在野の研究者の歴史書から学んだ結果をまとめたもの
<姫路城(8)>の”城門”を巡るー搦手道に並ぶ高麗門形式の”とノ二門””とノ四門”
<姫路城(7)>の”城門”を巡るー公開時に目にできる高麗門の”へノ門”と棟門の”ちノ門”
<姫路城(6)>の”城門”を巡るー天守群に入る関門”水五ノ門””水六ノ門”は渡櫓と一体で国宝
<姫路城(5)>の”城門”を巡るー桝形構造で埋門形式の”水三ノ門””水四ノ門”が並ぶ
<姫路城(4)>の”城門”を巡るー井戸から水を汲んで”水一ノ門””水二ノ門”を経由
<姫路城(3)>の”城門”を巡るー埋門形式の”ほノ門””るノ門”に帯の櫓台下から腹切丸への埋門
<姫路城(2)>の”城門”を巡るー”菱ノ門”を潜ると高麗門形式の”いノ門""ろノ門”が並び建つ
<姫路城(1)>の”城門”を巡るー三の丸の出入口に建つ立派な復元”大手門”
<赤穂城(後編)>の”城門”を巡るー塩屋門が移築された花岳寺山門、現存屋敷門、復元大手門など
<赤穂城(前編)>の”城門”を巡るー本丸出入りの2門と二の丸を分断する西仕切門が復元
<龍野城>の”城門”を巡るー城域外に多数残る各種門形式(薬医門、高麗門、長屋門)の移築門
<三日月(乃野井)陣屋>の”城門”を巡るー移築されたお寺の山門から再移築された稀有なケースの城門
<山崎陣屋>の”城門”を巡るー池田家から本多家の陣屋になり立派な高麗門形式の”陣屋門”が残る
<安志(あんじ)陣屋>の”城門”を巡るー名門”小笠原家”嗣子無く断絶免れて安志陣屋を築く
202410 長野自然満喫の旅2日目⑨【松本城】
「その3」の続きです。大手道にもどります。 ようやく太陽が照ってきたので、もう一度大手道石段の写真です。 前稿で紹介した「伝羽柴秀吉邸址」上の段の虎口から...
「その2」の続きです。伝前田利家邸跡から大手道を挟んで向かい側(西側)に、ひときわ大きな郭跡があります。 その入口には、「伝羽柴秀吉邸址」と刻まれた石碑が...
「その1」の続きです。大手道を進んで安土城の登城スタートです。 ここからは入城料500円掛かります。 大手道の案内板と縄張り図。 真っ直ぐに伸びる大手道石...
戦国時代の覇王といえば、織田信長。その信長が天下統一を目前にした天正7年(1579年)に天下布武の象徴として琵琶湖湖畔に築いた天下無比の城が、安土城です。...
戦国時代の武将・織田信長(1534-1582年)が推進した政策、「楽市楽座」と「兵農分離」はセットで説明されることが多い印象で、要するに、「楽市楽座」政策が生み出した資金を「兵農分離」政策の推進に回したとする説明です。もっとも、「楽市楽座」自体は信長オリジナルの政
在野の研究者の歴史書から学んだ結果をまとめたもの
日野市および周辺の地域情報や歴史にまつわる話を取り上げています。
日本100名城・続日本100名城に関する記事なら何でもOKです
親鸞
令和3年(2021年)の大河ドラマ「青天を衝け」を応援しましょう。
ガイドブックに載っていない、ローマの観光スポットを歴史とともに語る。
夫余(ふよ、朝鮮語: 부여、拼音: Fúyú、正字体:夫餘)は、現在の中国東北部(満州)にかつて存在した民族およびその国家。扶余(扶餘)[1]とも表記される。 https://ja.wikipedia.org/wiki/夫余
町奉行・寺社奉行・公事方勘定奉行、自身番屋・辻番・木戸番、火付盗賊改、関東取締出役、目明し・岡っ引き・手先、囚獄、評定所などに関するトラバ用テーマです。
私が書き残しておかなければ、永遠に埋蔵金が発掘されないであろうと思い、気力と体力のあるうちに30数年前に埋蔵金の研究をしたことを記載する。当時、埋蔵金発掘番組が世間を騒がしていたことを記憶されている方もおられると思うが、日本トレジャーハンティングクラブの代表として、TV局に番組の修正を依頼した経緯なども付け加えておく。
戦後GHQは昭和三年から昭和二十年までに刊行されていた書物のうち7769点を指定し、本屋などで流通していた書籍を没収・廃棄し、戦後の日本人に読めなくしました。 どのような書籍が没収されていたかを調べると、軍国主義的な書籍よりも圧倒的に多いのは、戦勝国にとって都合の悪い史実などが書かれた本であることが分かります。 GHQ焚書は、「国立国会図書館デジタルコレクション」で、3割程度の本がネットで公開されています。実際に読んでみると、戦後詳しく知らされてこなかった史実などが満載です。