在野の研究者の歴史書から学んだ結果をまとめたもの
1件〜100件
豊明市 水子弘法の謎を追って (最終章 3)
こうりん クローン文化財 上洛
豊明市 水子弘法の謎を追って (最終章 2)
【相模原市】相模原市古民家園【茅葺き屋根の文化財】
豊明市 水子弘法の謎を追って (最終章 1)
【川越市】旧山崎家別邸【和館と洋館】
【板橋区】旧粕谷家住宅【古民家】
【想い出】1月18日|大分、グルメ、文化財、神楽、青年団、ハロプロ、ジオパークetc...
陀々堂の鬼はしり ~鬼が舞う
「我妻家住宅」が保存修理工事中だった 宮城県蔵王町
陀々堂の鬼はしり ~護摩焚き
唯一雪のあった、旧有馬家・合掌休憩舎・善道坊・旧嶋家。立山町芦峅寺
さいたま市南区沼影でタイムスリップ感を味合う
【墨田区】向島百花園【日本庭園】
【神社 大分⛩】佐伯市の長良神社&お地蔵様|2023初詣&地域の宝物と出会う【文化財】
旧商家丸一本間家(北海道増毛郡増毛町弁天町一丁目30番地)〜国稀酒造
レンガとコンクリートと木と鉄とガラス
丸の内駅前広場
東京国立博物館 表慶館
94. 春日大社(かすがたいしゃ) 其の壱 〜奈良県奈良市〜
94. 春日大社(かすがたいしゃ) 其の弐 〜奈良県奈良市〜
94. 春日大社(かすがたいしゃ) 其の参 〜奈良県奈良市〜
春日大社(かすがたいしゃ) 其の肆 〜奈良県奈良市〜
御朱印 春日大社(かすがたいしゃ) 〜奈良県奈良市〜
御朱印 若宮神社(わかみやじんじゃ) 〜奈良県奈良市〜
【京都パワースポット】国宝の五重塔「東寺」京都駅チカ世界遺産🍁紅葉の季節もオススメ
「我妻家住宅」が保存修理工事中だった 宮城県蔵王町
初詣2023>❶堀之内妙法寺&ジョサイア・コンドルの話
【野木町】旧下野煉化製造会社煉瓦窯🧱【赤レンガ】
春日大社(かすがたいしゃ) 其の伍 〜奈良県奈良市〜
現代日本ではとんと見られることがなくなった「天然痘」も、実は明治時代に入るまではかなり猛威をふるっており、その凄まじい病状自体がまた「恐怖の対象」になっていた。仮に運よくこの「病状」を乗り越えられたとしても、はっきり天然痘跡が残る人も少なくなく、実際、幕
少々乱暴に言い切ってしまうなら、明治に入った頃のいわゆる「文明開化」とは、日本が従来使用していた「モノサシ」を西欧製のそれに切り替えることだったのかもしれん。いい例が、伝統ある?「チョンマゲ頭」から割合素気ない「ザンギリ頭」への転換だが、ひょっとしたら女
ヒメ隊員はおそらく、「国定教科書」ってものを御存知ではなかろうから、始めに少し簡単な説明をしておこう。~日本では1903年(明治36)から小学校の教科書が国定と され、忠孝の教育が強調されたが、1948年(昭和23)以降は 教科書検定制度に移行した~つまり戦前は忠孝
「京都守護職/会津藩松平肥後守容保中将/御預浪士/ 新選(撰)組」(前身は壬生浪士組).これが「新選(撰)組」の正式な名称ということになる。ただ、「新選組」と「新撰組」の表記については、さして拘りがなかったのか、局長の立場にあった近藤勇(1834-1868年)自
後に日本最初期の職業写真師のひとりに数えられることになる上野彦馬が生まれたのは1838年。 奇しくもその翌年(1939年)、写真(銀板写真/ダゲレオタイプ)技術が発明され、その影響もあって、早くも1840年代には欧米で一種の「肖像写真」ブームが見られたそうだ。とはい
アーネスト・サトウ+英国公使館プロット開通↑アーネスト・サトウSS『to live together.』 イメージ品川港へは愛馬・フシミ号で送迎に出た。はつみは新たに仕立てたらしい洋服を身にまとっており、これまで以上に華やかで麗しくうつるその姿はサトウの心から『業務の一環』
幕末恋愛遊戯かぐやの君乾退助/同床異夢(一部18禁) プロット公開しました♪これで一旦、乾の個別プロット公開という形に着地させたいと思います。(かぐやの君(仮)全体プロットも既に公開中です)だけど所詮乙女ゲーではない為『キャラ別ルート』『キャラ別エンディ
幕末恋愛遊戯かぐやの君高杉晋作/相縁奇縁(一部18禁)番外編/高杉晋作異聞奇譚(一部18禁)プロット公開(中)です!高杉くんの個別ページはだいぶ前に公開していたのですが、先ほど投下した乾と同じ形式で再度紹介します♪乾のプロットではあらすじが鬼長く、ネタバ
小松帯刀SS『こまつといっしょ3』イメージイラスト 慶応元年 全ての努力、研鑽、東西奔走空しく武市は処刑され、はつみは心身ともに満身創痍となる。小松の判断により亀山社中ら仲間ともいったん離れ、薩摩の小松別荘に引き取られていた。 10月、四カ国艦隊神戸港開港
沖田総司SS『思い出となるように(R18)』イメージイラスト 慶応2年1月19日 薩長同盟直前のこの日、待ち続けるばかりだった辛い初恋の決着がつきます。 はつみは大久保一翁に会いに行く龍馬に先駆けて伏見に入った所で沖田と再会しました。身分としては龍馬と同じく薩摩か
「逆説の日本史 20幕末年代史編Ⅲ」の中で、著者・井沢元彦氏は佐久間象山(1811-1864年)の暗殺に触れ、こう書いています。 ~日本史上もっともテロが横行した幕末の文久から元治にかけても、 「人斬り」とまで呼ばれた人間は四人しかいない。 この「人斬り彦斎」こと熊
天皇の命令、さらにはそれを記した文書を意味する詔と勅には区別があって、厳密にはこうなるそうです。○詔 → 臨時の大事に用いる。○勅 → 尋常の小事に用いる。両方を合わせて「詔勅」という表現も用いられます。ところが、日本の歴史の中には「偽勅」「密勅」という
とある少年の特異な体験談(1820年頃)が世間の注目を集めていた。~オイラは、神仙界に自由に行き来できる不思議な老人(仙人?) と出会い、その老人に連れられてあっちこっちと飛行し、やがて 常陸の岩間山へ飛ぶや、その山中で四年間にわたって諸武術・ 書道・祈祷術
人間の年齢って、いつ加算されるのか?現代人と昔の人ではこの問題に対する回答はおそらく異なるであろうことを、若いヒメ隊員は理解できるかな。そう、言葉にすれば、「満年齢」を採用している現代に対し、明治以前は「数え年」を使っていたからだ。では、昔の人はなぜ「数
~白地の中央に太陽(日章)の赤丸をあしらった日章旗(日の丸)を、 いつ誰が日本の国旗と決めたのかしらん?~突然にこんな質問をぶつけられたとしたら、「日の丸弁当」の方ならともかくも、まあ大抵の方は即答できるものではありません。そこで頭の中を少々クールにした
「関ヶ原の戦い」(1600年)の折の出来事です。いささかの手違いがあって、心ならずも 西軍にその身を置くことにしたのが薩摩国・島津義弘(1535-1619年)でした。戦闘についての作戦もそれなりに具申しましたが、ただ西軍指揮官である石田三成(1560-1600年)はそれに賛意を
「士農工商」とは、元々は中国・儒教が生んだ身分概念ですが、日本の学校教育などでは、これを江戸時代における身分序列であり、「四民」を偉い順に並べたものだと教える向きもありました。しかし、実際には儒教の概念を超えるものではなく、身分序列というほどに厳密で窮屈
いわゆる「黒船来航」(1853年)より半世紀ほど前のこと、鎖国体制にあった日本の長崎港にイギリス軍艦が突如侵入するという事件がありました。軍艦の名から「フェートン号事件」(1808年)と呼ばれています。イギリス軍艦であるにもかかわらず、「オランダ国旗」を掲げて堂
その藩の籍から離れ、主従関係を解消する「脱藩」・・・こうした経験を持つ人物は、幕末に限っただけでも何人もいます。たとえば、長州藩士・吉田松陰(1830-1859年)は、我が目で東北の状況を確かめるべく旅行を計画したものの藩からの許可発行が遅れたため、それを待たずに
あまり有名な出来事ではないかもしれませんが、1864年のこと、備中国(現:岡山県)井原領主・池田長発(ながおき/当時28歳/1837-1879年)をリーダーとした34名からなる「遣欧使節団」が、幕末の日本を離れ、遠くフランスへ渡航した事実があります。 これより2年ほど前の
七つの海を跨く「イギリス帝国」を構想し、世界に「植民地」を拡大していていたのが19世紀のイギリスであり、海禁(鎖国)中のアジアの超大国・清国(中国)に対して起こした「アヘン戦争」(1840-1842年)も、まさにそうした行動の一つでした。完膚なきまでに叩きのめされた
時代劇でもしばしば取り上げられる「新選(撰)組」。非常に微妙な存在であることはその正式な名乗りからも窺えます。~京都守護職/会津藩松平肥後守容保中将/御預浪士/新選(撰)組~同じ頃活動した「京都見廻組」が幕臣(旗本・御家人)で構成された正規(公的)の組織であ
最初の「黒船来航」(1953年)の折、開国を迫ったペリー艦隊は、その帰りしなに、幕府に対してこんな挨拶を言い残しました。~また来年もお邪魔に上がりますから、どうぞヨロシクね~この言葉にアワを食ったのが幕府でした。なぜなら、開国を迫るようなウットウしい奴らには
最近描いたイラスト↑沖田総司↑高杉晋作↑アーネスト・サトウ↑坂本龍馬最近幕末再燃し始めたんだけど、かぐやの君自体は2006年から続けている創作です。(途中、友人とともに『はつみさお』として合同創作しておりました。)・かぐやの君WEBはこちら
先日、映画『燃えよ剣』をようやく観てきました。監督は原田眞人、主人公の土方歳三役を岡田准一、原作は言うまでもなく故・司馬遼太郎の小説で、司馬ファンとしては...
★都合により、しばらくの間(10日~2週間程度)記事の更新をお休みします。☆☆☆前回の「著名人の自宅を探訪~代田・代沢散策(4):服部克久/河口慧海/萩原朔太郎/円乗院」では、世田谷区の代田を散策しながら、服部克久の自宅や文士・著名人の旧宅跡を探訪しました。今回は、代田を散策しながら、中島みゆき、なべおさみなど芸能人・著名人の自宅を探訪します。(※)他の芸能人・著名人関係の記事については、「芸能人・著名人...
今回は、「失われた三田用水遺構と戦艦大和と目黒新富士~三田用水跡散策(6)」での散策場所近くにある史跡を通じて、隠れキリシタンについて考察してみます。また、本記事は「三田用水跡暗渠散策シリーズ」の番外編となりますが、番外編としては本記事の他に以下の2つの記事とシリーズがあります。①「日本最大のイスラム寺院・東京ジャーミイを訪問」②『「芸能人・著名人の自宅」と「湧水」を探訪~代々木八幡・初台・西原・大...
東京都北区、JR板橋駅前には、近藤勇墓所・新選組隊士慰霊碑が建てられています。 近藤勇…幕末に活躍した新撰組の局長ですね。 【東京都調布市にある近藤勇生家の看板に使用されている近藤勇の写真】 ここには、土方歳三が函館で戦死した副長・土方歳三など百十名にのぼる新選組隊士と共に供養されています。 (流山で捕まり板橋で死刑。首は京都へ) 新選組は池田屋事件等での活躍し、幕末の京都を警護する部隊として有名になっていきます。 しかし世の中の動きが討幕へ進む中、鳥羽伏見の戦いでやぶれ、近藤勇は江戸にもどります。新選組は甲陽鎮撫隊と名をかえ戦いを続けますが、苦戦が続きます。 また、方針の違いから永倉新八とも…
沖田総司。。新撰組1番組組長。。。 沖田総司は、新撰組の中でも人気がある1人です。 時代が幕末から明治に変わろうとする1868年(慶応4年)5月30日、結核におかされていた沖田総司が命を落とします。 その沖田の終焉の地が東京台東区にあるというので行ってきました。 台東区にある今戸神社です。 (新撰組1番組組長:沖田総司) 沖田総司は、幕末に白河藩の足軽小頭の家に生まれます。 その後、江戸・市ヶ谷にあった近藤勇の天然理心流道場・試衛館で剣術を習い、 10代で免許皆伝、18歳で師範代を務めます。 1863年、沖田は、近藤勇や土方歳三とともに上京し、芹沢鴨と壬生浪士組を結成、8月に壬生浪士組は新撰組…
まもなく11月15日、 この日は坂本龍馬の誕生日であり、命日でもあります 大政奉還が行われたわずか1カ月後で、坂本龍馬33回目の誕生日にあたる 1867年11月15日に、坂本龍馬は京都で暗殺されます。 龍馬暗殺の地京都には、ゆかり場所がたくさんあります。誕生日&命日を機に龍馬関係史跡を周ってみては いかがでしょうか? ⓵龍馬が襲撃された伏見地区 ②龍馬の隠れ家があり、暗殺された河原町周辺 ③龍馬のお墓がある霊山護国神社 ・・この3つが京都龍馬史跡の重要地点です。 いずれも近いので1日あれば十分見ることが可能です。 ①龍馬が襲撃された寺田屋周辺(京都伏見) 京阪電鉄の中書島駅からスタートします。…
大政奉還が行われたわずか1カ月後の 1867年11月15日、 坂本龍馬は京都で暗殺されます。 その日は坂本龍馬33回目の誕生日でもありました。 (大政奉還を演出した坂本龍馬) 坂本龍馬は、幕末の土佐藩脱藩浪人で維新の立役者。 貿易会社で日本初の総合商社である亀山社中、のちの海援隊を創設。 当時、対立していた薩摩藩と長州藩を結び付けて薩長同盟を締結させ、 討幕運動を仕掛けた人で、大政奉還をも演出した人です。 (龍馬、誕生日に暗殺される!) 坂本龍馬は、1867年11月15日、京都にある隠れ家・酢屋から歩いて数分の地にある 近江屋という醤油屋の2階で中岡慎太郎と会っていました。 そこを突然襲撃され…
渋沢商店は、主に小野組の商圏であった、上信奥羽の米産地から、東京への廻米及び、委託販売を行い、荷為替決済、運送保険の制度創設に取り組んだ。 1878年(明治…
前述の通り、1872年(明治五年)、渋沢喜作は、栄一を身元引受人として、赦免されると、栄一の仲介により、大蔵省勧農司七等出仕、全国の農業・養蚕を推進する、官…
群馬県富岡が、製糸工場の建設地に決定したのは、周辺は、養蚕業が、盛んであるため、繭の調達が、容易であること、周辺の土質が悪く、農業には、不向きな土地であるこ…
渋沢成一郎の生涯は、新選組の土方歳三に似ている。 両者共に、尊皇攘夷の志士として、上洛したが、成一郎は、徳川一門の一橋家に仕え、土方は、京都守護職の会津藩の…
渋沢平九郎は、渋沢成一郎、兄の尾高惇忠と逸れて、飯能と越生の境にある、顔振峠に辿り着いた。 峠の茶屋の女主人は、即座に、平九郎が、旧幕府軍の隊士であると見抜…
渋沢喜作は、徳川慶喜の恩顧に報いるため、最後まで、徳川家を守ろうと彰義隊頭取に就任した。最早、喜作の心は、完全に「幕臣」であった。 栄一の見立て養子、平九郎…
幕末期にあたる1864年のこと、備中国(現:岡山県)井原領主・池田長発(ながおき/当時28歳/1837-1879年)をリーダーとした34名からなる「遣欧使節団」が日本を離れ、遠くフランスへ渡航した史実があります。 この時の「使節団」は上海やインドなどを経由した航路でスエズ
渋沢喜作は、栄一が、ヨーロッパに赴く前に、既に、主君である、徳川慶喜に徹底的に奉公し、幕臣として、武士らしく、生きることを決めていた。 最早、倒幕派の尊王攘…
渋沢喜作は、慶喜の将軍就任後、幕臣になると、監察支配職役となった。 主な役割は、堂上方、即ち、朝廷の公家等への使者である。 農民出身の喜作は、泰平の世に慣れ…
渋沢喜作は、栄一と共に、平岡円四郎の推挙によって、一橋家に仕官して、徳川慶喜の家臣になった。 尊皇攘夷の志士の二人にとって、徳川御三卿の一つ、一橋家への仕官…
渋沢喜作、別名、渋沢成一郎の名前は、2021年の大河ドラマ、『青天を衝け』によって、飛躍的に高まった。 『青天を衝け』の放送以前に、渋沢喜作の名を知っていた…
1878 年(明治十一年)、大蔵卿の大隈は、殖産興業及び、不平等条約改正のための世論を形成する、民間の商人が、互いに相談する、集会の様な機関の設立を、栄一に…
栄一は、紙幣・再建の製造、新聞、雑誌の発行等、文明の発展のため、国産の製紙業の必要性を感じ、1873年(明治六年)2月、日本最初の本格的製造業、抄紙会社を設…
1874年(明治七年)、三井組と並ぶ、第一国立銀行の大口出資先の小野組が、倒産した。 三井組、小野組、島田組は、「為替方」であったため、政府の資金を無金利及…
気迫に満ち満ちた名称の江戸時代の法令「無二念打払令」。これが定められたのは1825年のことで、その内容を簡単に示すなら、~(清国・オランダ以外の)外国船を見つけたなら、 何も考えず(無二念で)、ためらうことなく即座に打ち払え、 追い払え!~こう言っているわけ
予算の増額を要求する、他省庁と、歳出の削減を目指す、大蔵省の対立は、深まった。 大蔵省批判の急先鋒は、司法卿の江藤新平であった。 更に、文部省は、学校建設関…
明治維新以前、諸藩が、金の含有量の低い、金貨、偽の二分金を発行していた。 維新後、外国人が、偽の二分金に対し、抗議したため、新政府が、偽の二分金の交換を引き…
1871年(明治四年)の夏、栄一は、大隈、伊藤、吉田清成と共に、大阪造幣局に赴いた。 その時、今後、政府において、心を砕き、力を尽くして、貨幣法を定め、租税…
廃藩置県は、自治を基本とする、「藩」を廃止し、新たに「県」を置いて、中央集権国家を実現する、鎌倉時代以降、続いた、日本の封県制度の廃止であった。 1869年…
明治新政府においては、貨幣改鋳は、最大の重要問題の一つとなっていた。 政府では、大阪に造幣局を建設し、銀本位制の貨幣の鋳造の評議は、決定していた。 貨幣改鋳…
大隈重信は、栄一の建白を聞くと、自分も、毎日の雑務に追われ、右往左往するのみで、改革を実行できないため、「改正掛」、即ち、業務改革専門の組織を置きたいと考え…
いま毎朝、チャンネル銀河で1998大河『徳川慶喜』をやっている。 慶喜といえば、故司馬遼太郎さんの『最後の将軍』の印象が強く、実際それが原作なのだが、渋沢栄…
栄一は、大蔵省には、知人はおらず、「大蔵省租税司正」の職務の経験は、皆無であった。 栄一は、何をすべきか、全く、不明なため、早く、辞退して、静岡に戻ろうと考…
栄一は、「商会」の結成に際し、方法を詳細に書いて、計算書を添えて、平岡に提出した。 商法会所は、地方の主な商人、十二名に御用達を命じたため、銀行と商社を合わ…
栄一は、勘定組頭の申し付けに対し、勘定頭の平岡準蔵の許を訪れ、自分は、静岡藩に移住するが、禄を食む、即ち、仕官の気持ちはないことを告げた。 そして、慶喜の昭…
渋沢栄一は、1840年(天保十一年)の生まれのため、帰国した、1860年(明治元年)は、二十九歳であった。 栄一の帰国後に、父の市郎右衛門元助が、東京の栄一…
ギリシャ神話に登場する伝説の都市トロイア※が実在したことを、実際の発掘によって証明(1871年)した人物として有名なのが、ドイツ人考古学者ハインリヒ・シュリーマン(1822-1890)です。実はそのシュリーマンは意外?(でもないかもしれんが)なことに、日本に滞在した経
評価:70点/作者:井上潤/ジャンル:歴史/出版:2012年 『世界史リブレット人 085~渋沢栄一~近代日本社会の創造者』は、山川出版社による、「日本史…
徳川昭武は、1867年(慶応三年)11月末ヨーロッパ諸国の訪問を終え、以後、数年間、パリにおいて、留学生活を送る、予定であった。 しかし、既に、万里の彼方の…
評価:80点/作者:城山三郎/ジャンル:歴史小説/出版:1972年 『雄気堂々』は、毎日新聞において、1971年1月~12月23日まで、連載されていた、「…
前述の通り、栄一は、スエズから、アレキサンドリアの旅程において、初めて、汽車に乗った。 そして、交通機関である、陸の鉄道、海の船舶の日本への導入の必要性を感…
幕末期に英国駐日公使館付通訳生がいた。その名は「佐藤(薩道)愛之助」。こう聞けば、自然「日系二世」?あたりを連想してしまいますが、その本名を「Ernest Mason Satow」(1843-1929年)といい、生粋の英国人でした。この「アーネスト・サトウ」が着任した頃の日本は、ま
栄一は、喜作と共に、幕臣として、鬱々とした、日々を過ごしていた。 二人は、本来の志とは、異なる、幕臣の身を悲観して、浪人、または、血洗島村に帰ることを考えて…
渋沢栄一は、一橋家の財政再建のために尽力していたが、1866年(慶応二年)7月20日、第二次長州征伐の最中、徳川幕府の十四代将軍、徳川家茂が、大阪城において…
栄一は、「歩兵取立掛」としての任務を成功させ、四百五十人以上の歩兵志願者を連れて、京へと帰還した。 同時に、栄一は、歩兵募集のために、領内を巡回したことで、…
西国の一橋家の領地は、摂州、泉州、播州の三国は、大阪の川口に、備中は、井原村に代官所があった。 京の御勘定形から、事前に御用状の形で、代官所に対し、「歩兵取…
平岡円四郎は、渋沢栄一と喜作にとって、一橋家に仕官させてくれた、恩人であった。 平岡の死後、同様の側用人である、黒川嘉兵衛が、一橋家の政務を執っていた。 黒…
栄一は、折田が、薩摩藩主の島津久光に意見を述べたこと、また、西郷隆盛に意見書を提出したことなどを探ると、平岡に報告していた。 栄一は、一橋家の密偵として、薩…
渋沢栄一は、尊王攘夷の志士から、幕臣となり、維新後には、明治政府の役人となり、更に民間に下って、「日本資本主義の父」となった。 即ち、栄一は、生涯に、三度、…
栄一と喜作は、京において、名の知れた、人物、塾を訪ね、天下の形勢を知ろうとした。 この時、栄一と喜作は、薩摩藩の西郷隆盛の許を訪ねている。 当時、西郷は、京…
栄一は、江戸に出立する前に、父の市郎右衛門元助に、京に逃走する、必要があることを話した。 無論、横浜焼き討ちの計画を打ち明けてはいない。 元助は、栄一が、何…
栄一達は、決行の日を、1863年(文久三年)11月23日に定めていた。 9月14日には、栄一は、計画決行の準備のために江戸へ出ると、10月末には、血洗島村に…
栄一は、江戸に遊学すると、長七郎の紹介で、海保漁村の掃葉軒に入塾した。 同時に、北辰一刀流の千葉栄次郎の道場において、剣術を学ぶと共に、尊皇攘夷の志士達との…
前述の通り、血洗島村は、武蔵国岡部藩の安部家の所領であった。 安部家は、一万石程の小藩であったため、城の代わりに岡部に陣屋を置いた。 豪農の渋沢一族は、安部…
渋沢栄一の父、市郎右衛門元助は、農民の身分であるが、教養を重視した。 そのため、栄一は、六歳の頃から、父に読書を授けられた。 市郎右衛門は、江戸時代の主流の…
渋沢栄一は、1840年(天保十一年)2月13日に、武蔵国榛沢郡血洗島村、現在の埼玉県深谷市血洗島において、渋沢市郎右衛門元助の長男として、誕生した。 母の名…
日本人のビジネスマンであれば、渋沢栄一の名は、一度は、聞いたことがあるであろう。 2021年には、渋沢栄一を主人公とする、NHKの大河ドラマ、『青天を衝け』…
新年あけましておめでとうございます。 クリック協力お願いします。ツイッター@moriezokikorro 副アカウント等未作成 twi以外、掲示板 著名人ブロ…
「三日坊主」という言葉には、こんな説明がされています。~飽きっぽくて何をしても長続きしないこと。 また、そのような人のことを嘲っていう言葉~何事も「三日」ほどの短期間のうちに、すっかり飽きてしまう意味であることは分かりましたが、では「坊主」って? それ
知名度としては、勝海舟(かつ・かいしゅう/1823-1899年)や、小栗忠順(おぐり・ただまさ/1827-1868年)には及ばないかもしれませんが、黒船来航(1853年)後の、いわゆる幕末期に活動した人物の一人に川路聖謨(かわじ・としあきら/1801-1869年)という人物がいます。旗
伊吹文明元衆議院議長は、ポピュリズムに流されず、国民から不人気になるようなことも敢えて発言する保守政治家で、「体罰全否定しては教育はできない」と発言して(平成25年(2013年)2月9日付各報道)して物議をかもしたことがあります。★★★ ★★★その伊吹文明元衆議院議長が、眞子さまと小室圭氏のご結婚問題に関し発言していました(令和2年(2020年)12月3日付各報道)。その報道の一部を引用すると以下の通り...
キリスト教宣教師として、最初に日本に来た(1549年)フランシスコン・デ・ザビエル(1506頃-1552年)が、その布教活動において、ちょいとばかり首を傾げたことがありました。~唯一神である「デウス」を連呼したところで、その名を知らぬ 日本人にはどうも上手く伝ってお
筆者が学校授業で学んだ頃の「江戸時代」の社会については、概ねのところあまり良い評価がされていませんでした。総じて、封建制・士農工商・鎖国・飢饉など、「薄暗いイメージ」で語られる内容が少なくなかったからです。しかし、学校授業から離れ、歴史に対して割合自由で
幕末、・・・日本は未曽有の国難に直面していました。攘夷か、開国か!!国論は、真っ二つに別れ、遂には武力による討伐・・・明治維新へと突き進みます。そんな幕末動乱の時代に、危機に立ち向かった先陣の英知とは・・・??①老中首座・阿部正弘200年以上守ってきた鎖国の
1873年、明治政府は崩壊の危機にありました。際ぢの実力者・西郷隆盛が対外戦争につながりかねない朝鮮への使節派遣を主張・・・これに対し、盟友大久保利通は内治優先を主張して激しく対立!!政府は真っ二つに割れました。いわゆる征韓論危機です。従来この問題は、西郷・
日本の歴史は、江戸時代(1603-1868年)から明治時代(1868-1912年)へと移りましたが、ここでは一般的にこんな評価が残っているようです。~江戸時代は暗黒、その暗黒を打ち破ったのが明治時代~つまり、露骨に言えば、江戸幕府は悪の存在であり、その悪を打ち倒した明治新
「その1」で紹介した堺事件発祥の地碑から1kmほど西にある妙國寺で、くじ引きで決められた20人の土佐藩士が切腹することになりました。現在、その境内には、切...
新政府軍と旧幕府軍が衝突した鳥羽伏見の戦いが終結した直後の慶応4年2月15日(1868年3月8日)、泉州・堺において、無断上陸したフランス兵と堺の治安を預...
ギリシャ神話に登場する伝説の都市トロイアが実在したことを、実際の発掘によって証明(1871年)した人物として有名なドイツ人考古学者ハインリヒ・シュリーマン(1822-1890)は、少々の意外感が伴いますが、幕末期の日本に滞在したことがありました。その来日とは、「遺跡発
「その1」の続きです。神戸事件の起きた三宮神社から3kmほど南西にある能福寺に、神戸事件の責任を負って切腹した滝善三郎正信の顕彰碑があります。ここ能福寺は...
神戸市中央区のド中心部にあたる大丸神戸店前に、三宮神社という小さな神社があります。幕末、ここで大きな国際事件が起きました。慶応4年1月11日(1868年2...
「その8」のつづきです。「その3」で紹介した山口護国神社から直線距離で25kmほど北上したところに、「生野の変」で挙兵した志士のひとり、多田弥太郎終焉の地...
「その7」で紹介した黒田與一郎・中島太郎兵衛顕彰碑から北西に5kmほど、「その3」で紹介した山口護国神社から直線距離で35kmほど北上した養父市上網場に、...
「その6」で紹介した三国神社で自刃した中島太郎兵衛と、その弟の黒田與一郎の顕彰碑が、兵庫県朝来市和田山町高田あります。このあたりに、かつて彼ら兄弟の生家が...
「その5」のつづきです。「その1」で紹介した生野代官所跡から直線距離で南西に25kmほど離れた宍粟市山崎町木ノ谷で、生野の変の挙兵メンバーの美玉三平と中島...
いわゆる「黒船来航」(1853年)以降の日本には、それまで日本人がまったく知らなかった事物がどっと入り込んで来ました。「未知との遭遇」というですから、そういうニュー事物に対しては、それなりの恐怖心も伴ったのでしょうが、民族性からしても、ひょっとしたら好奇心の
「その3」で紹介した山口護国神社から5kmほど北上した兵庫県朝来市山内の一角に、「勤皇志士 大川藤蔵殉難之地」と刻まれた石碑があります。大川藤蔵は水戸藩士...
「その3」のつづきです。生野の変ゆかりの地とは少し違うかもしれませんが、JR生野駅の駅前広場に、「山田顕義終焉之地」と刻まれた石碑があります。山田顕義は元...
「その2」のつづきです。「その1」で紹介した生野代官所跡から6kmほど北上したところに鎮座する山口護国神社は、「生野の変」を起こした尊王攘夷派志士たちが自...
在野の研究者の歴史書から学んだ結果をまとめたもの
日野市および周辺の地域情報や歴史にまつわる話を取り上げています。
日本100名城・続日本100名城に関する記事なら何でもOKです
親鸞
令和3年(2021年)の大河ドラマ「青天を衝け」を応援しましょう。
ガイドブックに載っていない、ローマの観光スポットを歴史とともに語る。
夫余(ふよ、朝鮮語: 부여、拼音: Fúyú、正字体:夫餘)は、現在の中国東北部(満州)にかつて存在した民族およびその国家。扶余(扶餘)[1]とも表記される。 https://ja.wikipedia.org/wiki/夫余
町奉行・寺社奉行・公事方勘定奉行、自身番屋・辻番・木戸番、火付盗賊改、関東取締出役、目明し・岡っ引き・手先、囚獄、評定所などに関するトラバ用テーマです。
私が書き残しておかなければ、永遠に埋蔵金が発掘されないであろうと思い、気力と体力のあるうちに30数年前に埋蔵金の研究をしたことを記載する。当時、埋蔵金発掘番組が世間を騒がしていたことを記憶されている方もおられると思うが、日本トレジャーハンティングクラブの代表として、TV局に番組の修正を依頼した経緯なども付け加えておく。
戦後GHQは昭和三年から昭和二十年までに刊行されていた書物のうち7769点を指定し、本屋などで流通していた書籍を没収・廃棄し、戦後の日本人に読めなくしました。 どのような書籍が没収されていたかを調べると、軍国主義的な書籍よりも圧倒的に多いのは、戦勝国にとって都合の悪い史実などが書かれた本であることが分かります。 GHQ焚書は、「国立国会図書館デジタルコレクション」で、3割程度の本がネットで公開されています。実際に読んでみると、戦後詳しく知らされてこなかった史実などが満載です。