在野の研究者の歴史書から学んだ結果をまとめたもの
逆転編14/もののふの美学となった
歴史人「織田信長と本能寺の変」!令和の新発見で信長像が変わる?信長殺しの動機と黒幕説は?
建勲神社
【信長の合戦】小口城の戦い~犬山城攻略【尾張統一編】
謎解き編38/ハテナに遭遇した境内散策
【歴史年表で追う】信長・秀吉の戦いと政策を比べて覚える
【信長の合戦】村木砦の戦い【尾張統一編】
【歴史年表で追う】室町時代2つの争乱期、南北朝・戦国
しぶとい植物、そして光秀も @フラリエ
【信長の合戦】浮野の戦い【尾張統一編】
【信長の合戦】稲生の戦い【尾張統一編】
【SHN】袴田巌~冤罪で47年間を刑務所で過ごした男性の裁判で無罪が確定しました【姓名判断チャート掲載中】
トンデモ編11/退却殿軍はウラ最前線
【信長の合戦】萱津の戦い【尾張統一編】
【信長の合戦】安食の戦い~清州城奪取【尾張統一編】
曽我兄弟は、箱根権現の別当坊を辞すると、獄七里、山七里、野七里の箱根古道を超え、伊豆の国府、三嶋に到着した。 二人は、三嶋大社に参詣して、笠懸を七番ずつ、射…
「関ヶ原の戦い」(1600年)の折の出来事です。いささかの手違いがあって、心ならずも 西軍にその身を置くことにしたのが薩摩国・島津義弘(1535-1619年)でした。戦闘についての作戦もそれなりに具申しましたが、ただ西軍指揮官である石田三成(1560-1600年)はそれに賛意を
本作では、細川、吉良、桃井、仁木、今川、石塔、畠山等、数多くの足利一門が、登場するが、筆者の知っている、俳優は、一人もいなかった。 足利尊氏と足利直義の対立…
曽我十郎祐成は、富士野での仇討の決意を固めると、虎御前を曽我の里に連れ帰った。 祐成は、虎御前に、遊女の身でありながら、自分の様な、「貧道」の者に対して、懸…
後醍醐天皇は、足利尊氏の出兵を追認するが、結果的に、尊氏の出兵が、建武の新政からの尊氏の離脱を招いた。 足利尊氏は、後醍醐天皇の上洛要請に従わず、後醍醐天皇…
1192年(建久三年)、源頼朝は、征夷大将軍に任じられると、その祝いとして、大規模な、狩場巡りをする旨を、諸国に触れさせた。 巻き狩りは、当時、武士達の遊興…
佐渡島への配流(遠島)について、こんな記事がありました。~722年の古くから始まり、1700年に廃止されるまで、実に 979年間の長きに渡って続いた~さらには、~奈良時代から室町時代にかけて76人、江戸時代に139人の 合計215人だった~そして、~1601年のこと、この「遠
中国の春秋時代の范蠡は、越王勾践の武将として、艱難辛苦を共にし、呉を滅ぼし、勾践は、中華の覇者となった。 しかし、范蠡は、「辛苦は共に出来ても、富貴は共に出…
後醍醐天皇の側近、千種忠顕を演じるのは、本木雅弘。 忠顕は、後醍醐天皇の信頼が、厚く、隠岐配流に同行している。 武芸を好み、鎌倉幕府討伐、南北朝の動乱にて、…
足利家の執事、高師直を演じるのは、柄本明。 足利貞氏の死後、高氏が、足利の当主になると、父の高師重から、執事の職を継承する。 架空の人物、一色右馬介は、高氏…
藤原仲成は、摂津源氏の源頼政の嫡子、源仲綱の乳母子と言われる。 以仁王の挙兵以前、源頼政は、伊豆守であり、仲成は、頼政と代官として、伊豆国に下っていた。 曽…
本作において、楠木正成を演じるのは、武田鉄矢。 戦前は、理想の忠臣として、楠木正成が、主人公の映画は、十一本制作されているが、戦後は、1958年の一本のみ、…
後二条天皇の次には、持明院統の花園天皇が、即位し、その次に即位したのが、大覚寺統の後醍醐天皇であった。 後醍醐天皇は、後二条天皇の弟で、大覚寺統の嫡流ではな…
曽我十郎祐成は、僧侶の修行を捨て、箱根山を抜け出した、弟の筥王を連れ、北条時政館を訪れた。 そして、時政は、烏帽子親となり、筥王を元服させると、自分の名前の…
苦労の末に奪取した自らの権力を、わが子・秀頼に継承させるべく心を砕いた晩年の豊臣秀吉(1537-1598年)は、政権運営の一端を配下の有力武将、いわゆる「五大老」に輔弼させる形を取りました。徳川家康・前田利家・毛利輝元らに混じって、五大老には、秀吉に可愛がられてそ
1945年(昭和20年)4月7日、 日本海軍が世界に誇った巨大戦艦の大和 が米機動部隊の戦闘機の集中攻撃を浴び 撃沈されました。 4月7日 午後2時23分、沖縄への片道の燃料を積んだだけの海上特攻に向かっていた 戦艦大和は目的地・沖縄本島に到着する前に米軍機の攻撃を浴び沈没します。 (世界最大級の戦艦大和) 大和は世界一の46センチ砲を装備した最新鋭艦でした。 大和の建造が計画された当時は、破壊力を持つ砲弾を遠くまで飛ばす大戦艦が、各国海軍の艦隊での重要事項でした。そのため46センチ砲を整備していました。 しかし、大和が完成する頃には、海戦の主役は戦艦から航空機に代わっていきました。 そう、大…
京都市東山区轆轤町にある真言宗智山派の寺院・六波羅密寺。 踊りながら念仏を唱える「踊り念仏」の市聖空也(いちひじりくうや)が、平安時代 中期の951年に造立したという「十一面観音」を本尊とする道場に由来していて、当初は「西光寺」と呼ばれていました。 この辺りは、鳥辺野という葬送地だったそうです。火葬や土葬もせず、死体を投げて 放置するだけで、鴨川の河原が死体で溢れている時代もあったそうです。 そういうことから京都の公家や貴族は、この周辺に住もうとすることがなかったといいます。 平安末期、貴族より身分が低い武士の平家=平清盛の祖父・正盛が六波羅蜜寺付近に 邸宅を構え、六波羅と平家との付き合いが始…
宮本武蔵と佐々木小次郎が決闘した巌流島の戦いから410年となった 2022年(令和4年)4月9日の午前10時、戦いに敗れた佐々木小次郎の慰霊祭=船島祭が 巌流島に近い山口県下関市にある彦島八幡宮で行われたので、参列してきました。 (船島祭は彦島八幡宮瑞鳳殿で開催) こちらが会場内です。 参加者は、総勢25名ほどでしたが、衆議院議員、参議院銀、下関市長代行、自治連合 会長などそうそうたるメンバー。この中に、一般参加のおっさん・・・凄く違和感を 感じました。 こちらが正面の祭壇です。 今回は10時開始、式の流れは以下の通り。 午前10時、式は開始。 (演舞奉納) 式では3種類の演武が奉納されました…
筥王は、箱根山の箱根権現において、三年間、僧侶になるための修行に励んだ。 しかし、1187年(文治三年)、源頼朝が、ニ所詣のために、多数の御家人を引き連れて…
河津祐通の長男の一万及び、次男の筥王は、母の連れ子として、曾我祐信の許に赴き、養育された。 『曾我物語』では、九歳の一万及び、七歳の筥王が、九月十三夜の名月…
「士農工商」とは、元々は中国・儒教が生んだ身分概念ですが、日本の学校教育などでは、これを江戸時代における身分序列であり、「四民」を偉い順に並べたものだと教える向きもありました。しかし、実際には儒教の概念を超えるものではなく、身分序列というほどに厳密で窮屈
河津祐通には、三人の息子がいた。十郎、五郎、御房殿である。 三男の御房殿は、祐通の存命中、生まれておらず、祐通が、死去した、五日後に生まれた、御房殿は、伊東…
工藤祐経は、伊東祐親の娘、万劫御前を妻としていたが、祐経と祐親の関係悪化に伴い、万劫御前を祐経と離縁させ、土肥実平と再婚させてしまった。 祐親に所領を横領さ…
織田信長(1534-1582年)から偏諱の「信」の字を、また下の字「康」を父・徳川家康(1543-1616年)から与えられたのが、後に「切腹」に追い込まれることになる家康嫡男・松平信康(1559-1579年/生前は徳川姓)でした。通説によれば、その「切腹」の発端は信康正室・徳姫が父
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日野市および周辺の地域情報や歴史にまつわる話を取り上げています。
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親鸞
令和3年(2021年)の大河ドラマ「青天を衝け」を応援しましょう。
ガイドブックに載っていない、ローマの観光スポットを歴史とともに語る。
夫余(ふよ、朝鮮語: 부여、拼音: Fúyú、正字体:夫餘)は、現在の中国東北部(満州)にかつて存在した民族およびその国家。扶余(扶餘)[1]とも表記される。 https://ja.wikipedia.org/wiki/夫余
町奉行・寺社奉行・公事方勘定奉行、自身番屋・辻番・木戸番、火付盗賊改、関東取締出役、目明し・岡っ引き・手先、囚獄、評定所などに関するトラバ用テーマです。
私が書き残しておかなければ、永遠に埋蔵金が発掘されないであろうと思い、気力と体力のあるうちに30数年前に埋蔵金の研究をしたことを記載する。当時、埋蔵金発掘番組が世間を騒がしていたことを記憶されている方もおられると思うが、日本トレジャーハンティングクラブの代表として、TV局に番組の修正を依頼した経緯なども付け加えておく。
戦後GHQは昭和三年から昭和二十年までに刊行されていた書物のうち7769点を指定し、本屋などで流通していた書籍を没収・廃棄し、戦後の日本人に読めなくしました。 どのような書籍が没収されていたかを調べると、軍国主義的な書籍よりも圧倒的に多いのは、戦勝国にとって都合の悪い史実などが書かれた本であることが分かります。 GHQ焚書は、「国立国会図書館デジタルコレクション」で、3割程度の本がネットで公開されています。実際に読んでみると、戦後詳しく知らされてこなかった史実などが満載です。