在野の研究者の歴史書から学んだ結果をまとめたもの
1件〜50件
19日華子さま世界文化賞受賞式典 20日今上雅子さま受賞者と懇談
セット売りは怖い?・・・佳子さま愛子さま二人連れ
11月第4週 18日~24日 ご予定
11月11日~17日 天皇皇后 ご動静
16日 百合子さまお舟入り(2)主に映像
16日 百合子さまお舟入り(1)主に資料
【三笠宮妃百合子さま ご逝去】(2)
101歳、三笠宮崇仁親王妃殿下百合子さま ご逝去
ネットで話題のアレコレ、、どんなに上手に隠しても
【朗報】なれどモヤっと・・12日 鴨場接待復活が発表される
天皇皇后 10月28日~11月3日のご動静、11月4日~11月10日のご動静
10日 今上、雅子さま 全国豊かな海づくり大会式典、稚魚放流
9日 今上、雅子さま 大分県開催「第43回豊かな海づくり大会」へ
8日 彬子さま急遽英国から帰国
やはり一人では無理?・・園遊会と茶会の愛子さま
シリーズ最後です。足を負傷したために一行から遅れていた吉村寅太郎は、傷が悪化して歩行困難となり、駕籠に乗せられて運ばれていましたが、文久3年9月27日(1...
鷲家にある禅寺・龍泉寺は、天誅組の菩提寺となっています。「その25」で紹介した鷲家口の宝泉寺も天誅組の菩提寺でしたが、あちらは「その26」で紹介した明治谷...
鷲家には「天誅義士湯ノ谷墓所」があります。ここも、「その26」で紹介した明治谷墓所と同じく天誅組隊士たちが葬られています。 伊勢街道沿いに「天誅義士墓所」...
「その27」の最後に紹介した藤本鉄石が紀州藩撃ち方の的場喜一郎を討ち取ったという場所は、現在、天誅組史跡公園となっており、藤本とともに天誅組三総裁のひとり...
鷲家口の激戦地から3kmほど北上した鷲家にも、天誅組史跡が残されています。まずは、幕府より命を受けて追討軍として出陣した津藩の陣所跡です。 古い家屋の2階...
「その25」で紹介した宝泉寺から南東に200mほど歩いたところにある墓地に、宝泉寺で菩提を弔われていた天誅組隊士たちの墓があります。 墓所入口には、「天誅...
東吉野村の丘の上にある宝泉寺は、文久3年9月24日(1863年11月5日)に起きた鷲家口の決戦における戦死者の菩提寺です。 宝泉寺は「その19」で紹介した...
鷲家口古戦場から伊勢街道を1kmほど北上したところに、「天誅義士 鍋島米之助先生戦死之地」と刻まれた石碑があります。 鍋島米之助は、文久3年9月24日(1...
「その22」で紹介した宍戸弥四郎戦死の地のすぐ北側に、「天誅義士 林豹吉郎先生戦死之地」と刻まれた石碑があります。 林豹吉郎は、文久3年9月24日(186...
鷲家口北側の県道16号線と220号線が交わる三叉路に、「天誅義士 宍戸弥四郎先生戦死之地」と刻まれた石碑があります。 宍戸弥四郎は三河国刈谷藩出身の人物で...
「その19」で紹介した出店坂の上にある吉野小学校の校舎沿いに、「天誅義士 植村定七先生戦死之地」と刻まれた石碑があります。 植村定七は那須信吾を隊長とする...
「その19」で紹介した那須信吾戦死の地のすぐ近くの高見川沿いに、「天保高殿先生戦死之地・西田仁兵衛先生戦死之地」と刻まれた石碑があります。天保高殿は水戸藩...
文久3年9月24日(1863年11月5日)夕方、鷲家口手前で軍議を開いた天誅組残党一行は、敵陣に決死隊を斬り込ませて撹乱し、その隙に中山忠光ら本体が切り抜...
高取城攻めで大敗を喫し、天ノ辻本陣まで退却した天誅組でしたが、そこで、中山忠光と吉村寅太郎らの意見が別れはじめます。そこへ、幕府の命を受けた紀州藩、津藩、...
「その15」で紹介した天ノ辻へ本陣を移した天誅組は、近隣の高取藩に兵糧の提供を求めます。この数日前、天誅組は五條代官所襲撃後すぐに高取藩に対して那須信吾ら...
櫻井寺本陣から天辻本陣に南下するちょうど中間地点あたりに、賀名生(あのう)という山里があるのですが、かつてここは、南北朝時代の一時期、南朝の行宮所が置かれ...
文久3年8月17日(1863年9月29日)に櫻井寺(別稿:その11)で五条新政府を立ち上げるも、その翌日に起きた「八月十八日の政変」により、わずか1日で逆...
五條は、幕末の思想家・森田節齋の出身地です。森田節齋は頼山陽に学び、頼三樹三郎や梅田雲浜、宮部鼎造らと親しく交わり、その門下には吉田松陰や久坂玄瑞がいまし...
五條出身の天誅組隊士としては、「その12」で紹介した乾十郎のほかにも2人いましたが、そのなかのひとり井澤宜庵の住居あとにも石碑が建てられています。 井澤宜...
「その11」で紹介した櫻井寺の南側に、五條出身の天誅組隊士・乾十郎の住居がありました。現在、その跡地には石碑が建てられています。 乾十郎は4歳にして孟子を...
文久3年8月17日(1863年9月29日)、天誅組隊士はいっせいに挙兵し、五條代官所を襲って代官の鈴木正信(源内)を殺害すると、ここ櫻井寺を本陣として五條...
天誅組の五條代官所襲撃によって殺害された代官・鈴木正信(源内)の墓所が、五條代官所跡の石碑から北東200mほどのところにあります。 墓は地元の人たちの墓地...
「その8」で紹介した五條代官所跡のすぐ近くに、天誅組の史跡公園があります。ここには、五條代官所の長屋門があり、民俗資料館として天誅組の史料などが展示されて...
文久3年8月17日(1863年9月29日)に五條に入った天誅組は、五條代官所を襲撃します。現在、代官所のあった場所は五條市役所になっています。 庁舎前の噴...
文久3年8月17日(1863年9月29日)、国境の千早峠を越えて大和国に入った天誅組一行は、昼過ぎ、五條北方にある岡八幡宮で休息しました。 このとき天誅組...
文久3年8月17日(1863年9月29日)午前に観心寺に集まった天誅組一行は、大和国五條に向かうべく千早峠を東に進みました。峠越えは急峻なため、千早村で三...
三日市の宿場を早朝に発った天誅組一行は、河内の観心寺に立ち寄りました。観心寺には、彼ら勤王の志士たちの精神的支柱である楠木正成の首塚や、第97代天皇にして...
文久3年8月16日(1863年9月28日)の夜に狭山を出発した天誅組一行は、翌17日未明、高野街道の三日市宿で休息を取ります。このとき主将の中山忠光が泊ま...
「その2」で紹介した狭山藩陣屋跡から3kmほど南東の富田林市にある錦織神社に、天誅組の顕彰碑があります。テニスの錦織圭選手は「にしこり」と読みますが、錦織...
文久3年8月15日(1863年9月27日)に堺港に上陸した天誅組は、翌16日、払暁に高野街道を通って河内をめざし、狭山に入りました。そこで天誅組は吉村寅太...
幕末には、新選組、見廻組、誠忠組、新徴組など、「○○組」と称する団体がいくつかありましたが、その性格は様々で、警備組織もあれば政党もあり、武装集団もあれば...
記事の情報が取得されるまで、しばらくお待ちください。
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親鸞
令和3年(2021年)の大河ドラマ「青天を衝け」を応援しましょう。
ガイドブックに載っていない、ローマの観光スポットを歴史とともに語る。
夫余(ふよ、朝鮮語: 부여、拼音: Fúyú、正字体:夫餘)は、現在の中国東北部(満州)にかつて存在した民族およびその国家。扶余(扶餘)[1]とも表記される。 https://ja.wikipedia.org/wiki/夫余
町奉行・寺社奉行・公事方勘定奉行、自身番屋・辻番・木戸番、火付盗賊改、関東取締出役、目明し・岡っ引き・手先、囚獄、評定所などに関するトラバ用テーマです。
私が書き残しておかなければ、永遠に埋蔵金が発掘されないであろうと思い、気力と体力のあるうちに30数年前に埋蔵金の研究をしたことを記載する。当時、埋蔵金発掘番組が世間を騒がしていたことを記憶されている方もおられると思うが、日本トレジャーハンティングクラブの代表として、TV局に番組の修正を依頼した経緯なども付け加えておく。
戦後GHQは昭和三年から昭和二十年までに刊行されていた書物のうち7769点を指定し、本屋などで流通していた書籍を没収・廃棄し、戦後の日本人に読めなくしました。 どのような書籍が没収されていたかを調べると、軍国主義的な書籍よりも圧倒的に多いのは、戦勝国にとって都合の悪い史実などが書かれた本であることが分かります。 GHQ焚書は、「国立国会図書館デジタルコレクション」で、3割程度の本がネットで公開されています。実際に読んでみると、戦後詳しく知らされてこなかった史実などが満載です。