在野の研究者の歴史書から学んだ結果をまとめたもの
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「逆説の日本史 20幕末年代史編Ⅲ」の中で、著者・井沢元彦氏は佐久間象山(1811-1864年)の暗殺に触れ、こう書いています。 ~日本史上もっともテロが横行した幕末の文久から元治にかけても、 「人斬り」とまで呼ばれた人間は四人しかいない。 この「人斬り彦斎」こと熊
人間の年齢って、いつ加算されるのか?現代人と昔の人ではこの問題に対する回答はおそらく異なるであろうことを、若いヒメ隊員は理解できるかな。そう、言葉にすれば、「満年齢」を採用している現代に対し、明治以前は「数え年」を使っていたからだ。では、昔の人はなぜ「数
~白地の中央に太陽(日章)の赤丸をあしらった日章旗(日の丸)を、 いつ誰が日本の国旗と決めたのかしらん?~突然にこんな質問をぶつけられたとしたら、「日の丸弁当」の方ならともかくも、まあ大抵の方は即答できるものではありません。そこで頭の中を少々クールにした
いわゆる「黒船来航」(1853年)より半世紀ほど前のこと、鎖国体制にあった日本の長崎港にイギリス軍艦が突如侵入するという事件がありました。軍艦の名から「フェートン号事件」(1808年)と呼ばれています。イギリス軍艦であるにもかかわらず、「オランダ国旗」を掲げて堂
その藩の籍から離れ、主従関係を解消する「脱藩」・・・こうした経験を持つ人物は、幕末に限っただけでも何人もいます。たとえば、長州藩士・吉田松陰(1830-1859年)は、我が目で東北の状況を確かめるべく旅行を計画したものの藩からの許可発行が遅れたため、それを待たずに
七つの海を跨く「イギリス帝国」を構想し、世界に「植民地」を拡大していていたのが19世紀のイギリスであり、海禁(鎖国)中のアジアの超大国・清国(中国)に対して起こした「アヘン戦争」(1840-1842年)も、まさにそうした行動の一つでした。完膚なきまでに叩きのめされた
時代劇でもしばしば取り上げられる「新選(撰)組」。非常に微妙な存在であることはその正式な名乗りからも窺えます。~京都守護職/会津藩松平肥後守容保中将/御預浪士/新選(撰)組~同じ頃活動した「京都見廻組」が幕臣(旗本・御家人)で構成された正規(公的)の組織であ
2021年12月 関西・中国を旅してきました。路線バススケッチ旅のようにペン画ラフスケッチでレポートします。 Day4下関に。今回の旅の一番のハイライト、春帆…
四季に恵まれた日本で一番人気の季節は春なのかもしれません。 なぜなら、寒さから解放され、草木も芽生え何やら生命の躍動を感じさせる 季節だからです。 実はこうした季節の春の他にも人気者の春はあります。 えぇ、「春画」です。 これをご存知でない方は少ないと思いますが、念のために説明を拾ってみると、 ~そ…
最初の「黒船来航」(1953年)の折、開国を迫ったペリー艦隊は、その帰りしなに、幕府に対してこんな挨拶を言い残しました。~また来年もお邪魔に上がりますから、どうぞヨロシクね~この言葉にアワを食ったのが幕府でした。なぜなら、開国を迫るようなウットウしい奴らには
強い者勝ちという戦国の時世にあって一介の足軽から身を起こし、ついには 最高権力者にまで上り詰めた人物、それが豊臣秀吉(1537-1598年)でした。 ちなみに、この秀吉とその直前に天下の大部分を掌握していた織田信長 (1534-1582年)、さらには秀吉の後に天下を平定した徳川家康
新年になりましたが、コロナ、地殻変動、景気、、、今年は一体どうなるのでしょうね。 なるべく人が密集しているところへの外出は控えめにしているので、2019年に描…
2021年11月のスケッチ会は、京浜急行・立会川駅から5分程度歩いたところにある勝島運河の船溜まりです。 立会川の駅前には坂本竜馬像がありました。 …
★都合により、しばらくの間(10日~2週間程度)記事の更新をお休みします。☆☆☆前回の「著名人の自宅を探訪~代田・代沢散策(4):服部克久/河口慧海/萩原朔太郎/円乗院」では、世田谷区の代田を散策しながら、服部克久の自宅や文士・著名人の旧宅跡を探訪しました。今回は、代田を散策しながら、中島みゆき、なべおさみなど芸能人・著名人の自宅を探訪します。(※)他の芸能人・著名人関係の記事については、「芸能人・著名人...
今回は、「失われた三田用水遺構と戦艦大和と目黒新富士~三田用水跡散策(6)」での散策場所近くにある史跡を通じて、隠れキリシタンについて考察してみます。また、本記事は「三田用水跡暗渠散策シリーズ」の番外編となりますが、番外編としては本記事の他に以下の2つの記事とシリーズがあります。①「日本最大のイスラム寺院・東京ジャーミイを訪問」②『「芸能人・著名人の自宅」と「湧水」を探訪~代々木八幡・初台・西原・大...
遥か太平洋の向こう側から、艦隊を組んだアメリカがこの日本の領海に姿を 現した出来事がいわゆる「黒船来航」(1853年)です。 そして、この出来事より以降の時代を一般的には「幕末」と呼んでいます。 この時のアメリカがいささか強圧的な姿勢で日本側に要求したこと、それは 日本が鎖国を止めて開国に踏み切る決断でした。 ~今までのように鎖国を続けるの…
江戸中期の浮世絵師・東洲斎写楽は、一般的には~1795年5月から翌年3月にかけての約10ヶ月に百点以上の 錦絵を残し「忽然と姿を消した」?謎の人物~と理解されているようですが、これって少しヘンなのでは?なぜなら、考証家・大田南畝が同時代に著した「浮世絵類考」には
渋沢商店は、主に小野組の商圏であった、上信奥羽の米産地から、東京への廻米及び、委託販売を行い、荷為替決済、運送保険の制度創設に取り組んだ。 1878年(明治…
前述の通り、1872年(明治五年)、渋沢喜作は、栄一を身元引受人として、赦免されると、栄一の仲介により、大蔵省勧農司七等出仕、全国の農業・養蚕を推進する、官…
群馬県富岡が、製糸工場の建設地に決定したのは、周辺は、養蚕業が、盛んであるため、繭の調達が、容易であること、周辺の土質が悪く、農業には、不向きな土地であるこ…
渋沢成一郎の生涯は、新選組の土方歳三に似ている。 両者共に、尊皇攘夷の志士として、上洛したが、成一郎は、徳川一門の一橋家に仕え、土方は、京都守護職の会津藩の…
明治二年七月に静岡藩知事徳川家達の命が出て、牧之原台地の開墾のために中條・大草ら旧幕臣の二百余名が士族という身分を捨てて、牧之原台地の開墾のために動きだした。当時の牧之原は古代に堆積した礫土によって地元の農民も寄り付かない原生林であった。そこに道路・水路を作り開墾していった。広大な牧之原の大茶園は全国の生産面積の1/4に及ぶが、その礎を気付いたのは徳川家臣であった。
駿府に移住せずに江戸に残って商人になった旧幕臣は少なくなく、汁粉屋や団子屋や古道具屋、金貸し業などを始めたが、ほとんどの者は商売の基本がわからずに赤字を垂れ流して失敗している。 駿府に移ってから商売を始めた者もいたが、一部は成功した者もいたが大半は失敗した。
徳川の家臣たちの半数以上が駿府移住を希望したが、その多くは無禄移住となり、彼らの生活は非常に厳しいものとなった。旧幕臣の父らともに移住した塚原渋柿園の記録では非番の時に海や山で食糧を探す生活で、中には家族全員が餓死した家もあったという。 戊辰戦争で敗れた会津藩は下北半島の斗南藩に移封となり、極寒の入植先での生活は悲惨なものがあった。
渋沢平九郎は、渋沢成一郎、兄の尾高惇忠と逸れて、飯能と越生の境にある、顔振峠に辿り着いた。 峠の茶屋の女主人は、即座に、平九郎が、旧幕府軍の隊士であると見抜…
渋沢喜作は、徳川慶喜の恩顧に報いるため、最後まで、徳川家を守ろうと彰義隊頭取に就任した。最早、喜作の心は、完全に「幕臣」であった。 栄一の見立て養子、平九郎…
明治維新で封建制が瓦解し、徴兵制が発布されて士族がその存在意義を失い、深刻な生活問題に直面した。最も悲惨であったのは徳川の旧幕臣で、徳川慶喜は江戸城明け渡しの後、八百万石を七十万石に減らされて駿府に移封され、多くの家臣が無禄で静岡に移住した。静岡藩は移住希望者を運ぶためにチャーターした船は、奴隷を運ぶのと同様の方法で家臣団を運んでいる。
幕末期にあたる1864年のこと、備中国(現:岡山県)井原領主・池田長発(ながおき/当時28歳/1837-1879年)をリーダーとした34名からなる「遣欧使節団」が日本を離れ、遠くフランスへ渡航した史実があります。 この時の「使節団」は上海やインドなどを経由した航路でスエズ
渋沢喜作は、栄一が、ヨーロッパに赴く前に、既に、主君である、徳川慶喜に徹底的に奉公し、幕臣として、武士らしく、生きることを決めていた。 最早、倒幕派の尊王攘…
山縣有朋は、中央軍隊の編成を大久保利通らは薩摩・長州・土佐の三藩の藩兵を主体とする主張を退け、「四民平等、国民皆兵」の徴兵制を採用し、明治六年に徴兵令が発布された。しかし、当初は徴兵を忌避する者が多くて、兵を集めるのに随分苦労している。
幕末から明治にかけての歴史について、菊池寛がいろいろ面白い本を書いている。前回紹介した『大衆明治史』もいいが、『明治文明綺談』という本には幕末から明治にかけて、西洋の最新の文化・文明機器にふれたわが国の面白い話題が満載である。 慶応三年(
菊池寛といえば小説家であり劇作家でありジャーナリストであり、実業家としても文芸春秋社を創設した著明な人物だが、歴史書にもいい本がいくつか出している。戦後は歴史家が登場人物を生きた人間として描くことがほとんどなくなってしまったのだが、菊池寛
福永恭助は海軍少佐で退役した後、小説や軍事に関する評論などの著作を残しているが、戦前・戦中の作品34点のうち12点がGHQによって焚書処分されている。 また、国立国会図書館デジタルコレクションでデジタル化されていながらネット公開されていな
渋沢喜作は、慶喜の将軍就任後、幕臣になると、監察支配職役となった。 主な役割は、堂上方、即ち、朝廷の公家等への使者である。 農民出身の喜作は、泰平の世に慣れ…
渋沢喜作は、栄一と共に、平岡円四郎の推挙によって、一橋家に仕官して、徳川慶喜の家臣になった。 尊皇攘夷の志士の二人にとって、徳川御三卿の一つ、一橋家への仕官…
明治維新までの鶴岡八幡宮は神仏習合で多くの仏堂や大塔が存在し、源治の菩提寺として栄え、当時の境内は外国人のスケッチや写真で知ることができる。しかし、新政府により神仏分離令が出されると、それまで全山を取り仕切っていた十二坊の社僧全員が復飾して神主となり、神奈川県の命令によりすべての仏堂・大塔を取り払い、仏像・仏具を売却或いは焼却した。
江戸時代中期以降金毘羅信仰が広まり金毘羅参りが盛んにおこなわれたが、金毘羅とは仏教の守護神であり、金毘羅大権現を祀っていたのは松尾寺という真言宗の寺院であった。明治新政府が神仏分離令を出すと、松尾寺は金毘羅大権現は日本古来の神ではないと上申したが、新政府から圧力がかかり、仏教的な建物や仏像仏具の取払いを約束させられている。
日光山の歴史と戊辰戦争 日光山内の社寺は二荒山神社、日光東照宮、日光山輪王寺に分かれ、これらを総称して「二社一寺」と呼ばれている。日光東照宮は徳川家康を「東照大権現」という「神」として祀る神社だが、二荒山神社と日光山輪王寺は山岳信仰の社寺と
東本願寺は徳川幕府との親密な関係が続いていたのだが、鳥羽伏見の戦いで新政府軍が勝利すると東本願寺の焼き払いを決定した。東本願寺は新政府にどんな協力も行うとの誓約書を提出し、献金などを始めたが、明治二年に北海道開拓を命じられている。三年から工事が開始され、今日「本願寺道路」と呼ばれる4つの道路を開削した。そのことにより東本願寺は北海道での教勢拡大のきっかけをつかんだ。
菅原道真が左遷された後に903年に大宰府にて没したが、その後、道真の政敵に相次いで不幸が起こり、洪水や大火などの災害が続いたため、道真の怨霊を鎮めるために道真を祀る北野天満宮が造営された。今では神社であるが、明治初期までは神仏混淆で、境内に多くの仏堂が存在した。神仏分離令が出て社僧たちはすぐに復飾を決めたが、すべての仏堂や仏像などを処理しなければならなかった。
石清水八幡宮は皇室・朝廷、武士の尊崇を集めていたが、幕末までは全山を僧侶が取り仕切り、神職は使用人のような身分で奉仕していた。しかし神仏混淆禁止の沙汰が下りて、全山の仏教的なものが排除されることが決まり、社僧たちは復飾して護国寺などの施設が破壊された。護国寺の本尊と十二神将像は、淡路島の東山寺に遷された。
日本三大祭りの一つである「祇園祭」は八坂神社のお祭りだが、この神社は明治の初めまでは祇園感神院という名の神仏習合の寺院であり、祇園精舎の守護神とされた牛頭天王を祀っていた。しかし新政府が神仏分離令を出し、神仏習合を認めなかったのだが、その年の祇園祭を円滑に進めるためなのか、祇園社は急遽主祭神を変更し、僧侶の復飾に応じ、仏像仏具の撤去も進めている。
明治元年六月に吉野全山に対し、蔵王権現を神号とし僧侶は復飾神勤めすることが命じられた。僧侶たちは抵抗したが、四年には上地令が出て所領地が取り上げられ、翌年には修験道廃止令が出され、七年には金峯神社を本社と定め山上と山下の蔵王堂をそれぞれ奥ノ宮、口ノ宮とし、僧侶は復飾し、仏像仏具は取り払うことが命じられた。その後参拝者が激減し、金峯山寺は十九年に寺に戻っている。
奈良県桜井市にある談山神社は、かつて寺領三千石、四十二坊の堂宇が存在する寺院で妙楽寺と称したが、明治元年に神仏分離令が出て、藤原鎌足を神格化していたことから、寺院になるか神社となるかで一山大衆は二派に分かれ、全員復飾して大織冠の神前に奉仕することとなり、不要となった仏像などを二束三文で売却した。その後上地令が出て収入源が断たれ、その後苦しい生活を余儀なくされた。
明治政府は浦上の隠れキリシタン百余名を津和野藩などに移送させたのち、さらに明治二年十月に約三千人を捕えて、金沢以下十余藩に移している。各国公使は流罪の中止を強く主張し、政府内部の考え方も変化していった。明治四年に岩倉使節団が欧米視察に出たが行く先々でキリシタン流罪を非難され、今の考えでは、諸外国との条約交渉などができるはずがない事を認識した。
五榜の掲示 前回の「歴史ノート」で、慶応元年(1865年)に長崎の浦上村で大量の隠れキリシタンがフランスの宣教師により発見され、慶応三年(1867年)になって宣教師による教導が行われていたことが発覚し、六月に六十余人の信徒が捕えられたことを
首都の機能が東京に移転してしまえば、皇族や公卿や各藩の屋敷の大半が空家となり、多くの人々が、京都を去ることにより人口が急激に減少し、武家や宮家や公卿が贔屓にしていた店や寺社は収入が激減して京都の賑わいは消え、荒廃していくことにならざるを得なかった。槇村正直は、明治二年にわが国最初の学区制小学校64校を開校させたほか、京都復興のために尽力した。
江戸城開城後旧幕臣は各地に移転し、各藩の大名屋敷も空家となり、市街の商店等も店を畳んで、江戸は荒廃していった。市民の生活は苦しくなるばかりで、薩長二藩を伐って政権を奪取しようと企てる者が全国各地にいて、皇族の中にも賀陽宮朝彦親王は薩長政府を打倒しようと画策していたことが露見し、仲間と共に捕えられた。当時の国内情勢を考えると東京に都を移すことは必要なことであった。
明治二年に再び天皇が御東幸することが決まると、京都市民らが、東京遷都の決行であると考えて中止を請願したのだが、二度目の御東幸は強行され、九月には皇后の東京行啓が決定された。京都の人々は再び動揺し行啓の中止を嘆願したが、大嘗会でまた天皇が還幸されると説得されている。しかし、大嘗会は明治四年に東京で行われ、京都の人々は完全に政府に騙されたと言える。
大久保利通は鳥羽伏見の戦いから三週間もたたない時期に、人心一新のために大阪遷都の建白をしたが、反対が多く決議されなかった。その後前島密らが江戸遷都論を唱えたが、江戸城が無血開城したのち江藤新平・大木喬任が江戸城を以て東京と定め、東西両京の間に鉄道を開通させよという案を提出し、この案が決議されている。明治天皇は「江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書」を発したが、どこにも遷都の文字はない。
渋沢喜作、別名、渋沢成一郎の名前は、2021年の大河ドラマ、『青天を衝け』によって、飛躍的に高まった。 『青天を衝け』の放送以前に、渋沢喜作の名を知っていた…
聖徳太子ゆかりの法隆寺は、神仏分離令には大きなダメージはなかったが、元禄期に大修理がなされてから百五十年を経過して伽藍は相当傷んでいたうえに、明治四年と七年に上地令が出て、寺領を失いさらに寺録をも失い、修理どころか、僧侶の日々の生活にも困る状態に陥った。明治五年に法隆寺の一﨟職となった千早定朝は、寺の復興のため諸策を講じ、明治十一年に法隆寺の宝物類を皇室に献納することで下賜された一円で財政を立て直した。
明治初期の神仏分離で東大寺は鎮守八幡宮と分離させられ、廃仏毀釈で末寺の眉間寺を撤廃されるなどした。当時大仏殿は相当傷んでおり倒壊する危険が高かったのだが、新政府は社寺建造物の修理再建などを名目とする集金行為を禁止し、さらに上地令により知行地を没収し東大寺は大きな収入源が断たれてしまい、堂宇の修繕どころか僧侶の日々の生活もままならない状態に陥っていた。
五箇条の御誓文は大政奉還から五か月近くも経過してから発布されている。当時は新政府周辺に外国との交際を拒絶する者が少なくなく、「開国和親」という方針が決定してもそれに抵抗する動きが強かった。しかし、その後も外国人襲撃事件が相次ぎ新政府の危機を経験したタイミングで木戸孝允が動き、由利・福岡の案を修正し、五箇条の御誓文が発布されている。
堺事件が解決した後、慶応四年二月三十日に天皇が各国公使を謁見することが決定し、英仏蘭の公使が御所に向かったが、英公使のパークスが皇居に向かう途中で難に遭った。パークスは中井弘蔵、後藤象二郎の奮闘で無事であったが、11名が負傷した。仏公使のロッシュは宴席でその情報を聞き、直ちにパークスを見舞いに行き、共に徳川を支援しようと声をかけたがパークスは断った。
神戸事件が解決後、今度は堺で土佐藩兵とフランス人とのトラブルが発生し、11名の若いフランス人が殺害される事件(堺事件)が起きている。堺の治安回復を任された土佐藩は内地旅行の免状がなければ外国人を堺に入れない方針をとり、堺港から上陸しようとしたフランス人を土佐藩兵が撃ちまくった。フランス公使は激怒し、新政府と交戦することを辞さない姿勢であった。
鳥羽伏見の戦いが終わった直後に、備前藩兵が今の三宮神社近辺で偶々この隊列を横切ろうとした外国人とトラブルが発生し、拳銃を構えた外国人に発砲したことから、外国軍も交えての銃撃戦が始まった。死者はなかったが、外国人は新政府に対し、責任者の厳罰を要求した。新政府は「開国和親」に舵を切り、備前藩に責任者の切腹を要求。瀧善三郎は全てを引受け、外国人の目の前で割腹し、この事件が解決した。
廃藩置県により旧藩主は知藩事を解任されて東京移住を強制され、県の行政は新政府が送り込んだ県令に委ねられて全国各地で開明的な施策が行われて、多くの古いものが破壊されたり売却されたりしたのだが、県令の中には権力を用いて文化財を私物化するものもいた。堺の県令であった税所篤は奈良の古寺の文化財や古墳の埋蔵物を奪い取り、売却して蓄財したことが疑われている。
明治四年に政府内で平田派が失脚したが、それ以降に廃仏毀釈が全国に広がった。同年に実施された廃藩置県でそれまで知藩事として藩の行政を担当した旧藩主は失職し、新政府から県令が派遣され、彼らが新政府の意向を受けて開明的な諸政策を実施し、寺の仏像や仏具は無用の長物と見なし、寺を学校にしたり、仏像などを売却して学校の設立資金に充てたりした。
内山永久寺は「西の日光」と呼ばれていた大寺院であったが、1868年に神仏分離令が出されると、この寺の僧侶は全員が還俗し、寺は無人となった。堂塔坊舎の打ち毀しが始められ、付近住民の建築材や燃料となり、仏像・仏具・経典・文書の類はほとんどが焼かれ、石垣、石段の石材も多くは運び出されて、数年のうちにすべてが破壊しつくされ境内は耕地に変貌してしまった。
明治の廃仏毀釈で興福寺の書庫にあった万巻の書籍は運び出されて焼き捨てられた。後に興福寺の再興が嘆願され、明治14年に管理権が返還されたが、再興のための資金捻出のため貴重な仏像が売却されて流出した。現在国宝の無著菩薩立像も一時外国人の手に渡ったのだが、その後古社寺保存の機運が盛り上がっていくこととなる。
『神仏分離史料第二巻』に仏教史学者・大屋徳城の「奈良における神仏分離」という論考が収められていて、そこには「奈良における神仏分離・廃仏毀釈は興福寺が最も激烈であった」と記されている。興福寺は政治政府の神仏分離令が出た後、全員が復飾して春日大社の神官となることを選択し、無人となった興福寺はまたたく間に荒れ果てて行った。
水戸藩では徳川光圀および徳川斉昭が藩主であった時代に他藩に先んじて廃仏政策が行われた。光圀は当時乱立していた怪しげな寺院を整理したが、斉昭は藤田東湖らの進言を受け入れ、国防強化のため寺の梵鐘や仏像を鋳潰して大砲を造り、約二百の寺院が処分されている。
鹿児島藩には島津家の菩提寺を初め古い寺が多かったのだが、明治維新の廃仏毀釈で藩内の千六十六の寺すべてを破壊してしまった。慶応元年に藩の若手が、水戸藩に倣って寺院の廃合を実施し、梵鐘・仏具は武器に変え、僧侶は兵士や教員に任用することを提案し、久光が調査を指示。鳥羽伏見の戦いで勝利した後、すべての寺と仏像仏具の処分が決定した。
江戸時代の『薩藩名勝志』や『三国名勝図会』には鹿児島県・宮崎県に多くの社寺仏閣が記されているのだが、いずれの県も寺社に文化財らしきものが皆無に近い。その理由は廃仏毀釈にある。薩摩藩には平田派の復古神道が盛んで仏教を排除せよという考えが強かった。島津斉彬が藩主の時代に毀鐘鋳砲を実行しようとして集めた梵鐘仏具は、忠義の時代に鋳潰されて大砲だけでなく贋金作りに用いられた。
慶応四年三月十三日に王政復古・祭政一致が宣言され、神祇官再興が布告されている。そして、三月十七日には神祇事務局から全国の神社に宛てて神社における僧侶の復飾が命じられ、三月二十八日には「神仏判然令」と呼ばれる命令が出されている。そしてその命令に関与した神祇官事務局の樹下茂国が、日吉社の仏像仏具を焼き払った。その後も新政府により神仏分離は推進された。
庚午事変の処分が終わり、明治四年十一月の第一次府県統合で徳島県は名東県に名称が変更され、二年後には香川県を併合した。しかしながら明治九年八月に名東県は廃止され、阿波国は高知県へ、淡路国は兵庫県に併合された。この措置によって阿波国人の受けた不利益は、言語に絶するものがあった。
明治政府にとって難治県とされた徳島県 上の図は四国の県の変遷をまとめたものだが、何度も県の統廃合が行われていて結構ややこしい。「淡路国」というのは現在の「淡路島」を意味するが、明治の初期に於いては、兵庫県ではなく徳島県の一部であったことや、
宮崎県の誕生 上の図は何度か紹介させて頂いた明治十二年(1879年)の日本地図だが、九州の南部に宮崎県が存在していなかったことがわかる。今回は宮崎県が鹿児島県に吸収合併されたのち復活に至るまでの経緯について書くこととしたい。 宮崎県は、七世
明治11年5月に、石川県の不平士族らが大久保利通を襲い殺害する事件が起き、その二か月後に町村編制法・府県会規則・地方税規則(「三新法」)が公布され、ようやく府県会の選挙が行われることとなり、自由民権運動が活発化して、各地で分県に関する議論に火が付いた。14年に石川県から福井県が分離することが決まり、16年には富山県が分離することが決定した。
明治九年に全国規模で大規模な府県統合が二度にわたり行われ、石川県は四月に新川県(現在の富山県)を併合し、八月には敦賀県(現在の福井県)の一部を合併して、旧石高二百二十万石の日本最大の県となっている。旧石川県のみならず、新川県(富山県)も敦賀県もいろいろ問題の多い県であり、それまでに大きな文化破壊が行われ、後には暴動が起きて多くの者が処刑された歴史がある。
明治四年七月の廃藩置県では金沢藩は金沢県、大聖寺藩は大聖寺県となり、十一月二十日に両県は廃止され金沢県が置かれ、能登半島のある北部を分離して七尾県が新たに設置されたのだか、翌年二月二日には金沢県は石川県と県名を変え、五月五日に県庁を石川郡美川町に移している。なぜ金沢から海辺の小さな町に移されたのかを調べると不平士族の問題に突き当たる。
明治九年の九月に鳥取県は島根県に併合されたのだが、藩政時代に於いて山陰で最大の藩は鳥取藩であり、格下の松江藩に吸収されたことは鳥取県人にとって屈辱的であった。併合後は鳥取の経済は衰退し、商家・士族の倒産が続出し、足立長郷が共斃社を設立し、鳥取県復県を内務省に建議したが、過激な活動をしていた彼らの案は受け入れられず、岡崎平内が愛護会を結成し、鳥取県再置を山縣有朋に嘆願した。
旧藩時代において鳥取藩は山陰地方で最大の藩であったのだが、明治九年九月六日に、格下であったはずの島根県の県令から鳥取県庁に宛てて「今般鳥取県は本県と合併される」旨の布告が届いたのだが、主に鳥取の士族はこの命令に憤った。それから五年間にわたり「鳥取県」が地図から消え、その間に鳥取城が破壊された。
古い貴重な文化財が数多く残されている奈良県は、明治9年に堺県に編入されて消滅し、さらに14年には堺県が大阪府に編入されてしまった。その後旧奈良県住民にとって重要な予算が削られることが相次いで、奈良県再設置運動が動き出す。しかし内務省で却下され、その後太政官、元老院に提出した請願書も認められず、明治20年の4度目の請願書でようやく再設置が決定した。
明治四年七月に廃藩置県が行われた時は、藩名をそのまま府県名に読み替えて、府県の数が全部で三府三百二県であったのだが、その後わずか一年で八割近い県が消滅した。政府はどういう基準で新しい県名を決めたのかについて、宮武外骨が『府藩県制史』で朝敵藩・曖昧藩は従来の藩名をそのまま県名としなかったことを指摘している。宮武は賞罰的な意味合いがあったと書いているが、そうではない可能性もある。
政府としては、版籍奉還後も実質的に存続していた封建的藩体制を廃絶させると同時に、大規模な反乱を鎮圧できるだけの兵力を中央に整えたかったのだが、政府軍を編成するには薩長の力に頼るしかなかった。薩摩藩の島津久光は廃藩置県に反対であったが、上京した西郷隆盛はそれに賛同し、不平士族による反乱の鎮圧を引き受けることによって廃藩置県を進める体制が整ったのである。
版籍奉還後の鹿児島藩、山口藩の混乱 前回記事で、明治二年(1869年)に行われた版籍奉還のことを書いた。伊藤博文や大隈重信は、これを機に封建的支配体制を一気に解体し、郡県制を布いて中央の統制権を高めることを望んだのだが、当時の情勢ではそのよ
木戸孝允は藩主・毛利敬親に面謁して版籍奉還を急ぐべきことを説き、さらに大久保利通等を説得して、薩長土肥の四藩が率先して版籍奉還を上奏することで話がまとまった。四藩のあと各藩から奉還上表が提出されたのち版籍奉還が勅許され、旧藩主をそのまま藩知事としたが、政府によって任命される地方長官と位置付け、旧藩主と旧藩士との主従関係が建ち切られたことに意義があった。
1878 年(明治十一年)、大蔵卿の大隈は、殖産興業及び、不平等条約改正のための世論を形成する、民間の商人が、互いに相談する、集会の様な機関の設立を、栄一に…
ひょんなことから、鉄道のことが話題になりました。 日本初は「いつ、どこだっかた」ということです。 しかしまあ、江戸幕府の時代に鉄道が開通していたとは思えませんから、 普通に考えれば「明治時代」ということになるでしょう。 またその場所も、鉄道唱歌~♪汽笛一声新橋を~と歌われているように おそらくは「新橋(東京)」が出発地だったのでしょう。 とはいうものの、生半可の知識…
栄一は、紙幣・再建の製造、新聞、雑誌の発行等、文明の発展のため、国産の製紙業の必要性を感じ、1873年(明治六年)2月、日本最初の本格的製造業、抄紙会社を設…
1874年(明治七年)、三井組と並ぶ、第一国立銀行の大口出資先の小野組が、倒産した。 三井組、小野組、島田組は、「為替方」であったため、政府の資金を無金利及…
予算の増額を要求する、他省庁と、歳出の削減を目指す、大蔵省の対立は、深まった。 大蔵省批判の急先鋒は、司法卿の江藤新平であった。 更に、文部省は、学校建設関…
明治維新以前、諸藩が、金の含有量の低い、金貨、偽の二分金を発行していた。 維新後、外国人が、偽の二分金に対し、抗議したため、新政府が、偽の二分金の交換を引き…
1871年(明治四年)の夏、栄一は、大隈、伊藤、吉田清成と共に、大阪造幣局に赴いた。 その時、今後、政府において、心を砕き、力を尽くして、貨幣法を定め、租税…
廃藩置県は、自治を基本とする、「藩」を廃止し、新たに「県」を置いて、中央集権国家を実現する、鎌倉時代以降、続いた、日本の封県制度の廃止であった。 1869年…
明治新政府においては、貨幣改鋳は、最大の重要問題の一つとなっていた。 政府では、大阪に造幣局を建設し、銀本位制の貨幣の鋳造の評議は、決定していた。 貨幣改鋳…
大隈重信は、栄一の建白を聞くと、自分も、毎日の雑務に追われ、右往左往するのみで、改革を実行できないため、「改正掛」、即ち、業務改革専門の組織を置きたいと考え…
栄一は、大蔵省には、知人はおらず、「大蔵省租税司正」の職務の経験は、皆無であった。 栄一は、何をすべきか、全く、不明なため、早く、辞退して、静岡に戻ろうと考…
栄一は、「商会」の結成に際し、方法を詳細に書いて、計算書を添えて、平岡に提出した。 商法会所は、地方の主な商人、十二名に御用達を命じたため、銀行と商社を合わ…
栄一は、勘定組頭の申し付けに対し、勘定頭の平岡準蔵の許を訪れ、自分は、静岡藩に移住するが、禄を食む、即ち、仕官の気持ちはないことを告げた。 そして、慶喜の昭…
渋沢栄一は、1840年(天保十一年)の生まれのため、帰国した、1860年(明治元年)は、二十九歳であった。 栄一の帰国後に、父の市郎右衛門元助が、東京の栄一…
評価:70点/作者:井上潤/ジャンル:歴史/出版:2012年 『世界史リブレット人 085~渋沢栄一~近代日本社会の創造者』は、山川出版社による、「日本史…
徳川昭武は、1867年(慶応三年)11月末ヨーロッパ諸国の訪問を終え、以後、数年間、パリにおいて、留学生活を送る、予定であった。 しかし、既に、万里の彼方の…
評価:80点/作者:城山三郎/ジャンル:歴史小説/出版:1972年 『雄気堂々』は、毎日新聞において、1971年1月~12月23日まで、連載されていた、「…
前述の通り、栄一は、スエズから、アレキサンドリアの旅程において、初めて、汽車に乗った。 そして、交通機関である、陸の鉄道、海の船舶の日本への導入の必要性を感…
幕末期に英国駐日公使館付通訳生がいた。その名は「佐藤(薩道)愛之助」。こう聞けば、自然「日系二世」?あたりを連想してしまいますが、その本名を「Ernest Mason Satow」(1843-1929年)といい、生粋の英国人でした。この「アーネスト・サトウ」が着任した頃の日本は、ま
栄一は、喜作と共に、幕臣として、鬱々とした、日々を過ごしていた。 二人は、本来の志とは、異なる、幕臣の身を悲観して、浪人、または、血洗島村に帰ることを考えて…
渋沢栄一は、一橋家の財政再建のために尽力していたが、1866年(慶応二年)7月20日、第二次長州征伐の最中、徳川幕府の十四代将軍、徳川家茂が、大阪城において…
在野の研究者の歴史書から学んだ結果をまとめたもの
日野市および周辺の地域情報や歴史にまつわる話を取り上げています。
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親鸞
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ガイドブックに載っていない、ローマの観光スポットを歴史とともに語る。
夫余(ふよ、朝鮮語: 부여、拼音: Fúyú、正字体:夫餘)は、現在の中国東北部(満州)にかつて存在した民族およびその国家。扶余(扶餘)[1]とも表記される。 https://ja.wikipedia.org/wiki/夫余
町奉行・寺社奉行・公事方勘定奉行、自身番屋・辻番・木戸番、火付盗賊改、関東取締出役、目明し・岡っ引き・手先、囚獄、評定所などに関するトラバ用テーマです。
私が書き残しておかなければ、永遠に埋蔵金が発掘されないであろうと思い、気力と体力のあるうちに30数年前に埋蔵金の研究をしたことを記載する。当時、埋蔵金発掘番組が世間を騒がしていたことを記憶されている方もおられると思うが、日本トレジャーハンティングクラブの代表として、TV局に番組の修正を依頼した経緯なども付け加えておく。
戦後GHQは昭和三年から昭和二十年までに刊行されていた書物のうち7769点を指定し、本屋などで流通していた書籍を没収・廃棄し、戦後の日本人に読めなくしました。 どのような書籍が没収されていたかを調べると、軍国主義的な書籍よりも圧倒的に多いのは、戦勝国にとって都合の悪い史実などが書かれた本であることが分かります。 GHQ焚書は、「国立国会図書館デジタルコレクション」で、3割程度の本がネットで公開されています。実際に読んでみると、戦後詳しく知らされてこなかった史実などが満載です。