在野の研究者の歴史書から学んだ結果をまとめたもの
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若武者・牛若丸(後の源義経/1159-1189年)と、後にその郎党となった僧兵・武蔵坊弁慶(生年不詳-1189年)との出会いは、童謡「牛若丸」にも歌われるほど有名で、こんな内容になっています。~京で千本の太刀を奪う悲願を立て、通りがかった武者に 決闘を挑んでは、それに
その領地を召し上げて他の地に移し替える、いわゆる「国替」(くにがえ) と言われる大名統制策が取られたのは、豊臣秀吉(1537-1598年)が、 実力者である徳川家康(1543-1616年)を駿河国駿府から武蔵国江戸に移し 替えた(1590年)事例が最初だとされています。 「オマエ…
沈尹戌は、楚軍が敗れたことを知り、兵を救うため、まず、夫概と戦い、勝利を治めた。 しかし、楚軍は、呉軍に囲まれて、負傷したため、沈尹戌は、勝つ見込みがないと…
北条時政が、源頼朝の妻、北条政子として、源頼朝と共に挙兵し、治承・寿永の乱にて、貢献したことは、本書において、既に述べた。 源頼朝の最初の妻、八重の父、伊藤…
二階堂行政は、生没年は、不明であるが、母は、源頼朝の母、由良御前の父の妹、即ち、由良御前の叔母である。 行政の父は、藤原南家乙麻呂流の工藤行遠で、行政である…
中原親能は、1143年(康治二年)に、京の下級貴族、中原広季の息子として生まれた。 別説では、親能の実父は、参議の藤原光能で、母が、前・明法博士の中原広季の…
大江広元は、1148年(久安四年)、京の下級貴族の家に生まれた。 出自は、諸説、存在し、藤原北家御子左流、藤原光能の息子で、母の再婚相手、中原広季に養育され…
政治家、第64・65代内閣総理大臣新潟県出身1918年(大正7年)5月4日生れ田中角栄 年齢年表0歳 新潟県刈羽郡二田村(現・柏崎市)で生れる。14歳 二田尋常高等小学校卒業。土木工事の現場で働いた後、柏崎の県土木派遣所に勤める。15歳 上
○我と来て 遊べや 親のない雀 → 親とはぐれて一羽で遊ぶ寂しそうな子雀よ、同じように母を亡くした 私と一緒に遊ぼうじゃないか。 ○雀の子 そこのけそこのけ お馬が通る → 雀の子よ、早くそこをどかないとお馬さんに踏みつぶされてしまうよ。 ○やれ打つな 蠅…
第五次対仏大同盟の戦役開始後に、オーストリア軍は、ワルシャワの占領に成功した。 ワルシャワ公国軍司令官、ユゼフ・ポニャトフスキーは、逆に、ガリツィアに侵攻す…
~織田信長(1534-1582年)は、大将の馬の廻りに付き添って護衛・ 伝令・決戦兵力として働く親衛隊的な存在である「馬廻」などの 精鋭を赤・黒二色の「母衣衆(ほろしゅう)」として抜擢した~さらに、~その中でもとりわけ優秀な者については、部隊の指揮官にまで 昇進さ
紀元前512年、孫武は、呉王闔閭に将軍に任じられ、楚国の衛星国、鍾吾国及び、徐国を攻略した。 闔閭は、勝利に乗じて、楚国に進攻しようとしたが、孫武は、「楚は…
源頼家は、十八歳の若さとはいえ、父の頼朝に似ず、政治的に無能な、暗君であった。 御家人達が、「鎌倉殿」に求めるのは、特に土地問題の訴訟に関する、公正な裁判で…
源頼家は、源頼朝の嫡男である。 頼朝には、伊東祐親の三女、八重姫との間に生まれた、長男の千鶴丸がいたが、生後、祐親に殺され、その存在が、知られていないため、…
奈良時代の皇統は、 ○第38代・天智天皇(在位:668-671年) ○第39代・弘文天皇(在位:671-672年/明治新政府によって認定) のあとに立った天武天皇以下九代(八人)約百年間の歴代天皇方に対して、 「天武系」という表現を用いられることがあります。 具体的には以下の…
源頼朝は、娘の大姫の死後、なお、天皇の外戚になるとの野望を捨てなかった。 頼朝は、大姫に代わり、次女の三幡の入内を画策する。 そして、三幡は、女御の称号を与…
「逆説の日本史 20幕末年代史編Ⅲ」の中で、著者・井沢元彦氏は佐久間象山(1811-1864年)の暗殺に触れ、こう書いています。 ~日本史上もっともテロが横行した幕末の文久から元治にかけても、 「人斬り」とまで呼ばれた人間は四人しかいない。 この「人斬り彦斎」こと熊
1195年(建久六年)、源頼朝は、丹後局を招いて、政子及び、大姫と対面させた。 そして、丹後局に銀製の蒔絵の箱に砂金300両を納め、白綾30反等、数多くの派…
1809年7月6日、カール大公は、弟のヨハン大公の迅速な行軍を要求する、両翼包囲を計画した。 この時、ヨハン大公は、既に、戦場の東、数kmの地点にいた。 オ…
70余の蝋人形が歴史を物語る「吉田松陰歴史館」 今回は、山口県萩市にある「吉田松陰歴史館」をお届けします。 松陰神社には、たまに行くのですが、ここに入るのは初めてでした。 館内撮影OKと
幼き吉田松陰に厳しく教育を施した、叔父玉木文之進 今回は、山口県萩市にある吉田松陰の叔父「玉木文之進旧宅」をお届けします。 松陰神社からほど近くにある松陰の叔父玉木文之進旧宅は、松陰に教育を施した
JUGEMテーマ:歴史「亀山公園」から眺める史跡の景観は、見つけると嬉しくなります 今回は、山口県山口市にある歴史公園「亀山公園」をお届けします。 亀山は古くから長山と呼ばれ、戦国時代末期には山と
孫武は、斉国の大夫で、後に太公望の子孫の姜氏に代わって、斉公となる、嬀姓の田氏の出身と言われるが、定かではない。 孫武は、若年から、兵書に親しみ、黄帝、四帝…
江戸後期の1828年のこと、任期を終えたドイツ人医師・シーボルト (1796-1866年)の帰国のための船が、たまたま起こった暴風雨によって 難破し、そのために積み荷が調べられることになりました。 その際、持ち帰ろうとした帰国用の荷物のうちに伊能忠敬(1745-1818年) 作成の日本地図などを含む多くの禁制品のある…
父の源頼朝によって、源義高が、誅殺されたのは、大姫が、七歳の年であった。 大姫の心は、深く傷付き、その後、十数年を経ても、義高への思いに囚われたまま、床に伏…
今回はちょっぴりロマンチックな香りも漂う、ヴィスコンティ家の逸話、20世紀初頭のアール・デコのイメージ濃い世界にお遊び下さいね。参考にしたサイト記事はVISCONTI, UNA STORIA PROFUMATAですが、他にもあれこれ。 こちらは「おしろい・チプーリア・Cipria」の宣伝に使われた音…
1195年(建久六年)、源頼朝は、東大寺落慶供養のため、上洛し、政子、大姫、頼家等を同道させた。 東大寺は、近隣の興福寺と共に、1180年(治承四年)に、平…
こんにちは!トヨさんです。 本日は漢詩を紹介していきます。 第2弾は、杜牧(とぼく)の「江南の春」について見ていきましょう! 1.杜牧 杜牧は唐後期、日本で言う平安時代に生きた詩人です。 2.詩の舞台 詩の舞台は、長江下流域の南岸エリア一帯、すなわち「江南地域」です。 (下の網掛け部分に当たる上海市、江蘇省、浙江省辺りが含まれます。) 江南地域には現在でも美しい水郷の街が多く、風光明媚な観光地となっています。 3.江南の春 それでは早速、詩の中身を読んでいきましょう! 4.解説 江南地方の春が見事に歌い上げられていますね。1句目では広い目線で自然における桃と柳の色の対比を捉…
源頼朝の最初の妻は、伊東祐親の三女、八重姫と言われる。 源頼朝は、平治の乱の後、伊豆国に流罪となり、同地の最大の豪族、伊東祐親に預けられ、その監視下に置かれ…
江戸時代の商人で天文学者・地理学者・測量家。50歳を過ぎてから17年かけて日本全国を歩き測量して正確な日本地図「大日本沿海輿地全図」を作った人物。1745年2月11日生れ伊能忠敬 年齢年表0歳 上総国山辺郡小関村(現・千葉県山武郡九十九里町
1809年6月14日、ヨハン大公の率いる、オーストリア軍は、ラープの戦いにおいて、フランス大陸軍のウィーン近郊の最高司令官、ウジェーヌ及び、マクドナルドに敗…
御門葉の内、足利義兼は、源頼朝の挙兵後、頼朝の許に馳せ参じ、源義高の討伐にて、戦功を挙げた。 その後、源範頼の率いる、平家追討軍に従軍すると、その功績によっ…
たまたま観た古い時代劇に犯人逮捕のシーンが登場していました。 えぇ、六尺棒を持った大勢の捕り手たちが、取り囲んだ犯人を力ずくで取り 押さえる場面です。 その捕り手たちが携えていたのが、「御用」の文字が入った提灯でした。 そこで筆者はこう思ったわけです。 ~「御用」と記された提灯を掲げて犯人逮捕に臨んでいるのだから、この 大勢の捕り手…
天皇の命令、さらにはそれを記した文書を意味する詔と勅には区別があって、厳密にはこうなるそうです。○詔 → 臨時の大事に用いる。○勅 → 尋常の小事に用いる。両方を合わせて「詔勅」という表現も用いられます。ところが、日本の歴史の中には「偽勅」「密勅」という
村の子供同士の喧嘩が、親同士の喧嘩に発展して、呉の村の親が負けて、家を焼かれた。 呉の村を統治している、郡主は、警備兵を出して、楚の村を攻め立てた。 この報…
源頼朝は、武家政権支配のため、源氏一門を「門葉」として、「御家人」の格上とした。 しかし、同時に、源氏一門は、源頼朝にとって、最大の脅威であった。 東国の武…
鎌倉殿の武家政権には、草創期、「門葉」の身分があった。 『吾妻鏡』には、甲斐源氏の板垣兼信が、頼朝に対して、自分は、御門葉であるのに御家人に過ぎない、土肥実…
知る人ぞ知る「奇門遁甲」。 方位術として用いると効果が高く、吉運をゲットしたり凶運を避けるために使う人が少しずつ増えています。 この奇門遁甲ですが、「いつから使われ、いつ完成したの?」など、謎の部分が多くあります。 そこで、その歴史を簡単にまとめてみました。
~「追いつけ、追い越せ」 「私が勤めていた○○高校」~ 口ぐせのように何度も聞かされた言葉です。僕が高校1年生のときの教科担当の先生のお一人でした。 授業は上手とは言えませんが、結構楽しくて人気もありました。彼は前任校である○○高校から、僕たちが在学していた第一高校(仮称)に赴任してきたのです。 つまり、君たちの多くは第2、第3希望として入学してきたので第1希望の学校の生徒より学力が劣る。だから 「追...
幕末の武士で明治の幕臣、政治家、外交官1836年10月5日生れ榎本武揚 年齢年表0歳 江戸で幕臣榎本武規(箱田良助)の次男として生まれる。14歳 昌平坂学問所に入学。16歳 昌平坂学問所修了。17歳 蝦夷地箱館に赴任。20歳 長崎海軍伝習所
1809年5月22日、オーストリアのローゼンベルク軍団による、エスリンクへの攻撃は、サン・ティレール師団の増援を受けた、ランヌ元帥によって、撃退された。 中…
曾我兄弟の仇討事件が、鎌倉に最初に報告された時、頼朝が、討たれたと誤報された。 北条政子が、夫の頼朝の死を嘆くと、源範頼は、「後には、それがしが控えておりま…
伍奢は、荘王に仕えた、伍挙の息子である。 前述の通り、伍挙は、荘王の鳴かず飛ばずの時代に、最初に諫言をした、名臣である。 平王は、荘王以来の名族、伍挙の息子…
たまたまのこと、こんな説明に遭遇しました。 ~明治維新とは、日本史における政治的革命~ 「政治的革命」とされているからには、そのものズバリの「政治革命」とは ちょっと違うニュアンスが含まれているのでしょう。 ほんなら、その「政治的革命」なる出来事をわざわざ「維新」と呼び換える 理由は? 探ってみると、
北条時政が、曽我兄弟を使って、源頼朝を殺害しようとしたとの説は、その後の二人の関係によって、否定されている。 しかし、陰謀は、確実に存在した。 曽我兄弟の仇…
今回は4月下旬に訪問の、オルタ湖、そしてマッジョーレ湖の3島の一連のご案内の最後、イーゾラ・マードレのボッローメオ邸を。 写真に見える邸宅がボッローメオ家の邸宅で、後はすべて、と言って良い程に、ロマンチックなイギリス式庭園が8ヘクタール、広がります。
1809年5月13日、カール大公は、ナポレオンのウィーンの占領を気にすることなく、崩壊した、オーストリア軍をドナウ川北岸に集中させ、再編を行った。 そして…
少年時代にアメリカに渡った経験から英語力を活かし幕末から明治にかけて日米交渉や通訳として活躍した。本名:中浜万次郎土佐藩(現・高知県)出身1827年(文政10年)1月1日生れジョン万次郎 年齢年表0歳 土佐藩の半農半漁の家庭に生れる。14歳
1193年(建久四年)5月28日に、富士野の巻き狩りにおいて、曽我兄弟の仇討事件が、発生したことは、既に、詳述した。 父の河津祐通の仇、工藤祐隆を、曽我祐成…
とある少年の特異な体験談(1820年頃)が世間の注目を集めていた。~オイラは、神仙界に自由に行き来できる不思議な老人(仙人?) と出会い、その老人に連れられてあっちこっちと飛行し、やがて 常陸の岩間山へ飛ぶや、その山中で四年間にわたって諸武術・ 書道・祈祷術
こんにちは!トヨさんです。 本日は漢詩を紹介していきます。 第3弾は、李白(りはく)の「峨眉山月の歌(がびさんげつのうた)」について見ていきましょう! 1.李白 李白は唐中期、日本で言う飛鳥時代後期から奈良時代に生き、杜甫(とほ)と並んで中国詩史上最大の詩人と言われています。 しかし、この評価は(多くの文芸者の例にもれず、)彼ら2人の生存中からのものでは必ずしもありませんでした。 李白は、後の世代の詩人達に認められ、賞賛を受けることによって、今日の評価が確立されてきたのです。 2.詩の舞台 その賞賛の中でも、特に有名な詩が「峨眉山月の歌」。 この詩の舞台は、四川省南部に聳え立つ峨眉山です。 峨…
呉が、舒鳩を楚から離反させようとしたが、舒鳩の君主は、離反の事実はないと、康王に弁明した。 康王は、舒鳩を攻撃しようとしたが、蔿子馮の諫めで、攻撃を止めた。…
たまたま名古屋城を訪ねる機会を得た筆者は、ひょっこりこんなことに 気が付いてしまいました。 ~尾張人でありながら、名古屋城なんてメッチャの久しぶりじゃん~ 折にふれ、取り上げられていた名古屋城敷地内の復元「本丸御殿」。 その一般公開が、何年も前の2018年にはすでに始まっていたのに、筆者の 訪問が…
繰り返しになるが、源義朝には、九人の息子がいた。 義平、朝長、頼朝、義門、希義、範頼、全成、義円、義経である。 長男の義平、次男の朝長は、平治の乱によって、…
1809年4月19日の夜、ダヴー元帥は、オーストリア軍の撤退時、ニーダーバイエルンのトイギ及び、ハウゼン村の中間地点において、オーストリア軍を攻撃し、勝利を…
源頼朝は、曽我時致の言葉を聞いて、「天晴れ、男子の手本よ。本当は、頼朝に恨みなど、抱いていないのに、見苦しい様を見せまいと思って、申したのであろう」と時致を…
「火事と喧嘩は江戸の華」という言葉があるように、江戸時代における 江戸の町は頻繁に大きな火災を経験しています。 この言葉は第四代将軍・徳川家綱時代の老中首座(大老)・酒井忠清 (1624-1681年)の発言がその語源とする説もあるようで、それによれば、 度重なる大火の発生にすっかりアタマにきちゃった老中・酒井が、
日本人が大好きなお芝居ということなら、元禄赤穂事件をモデルにした「忠臣蔵」は必ずその上位にランクインすることだろうが、お芝居の方が有名になりすぎてしまい、史実の方はいささか影が薄い。それは、一般的には「殿中刃傷事件」(1701年)とその後に発生した「吉良邸討
紀元前588年には、楚の捕虜となっていた、晋の大夫の智罃を、捕虜交換によって、晋へと返すことになった。 この時、共王は、智罃に対して、幾度かの質問をしたが、…
長州の若者に種を撒き、実を実らせた「吉田松陰」 今回は、山口県萩市にある「松陰神社」とその境内にある史跡をお届けします。 昨年も紹介したことがあるのですが、何度来ても新鮮な気持ちになれる場所なので
曽我時致が、五郎丸に捕まると、大見小平次が、祐成討死及び、時致生け捕りの報告に、頼朝の許に来た。 頼朝は、「その若造をお前に預ける」と命じ、小平次は、時致を…
ネット徘徊をしていた折、ちょっと気になる像に遭遇してしまい、ついで のことにチョイとばかり深入りしてみました。 下の像がそれで、モデルの人物は「空也上人」と案内されています。 聞き覚えがあるようなないような、筆者にとっては微妙なお名前だったこと もあって、その「空也上人」のプロファイルから探ってみることにすると、
1809年4月17日、ナポレオンは、ドナウヴェルトから、フランス大陸軍に向け、次の布告をした。 「私は、雷の如く、迅速に到着した。これまでの我が軍の成功は、…
混乱の中、「松明を付けて、投げ出せ」との声が飛び、松明及び、火の付いた、蓑、笠が、投げ出された。 白日の様に、明るくなった中を進み出たのが、伊豆国の御家人、…
余祭の死後、余昧が、呉王となった。 紀元前527年、余祭は、死の間際に、季札に王位を継承させようとしたが、季札は、王位に就くことを拒んだ。 諸樊、余祭、余昧…
御家人達は、次第に事情を把握すると、曽我祐成、時致の兄弟に対して、相模国の住人、横山党の愛甲季隆が、飛び掛かって来た。 『曽我物語』における、最大の見せ場と…
1809年4月9日、ティロルにおいて、愛国者のアンドレアス・へファーが、フランスに対して、蜂起した。 へファーの背後には、オーストリアに買収された、カプチン…
曽我兄弟は、工藤祐経の屋形に入ったが、祐経と王藤内の姿はなかった。 兄弟は、一瞬、呆然とするが、祐成は、「鎌倉殿の警護のため、侍所が近い。恐らく、宿直に参上…
~白地の中央に太陽(日章)の赤丸をあしらった日章旗(日の丸)を、 いつ誰が日本の国旗と決めたのかしらん?~突然にこんな質問をぶつけられたとしたら、「日の丸弁当」の方ならともかくも、まあ大抵の方は即答できるものではありません。そこで頭の中を少々クールにした
日本から戻り早や2週間になろうとしています。 ほんと早い!体調も元に戻り、お絵描きの方も再開しつつありますが、ブログはもう1回、日本での様子を書かせて下さいね。というのも、メトロポリタン美術館展の後行った場所について、shinkaiにとっては「大回顧展」とも言える記憶を引き出し、ここ暫く「明治の最後」にどっぷりと浸かっておりまして・・! はい…
先週グループ旅行で訪門したオルタ・サン・ジューリオ、そしてイーゾラ・サン・ジューリオ・サン・ジューリオ島のご案内を。 生憎の曇り空だったのですが、新緑の萌え出す緑色が美しく、気温も肌寒くはなく、大変素晴らしい旅行となりました。
~第1、第2希望校だった高校の教科書~ 当時は違いましたが、今は逆転しました。母校の高校に心から感謝します。 自分自身の性格や学力実態に最も合った適切な進路であり、現在も生活や仕事で生かされていることがいくつもあります。 15歳当時の僕はそうではありませんでした。進学した第一高校(仮称)は僕の第3希望だったからです。 結論を先に言えば、この15歳の僕は学歴差別の意識から解放されていなかったため...
王子趙車が鄻に入って反乱を起こしたが、陰不佞がこれを撃破した。 紀元前504年には、周の儋翩が、王子朝の残党を率いて、鄭人の協力を得て、成周で反乱を起こした…
曽我十郎祐成は、弟の五郎時致を屋形に戻らせると、屋形巡りを装い、工藤祐経の様子を探りに行った。 しかし、幕の隙間から、覗いていると、祐経の郎党に見つかり、屋…
1805年12月2日のアウステルリッツの戦いの後、12月26日、プレスブルク条約が、締結されたことは、既に述べた。 オーストリアは、敗北の復讐を望み、対抗策…
金関丈夫の『考古と古代――発掘から推理する』(法政大学出版局)を読んでの気付き。この本は、考古学・人類学・民族学を専攻し、発掘調査も行う金関が、様々な媒体に発表した、おもに考古学に関する論考をまとめたものである。その中の一章「髑髏盃」で、インド洋アンダマン島のオンギ族や、台湾の高砂族、ヒマラヤ地方などに、人の骨を加工して様々な道具を作る「人骨文化」があるとして、次のような具体例を挙げている。また、人の大腿骨や脛骨で、笛をつくって、祭りのときに演奏したりする。(中略)この、人骨で笛をつくる風習は、しかし、この地方だけではなく、近東からアフリカにまでひろがっていて、例えば古代エジプト人は、人間の脛骨で笛をつくり、これを、その骨の名をとって、シビと呼んだ。これは今の脛骨の学名であるラテン語のチビアと同語であり、またそ...骨と音楽と呪術
曽我兄弟は、箱根権現の別当坊を辞すると、獄七里、山七里、野七里の箱根古道を超え、伊豆の国府、三嶋に到着した。 二人は、三嶋大社に参詣して、笠懸を七番ずつ、射…
「関ヶ原の戦い」(1600年)の折の出来事です。いささかの手違いがあって、心ならずも 西軍にその身を置くことにしたのが薩摩国・島津義弘(1535-1619年)でした。戦闘についての作戦もそれなりに具申しましたが、ただ西軍指揮官である石田三成(1560-1600年)はそれに賛意を
在野の研究者の歴史書から学んだ結果をまとめたもの
日野市および周辺の地域情報や歴史にまつわる話を取り上げています。
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親鸞
令和3年(2021年)の大河ドラマ「青天を衝け」を応援しましょう。
ガイドブックに載っていない、ローマの観光スポットを歴史とともに語る。
夫余(ふよ、朝鮮語: 부여、拼音: Fúyú、正字体:夫餘)は、現在の中国東北部(満州)にかつて存在した民族およびその国家。扶余(扶餘)[1]とも表記される。 https://ja.wikipedia.org/wiki/夫余
町奉行・寺社奉行・公事方勘定奉行、自身番屋・辻番・木戸番、火付盗賊改、関東取締出役、目明し・岡っ引き・手先、囚獄、評定所などに関するトラバ用テーマです。
私が書き残しておかなければ、永遠に埋蔵金が発掘されないであろうと思い、気力と体力のあるうちに30数年前に埋蔵金の研究をしたことを記載する。当時、埋蔵金発掘番組が世間を騒がしていたことを記憶されている方もおられると思うが、日本トレジャーハンティングクラブの代表として、TV局に番組の修正を依頼した経緯なども付け加えておく。
戦後GHQは昭和三年から昭和二十年までに刊行されていた書物のうち7769点を指定し、本屋などで流通していた書籍を没収・廃棄し、戦後の日本人に読めなくしました。 どのような書籍が没収されていたかを調べると、軍国主義的な書籍よりも圧倒的に多いのは、戦勝国にとって都合の悪い史実などが書かれた本であることが分かります。 GHQ焚書は、「国立国会図書館デジタルコレクション」で、3割程度の本がネットで公開されています。実際に読んでみると、戦後詳しく知らされてこなかった史実などが満載です。