち破る“驚異的なスピード”をもって、国許・赤穂まで届けられました。普通の旅行者なら概ね17日、飛脚なら8日をか
とある少年の特異な体験談(1820年頃)が世間の注目を集めていた。~オイラは、神仙界に自由に行き来できる不思議な老人(仙人?) と出会い、その老人に連れられてあっちこっちと飛行し、やがて 常陸の岩間山へ飛ぶや、その山中で四年間にわたって諸武術・ 書道・祈祷術
みたび、金関丈夫の『考古と古代――発掘から推理する』(法政大学出版局)から。この中の一章「十六島名称考」で、島根県の、十六島と書いて「ウップルイ」と読む地名の由来が考察されている。金関はその語源を朝鮮のほうに求めているのだが、話はほかの地名にも及んでおり、かつて壱岐に「於路布留」という地名があったが、読みは「オロプル」だったという推論を述べたあと、話題は蛇に転じる。壱岐の於路布留はオロプルだったとわかりましたが、このオロはまた、出雲に現われたヤマタのヲロチのヲロと共通かも知れません。いったい蛇には「ヘビ」「ハミ」「ハブ」の系統の名称の他に「チ」という名があり、水に住むものが「ミヅチ」(水の蛇、竜)、野にいるものが、「ノヅチ」(野の蛇、野槌)などといわれています。(中略)蛇の一名であるこの「チ」は、アルタイ語系の...蛇と生命、その語源
日本人が大好きなお芝居ということなら、元禄赤穂事件をモデルにした「忠臣蔵」は必ずその上位にランクインすることだろうが、お芝居の方が有名になりすぎてしまい、史実の方はいささか影が薄い。それは、一般的には「殿中刃傷事件」(1701年)とその後に発生した「吉良邸討
人間の年齢って、いつ加算されるのか?現代人と昔の人ではこの問題に対する回答はおそらく異なるであろうことを、若いヒメ隊員は理解できるかな。そう、言葉にすれば、「満年齢」を採用している現代に対し、明治以前は「数え年」を使っていたからだ。では、昔の人はなぜ「数
前回に引き続き、金関丈夫の『考古と古代――発掘から推理する』(法政大学出版局)から。この中の一章「海南島の黎族」で、中国の少数民族、海南島に住む黎族(リー族)の、独特な文化が紹介されている。特に僕の目を引いたのは、靴に関する風習。女の子が十四歳くらい、つまり見るものを見るころになると、両親は住家をはなれた畑の中に、娘のための小屋をつくってやる。(中略)日がくれると、村の若い衆がこれを訪問する。女よりさきにはいって待っている。一番乗りの男に、その夜の優先権がある。こうした交際でできた幾人かのボーイフレンドの中から、結婚の相手をきめる方法がおもしろい。娘が下駄の片方をつくる。ボーイたちもそれぞれ片方の下駄をつくる。それを合せてピッタリとサイズの合うものが選ばれる。歌合せでなくて、下駄合せだ。(中略)この下駄合せの方...靴と婚姻と二足歩行
~白地の中央に太陽(日章)の赤丸をあしらった日章旗(日の丸)を、 いつ誰が日本の国旗と決めたのかしらん?~突然にこんな質問をぶつけられたとしたら、「日の丸弁当」の方ならともかくも、まあ大抵の方は即答できるものではありません。そこで頭の中を少々クールにした
金関丈夫の『考古と古代――発掘から推理する』(法政大学出版局)を読んでの気付き。この本は、考古学・人類学・民族学を専攻し、発掘調査も行う金関が、様々な媒体に発表した、おもに考古学に関する論考をまとめたものである。その中の一章「髑髏盃」で、インド洋アンダマン島のオンギ族や、台湾の高砂族、ヒマラヤ地方などに、人の骨を加工して様々な道具を作る「人骨文化」があるとして、次のような具体例を挙げている。また、人の大腿骨や脛骨で、笛をつくって、祭りのときに演奏したりする。(中略)この、人骨で笛をつくる風習は、しかし、この地方だけではなく、近東からアフリカにまでひろがっていて、例えば古代エジプト人は、人間の脛骨で笛をつくり、これを、その骨の名をとって、シビと呼んだ。これは今の脛骨の学名であるラテン語のチビアと同語であり、またそ...骨と音楽と呪術
「関ヶ原の戦い」(1600年)の折の出来事です。いささかの手違いがあって、心ならずも 西軍にその身を置くことにしたのが薩摩国・島津義弘(1535-1619年)でした。戦闘についての作戦もそれなりに具申しましたが、ただ西軍指揮官である石田三成(1560-1600年)はそれに賛意を
佐渡島への配流(遠島)について、こんな記事がありました。~722年の古くから始まり、1700年に廃止されるまで、実に 979年間の長きに渡って続いた~さらには、~奈良時代から室町時代にかけて76人、江戸時代に139人の 合計215人だった~そして、~1601年のこと、この「遠
苦労の末に奪取した自らの権力を、わが子・秀頼に継承させるべく心を砕いた晩年の豊臣秀吉(1537-1598年)は、政権運営の一端を配下の有力武将、いわゆる「五大老」に輔弼させる形を取りました。徳川家康・前田利家・毛利輝元らに混じって、五大老には、秀吉に可愛がられてそ
「士農工商」とは、元々は中国・儒教が生んだ身分概念ですが、日本の学校教育などでは、これを江戸時代における身分序列であり、「四民」を偉い順に並べたものだと教える向きもありました。しかし、実際には儒教の概念を超えるものではなく、身分序列というほどに厳密で窮屈
織田信長(1534-1582年)から偏諱の「信」の字を、また下の字「康」を父・徳川家康(1543-1616年)から与えられたのが、後に「切腹」に追い込まれることになる家康嫡男・松平信康(1559-1579年/生前は徳川姓)でした。通説によれば、その「切腹」の発端は信康正室・徳姫が父
~宇宙の中心である中国王朝の文化・思想のみが最高のもので あり、それを持たない周辺(辺境)の異民族は単なる野蛮人に 過ぎない~こうした思想を「中華思想」と呼びますが、これがハンパなものでないことは、東西南北四周の異民族の総てに対して、野蛮人を意味する東夷
いわゆる「黒船来航」(1853年)より半世紀ほど前のこと、鎖国体制にあった日本の長崎港にイギリス軍艦が突如侵入するという事件がありました。軍艦の名から「フェートン号事件」(1808年)と呼ばれています。イギリス軍艦であるにもかかわらず、「オランダ国旗」を掲げて堂
その藩の籍から離れ、主従関係を解消する「脱藩」・・・こうした経験を持つ人物は、幕末に限っただけでも何人もいます。たとえば、長州藩士・吉田松陰(1830-1859年)は、我が目で東北の状況を確かめるべく旅行を計画したものの藩からの許可発行が遅れたため、それを待たずに
江戸時代には前後三回の「伊勢参り」フィーバーがありました。①1705年(宝永2年)/②1771年(明和8年)/そして③1830年(文政13年/天保元年)です。参詣者数の数字を具体的に挙げれば、①③では人口の12%以上、②では同6%以上と推定されています。またいずれの年も、いわゆ
あまり有名な出来事ではないかもしれませんが、1864年のこと、備中国(現:岡山県)井原領主・池田長発(ながおき/当時28歳/1837-1879年)をリーダーとした34名からなる「遣欧使節団」が、幕末の日本を離れ、遠くフランスへ渡航した事実があります。 これより2年ほど前の
七つの海を跨く「イギリス帝国」を構想し、世界に「植民地」を拡大していていたのが19世紀のイギリスであり、海禁(鎖国)中のアジアの超大国・清国(中国)に対して起こした「アヘン戦争」(1840-1842年)も、まさにそうした行動の一つでした。完膚なきまでに叩きのめされた
時代劇でもしばしば取り上げられる「新選(撰)組」。非常に微妙な存在であることはその正式な名乗りからも窺えます。~京都守護職/会津藩松平肥後守容保中将/御預浪士/新選(撰)組~同じ頃活動した「京都見廻組」が幕臣(旗本・御家人)で構成された正規(公的)の組織であ
たとえば江戸時代の人が「東海道五十三次」の旅行に挑んだとします。江戸日本橋から京都三条大橋まで、あるいはその逆のコースでも同じですが、東海道の道のりは490km余り。さて、それだけの距離の徒歩旅行ともなれば、宿場町という一種のサービス・エリア?がある地域はとも
最初の「黒船来航」(1953年)の折、開国を迫ったペリー艦隊は、その帰りしなに、幕府に対してこんな挨拶を言い残しました。~また来年もお邪魔に上がりますから、どうぞヨロシクね~この言葉にアワを食ったのが幕府でした。なぜなら、開国を迫るようなウットウしい奴らには
日本で「百獣の王」といえばライオンだが中国では虎であり中国版の御書では「鬼に金棒」が「虎に翼」と訳されアニメの「タイガーマスク」の絵と同じである。
「古事記」では「木花之佐久夜毘売」、「日本書紀」では「木花開耶姫」、一般的には「木花咲耶姫」と表記される「コノハナノサクヤヒメ(ビメ)」という名が神話に登場しています。咲く花をイメージさせるまことに美しい名の姫です。実はこの姫、「天孫降臨」を果たしたニニ
江戸時代後期の浮世絵師・葛飾北斎(1760-1849年)には、数多くのユニークな逸話が残されています。 たとえば、○改号すること30回?(異見もあり/「北斎」はその内の一つ)。○生涯に93回?の「引っ越し」を繰り返した。○どの住まいも掃除をすることなく「ゴミ屋敷」化が
江戸時代(1709年)のこと、燃える使命感を抱き、なんと髪を月代に剃り和服に大小二本差しという武士姿になって、日本(屋久島)上陸を果たしたイタリア人カトリック司祭・シドッチ(シドッティ/1668-1714年)がいました。かなり本格的?な変装ではあったものの、日本語が使
~日本の真ん中ってどこだろう~ふと、こんな疑問が頭に浮かんだので、ついでのことにチョイと調べてみようと思い立ったのです。ところが、「日本の真ん中」を決めるにも、実に多種多彩なモノサシがあることを知りました。たとえば、こんな具合です。○国土の重心・・・石川
戦国の雄・織田信長(1534-1582年)についての一代記「信長記」には、信長近習の書記・太田牛一(1527-1613年)の手によるものと、これとは別に、儒者・小瀬甫庵(1564-1640年)が著したものがあります。両者を区別するために、一般的には牛一版を「信長公記」(1600年頃?)
江戸中期の浮世絵師・東洲斎写楽は、一般的には~1795年5月から翌年3月にかけての約10ヶ月に百点以上の 錦絵を残し「忽然と姿を消した」?謎の人物~と理解されているようですが、これって少しヘンなのでは?なぜなら、考証家・大田南畝が同時代に著した「浮世絵類考」には
今回は、「失われた三田用水遺構と戦艦大和と目黒新富士~三田用水跡散策(6)」での散策場所近くにある史跡を通じて、隠れキリシタンについて考察してみます。また、本記事は「三田用水跡暗渠散策シリーズ」の番外編となりますが、番外編としては本記事の他に以下の2つの記事とシリーズがあります。①「日本最大のイスラム寺院・東京ジャーミイを訪問」②『「芸能人・著名人の自宅」と「湧水」を探訪~代々木八幡・初台・西原・大...
明治になって廃藩置県(1871年/明治4年)が実施されるより以前は、たとえば筆者の生息地・愛知県で言えば、西半分は「尾張国」、東半分は「三河国」というように、いわゆる旧国名で呼ばれていました。そしてこの旧国名に「州」を付けて漢字二文字で表す略称もどきの言い方も
排除 敗戦国 ハイチ バイデン PAC3 パキスタン 朴槿恵 橋本聖子 橋下徹 鳩山邦夫 鳩山首相 鳩山内閣 鳩山由紀夫 橋下徹 橋本派 長谷寺 罰則 初詣 ハディド 鼻出しマスク パナマ パナマ運河 パナマ文書 花見 羽生結弦 バブル崩壊 浜口雄幸 はやぶさ 原田泳幸 バラマキ パリ 巴里 播磨国風土記 パワハラ ハンガリー ハンク・アーロン 番号 反社会的勢力 阪神 阪神淡路大震災 阪神タイガ...
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在野の研究者の歴史書から学んだ結果をまとめたもの
日野市および周辺の地域情報や歴史にまつわる話を取り上げています。
日本100名城・続日本100名城に関する記事なら何でもOKです
親鸞
令和3年(2021年)の大河ドラマ「青天を衝け」を応援しましょう。
ガイドブックに載っていない、ローマの観光スポットを歴史とともに語る。
夫余(ふよ、朝鮮語: 부여、拼音: Fúyú、正字体:夫餘)は、現在の中国東北部(満州)にかつて存在した民族およびその国家。扶余(扶餘)[1]とも表記される。 https://ja.wikipedia.org/wiki/夫余
町奉行・寺社奉行・公事方勘定奉行、自身番屋・辻番・木戸番、火付盗賊改、関東取締出役、目明し・岡っ引き・手先、囚獄、評定所などに関するトラバ用テーマです。
私が書き残しておかなければ、永遠に埋蔵金が発掘されないであろうと思い、気力と体力のあるうちに30数年前に埋蔵金の研究をしたことを記載する。当時、埋蔵金発掘番組が世間を騒がしていたことを記憶されている方もおられると思うが、日本トレジャーハンティングクラブの代表として、TV局に番組の修正を依頼した経緯なども付け加えておく。
戦後GHQは昭和三年から昭和二十年までに刊行されていた書物のうち7769点を指定し、本屋などで流通していた書籍を没収・廃棄し、戦後の日本人に読めなくしました。 どのような書籍が没収されていたかを調べると、軍国主義的な書籍よりも圧倒的に多いのは、戦勝国にとって都合の悪い史実などが書かれた本であることが分かります。 GHQ焚書は、「国立国会図書館デジタルコレクション」で、3割程度の本がネットで公開されています。実際に読んでみると、戦後詳しく知らされてこなかった史実などが満載です。