在野の研究者の歴史書から学んだ結果をまとめたもの
1件〜50件
出雲国風土記 飯石郡 『狭長社(狭長神社)』
ちょっと寄り道...ヤマタノオロチ伝説を巡る旅 『釜石』
あの世とこの世の境界線~出雲国風土記 意宇郡 『伊布夜社(揖夜神社)』と黄泉比良坂
ちょっと寄り道...ヤマタノオロチ伝説を巡る旅 『尾留大明神旧社地』
出雲国風土記 出雲郡 『杵築大社(出雲大社)』 番外編
出雲大社荒垣外摂末社を徹底解説!~出雲国風土記 出雲郡 『杵築大社(出雲大社)』 荒垣外摂末社編
全国の神々が集う!~出雲国風土記 出雲郡 『杵築大社(出雲大社)』 本殿・拝殿編
出雲国風土記 出雲郡 『加毛利社(加毛利神社)』
出雲国風土記 飯石郡 『多倍社(多根神社)』
出雲国風土記 飯石郡 『日倉社(日倉神社)』
出雲国風土記 意宇郡 『佐久多社(嘉羅久利神社)』
出雲国風土記 出雲郡 『杵築大社(出雲大社)』 境外摂末社編
出雲国風土記 大原郡 『船林社(船林神社)』
出雲国風土記 意宇郡 『賣豆貴社(賣豆紀神社)』
出雲国風土記 大原郡 『宇乃遲社(宇能遅神社)』
「西山なる御寺」のモデルとされる御室仁和寺(2)
【大河ドラマアンコール】篤姫の次は?歴代作品一覧と 2025年以降の予想。
京都文化博物館「近衞家 王朝のみやび 陽明文庫の名宝14―御堂関白記と源氏物語」
「西山なる御寺」のモデルとされる御室仁和寺(1)
【光る君へ】第44話感想考察・あらすじ「望月の夜」|望月の歌の「このよ」とは世なのか夜なのかを考察
遂に「望月の歌」の描写!?大河ドラマ「光る君へ」・第44回の感想
竹千代ゆかりの小梳神社
NHK 光る君へ に、ツッコミたい(というか感想?) 11/17
沼津の大泉寺(3)境内を散策
望月の歌が詠まれた土御門邸での宴
一条天皇・三条天皇の火葬塚~三条天皇北山陵
再放送のドラマは何回でも観れる
為時が出家した三井寺
藤原隆家と大宰府
比叡山延暦寺(3)出家した道長の三男・藤原顕信
范蠡は、同じく、勾践の家臣、文種に手紙を書き、「狡兎死して走狗烹られ」を説くと、更に、「越王の容貌は 長頸烏喙(首が長くて口がくちばしのようにとがっている)…
1810年2月16日、ウィーンにおいて、2月7日のナポレオン及び、マリー・ルイーズの婚姻契約が、批准された。 2月23日、ナポレオンは、未だ、会ったことのな…
呉の滅亡を招いた、傾国の美女である、西施は、出身地の苧蘿村に「施」の姓の家族が、東西二つの村に住んでいて、彼女は、西側の村に住んでいたため、西村の施との由来…
1809年12月26日、ロシア皇帝、アレクサンドル1世は、自身の妹のアンナ大公女と、ナポレオンとの婚姻について、ポーランド王国を再興しないことを約束する、条…
越王勾践は、范蠡及び、文種の補佐を受け、着々と越の国力を増大させ、呉王房への復讐の機会を伺っていた。 伍子胥、孫武がいなくなり、夫差は、中原進出にばかりに目…
タレーランは、ナポレオンの新「皇后」問題が、自分の復権の契機になると考えていた。 そのために、盟友のメッテルニヒと共に、マリー・ルイーズの擁立を画策したので…
紀元前485年、呉王夫差は、水軍を率い、斉を攻撃した。 当時の斉は、魯に亡命していた、悼公の殺害の直後であったが、斉軍は、呉軍を撃退した。 晋の宰相、趙鞅は…
シェーンブルンの和約後、ナポレオンは、オーストリアにウィーンを返還して、パリに帰還した。 既に、ナポレオンは、自身の生涯の私生活にとって、最大の決意を固めて…
伍子胥が、闔閭に夫差を太子にするように進言したのは、夫差の兄弟である、公子子山との後継者争いを防ぐためであった。 夫差は、闔閭が、「勾践が、父を殺したことを…
スールト元帥の撤退後に、クロード・ヴィクトル=ペラン元帥率いる、スペイン駐留のフランス軍、2万3千人が、ポルトガルに進軍した。 ウェリントン公爵は、スペイン…
秦の哀公は、「楚は無道だが、このような忠臣がいるのであれば、滅ぼすべきでない」と、申包胥の様子に心を打たれ、援軍の要請に応じ、戦車を五百台投入して、楚に向か…
1809年9月24日、ナポレオンは、オーストリア皇帝、フランツ1世に対し、退位して、ヴュルツブルク大公爵フェルディナンド3世に譲位するように要求した。 フラ…
沈尹戌は、楚軍が敗れたことを知り、兵を救うため、まず、夫概と戦い、勝利を治めた。 しかし、楚軍は、呉軍に囲まれて、負傷したため、沈尹戌は、勝つ見込みがないと…
第五次対仏大同盟の戦役開始後に、オーストリア軍は、ワルシャワの占領に成功した。 ワルシャワ公国軍司令官、ユゼフ・ポニャトフスキーは、逆に、ガリツィアに侵攻す…
紀元前512年、孫武は、呉王闔閭に将軍に任じられ、楚国の衛星国、鍾吾国及び、徐国を攻略した。 闔閭は、勝利に乗じて、楚国に進攻しようとしたが、孫武は、「楚は…
1809年7月6日、カール大公は、弟のヨハン大公の迅速な行軍を要求する、両翼包囲を計画した。 この時、ヨハン大公は、既に、戦場の東、数kmの地点にいた。 オ…
孫武は、斉国の大夫で、後に太公望の子孫の姜氏に代わって、斉公となる、嬀姓の田氏の出身と言われるが、定かではない。 孫武は、若年から、兵書に親しみ、黄帝、四帝…
1809年6月14日、ヨハン大公の率いる、オーストリア軍は、ラープの戦いにおいて、フランス大陸軍のウィーン近郊の最高司令官、ウジェーヌ及び、マクドナルドに敗…
村の子供同士の喧嘩が、親同士の喧嘩に発展して、呉の村の親が負けて、家を焼かれた。 呉の村を統治している、郡主は、警備兵を出して、楚の村を攻め立てた。 この報…
知る人ぞ知る「奇門遁甲」。 方位術として用いると効果が高く、吉運をゲットしたり凶運を避けるために使う人が少しずつ増えています。 この奇門遁甲ですが、「いつから使われ、いつ完成したの?」など、謎の部分が多くあります。 そこで、その歴史を簡単にまとめてみました。
1809年5月22日、オーストリアのローゼンベルク軍団による、エスリンクへの攻撃は、サン・ティレール師団の増援を受けた、ランヌ元帥によって、撃退された。 中…
伍奢は、荘王に仕えた、伍挙の息子である。 前述の通り、伍挙は、荘王の鳴かず飛ばずの時代に、最初に諫言をした、名臣である。 平王は、荘王以来の名族、伍挙の息子…
1809年5月13日、カール大公は、ナポレオンのウィーンの占領を気にすることなく、崩壊した、オーストリア軍をドナウ川北岸に集中させ、再編を行った。 そして…
呉が、舒鳩を楚から離反させようとしたが、舒鳩の君主は、離反の事実はないと、康王に弁明した。 康王は、舒鳩を攻撃しようとしたが、蔿子馮の諫めで、攻撃を止めた。…
1809年4月19日の夜、ダヴー元帥は、オーストリア軍の撤退時、ニーダーバイエルンのトイギ及び、ハウゼン村の中間地点において、オーストリア軍を攻撃し、勝利を…
【面白い!】歴史を彩る物語の達人 - 今村翔吾の世界「平家物語」
建礼門院徳子の歌から平家物語と中世日本の世界観を覗き見る ~京都大原・寂光院その他
#852 レビュー 『田辺聖子の古典まんだら 下』田辺聖子
秋が深まっていきます。
川本喜八郎人形ギャラリー☆NHK人形劇「平家物語」①
アニメ平家物語(2022冬季)
須磨寺の平敦盛と熊谷直実と、敦盛の笛と散りゆく紅葉
平家物語は誰が何の目的で書いたのか?また、どのようにして流布したのか?
#7245 埋れ木の花さく事もなかりしに身のなる果ぞ悲しかりける
おとなの人形劇『平家物語』と仏像とウォーキング
異国編17/識字その種蒔きと実り
#232 TVアニメ『平家物語 第三話「鹿ケ谷の陰謀」』
#233 TVアニメ『平家物語 第四話「無文の沙汰」』
#234 TVアニメ『平家物語 第五話「橋合戦」』
#235 TVアニメ『平家物語 第六話「都遷り」』
紀元前588年には、楚の捕虜となっていた、晋の大夫の智罃を、捕虜交換によって、晋へと返すことになった。 この時、共王は、智罃に対して、幾度かの質問をしたが、…
1809年4月17日、ナポレオンは、ドナウヴェルトから、フランス大陸軍に向け、次の布告をした。 「私は、雷の如く、迅速に到着した。これまでの我が軍の成功は、…
余祭の死後、余昧が、呉王となった。 紀元前527年、余祭は、死の間際に、季札に王位を継承させようとしたが、季札は、王位に就くことを拒んだ。 諸樊、余祭、余昧…
前回に引き続き、金関丈夫の『考古と古代――発掘から推理する』(法政大学出版局)から。この中の一章「海南島の黎族」で、中国の少数民族、海南島に住む黎族(リー族)の、独特な文化が紹介されている。特に僕の目を引いたのは、靴に関する風習。女の子が十四歳くらい、つまり見るものを見るころになると、両親は住家をはなれた畑の中に、娘のための小屋をつくってやる。(中略)日がくれると、村の若い衆がこれを訪問する。女よりさきにはいって待っている。一番乗りの男に、その夜の優先権がある。こうした交際でできた幾人かのボーイフレンドの中から、結婚の相手をきめる方法がおもしろい。娘が下駄の片方をつくる。ボーイたちもそれぞれ片方の下駄をつくる。それを合せてピッタリとサイズの合うものが選ばれる。歌合せでなくて、下駄合せだ。(中略)この下駄合せの方...靴と婚姻と二足歩行
1809年4月9日、ティロルにおいて、愛国者のアンドレアス・へファーが、フランスに対して、蜂起した。 へファーの背後には、オーストリアに買収された、カプチン…
王子趙車が鄻に入って反乱を起こしたが、陰不佞がこれを撃破した。 紀元前504年には、周の儋翩が、王子朝の残党を率いて、鄭人の協力を得て、成周で反乱を起こした…
1805年12月2日のアウステルリッツの戦いの後、12月26日、プレスブルク条約が、締結されたことは、既に述べた。 オーストリアは、敗北の復讐を望み、対抗策…
金関丈夫の『考古と古代――発掘から推理する』(法政大学出版局)を読んでの気付き。この本は、考古学・人類学・民族学を専攻し、発掘調査も行う金関が、様々な媒体に発表した、おもに考古学に関する論考をまとめたものである。その中の一章「髑髏盃」で、インド洋アンダマン島のオンギ族や、台湾の高砂族、ヒマラヤ地方などに、人の骨を加工して様々な道具を作る「人骨文化」があるとして、次のような具体例を挙げている。また、人の大腿骨や脛骨で、笛をつくって、祭りのときに演奏したりする。(中略)この、人骨で笛をつくる風習は、しかし、この地方だけではなく、近東からアフリカにまでひろがっていて、例えば古代エジプト人は、人間の脛骨で笛をつくり、これを、その骨の名をとって、シビと呼んだ。これは今の脛骨の学名であるラテン語のチビアと同語であり、またそ...骨と音楽と呪術
紀元前561年、霊王は、斉に王后を出すよう求めた。 紀元前552年、晋の欒盈が、成周を通過した際、成周の西郊で、略奪に遭った。 欒盈が、周の行人に訴えると、…
1809年1月29日、ナポレオンに罵倒された、翌日に、タレーランは、オーストリアの大使公邸を密かに訪れ、大使のメッテルニヒと会見した。 タレーランは、メッテ…
韓厥は、韓氏の出身で、その祖は、晋の文侯の弟、桓叔の庶子、韓万である。 韓原の地に封じられたため、韓氏を称したが、元は、周王室と同じく、姫姓であった。 韓氏…
1809年1月23日、ナポレオンは、パリに帰還した。 ナポレオンは、「天才」を自負し、自分を万能と信じていたが、そのナポレオンが、軍人を除けば、才能を認めて…
最近長女の親しい友達が陸軍に入りました。 と一言で言いきっておりますが、最近私もそのからくりについて読んでみてやっとわかった軍隊システム。 2005年まではイ…
ローマ郊外フラスカーティにある館。Villa Falconieri。 カステッリ・ロマーニ丘陵地帯には、Villa Tuscolana、Villa Aldob…
紀元前593年、士会は、荀林父の後を受けて、晋の正卿・中軍の将に就任する。 その際、士会の手腕を恐れて、盗賊が、皆、秦に逃亡したと言われる。 同年冬に、周の…
青く晴れ渡った空の下、強風に震えながら親友のロシア人とマリーノ市に出かけました。 マリーノと言えば、カステッリ・ロマーニの中で残念ながら知名度は低いですが、深…
ナポレオンは、20万人のフランス帝国軍を率いて、スペインに侵攻すると、瞬く間に、スペインの元正規軍を粉砕し、スペインを再占領した。 以降、スペイン人の組織的…
邲の戦いは、前述の通り、荀林父、士会の反対に関わらず、先縠が、独断で兵を動かした。 楚の荘王と令尹、即ち、宰相の孫叔敖は、鄭を降した後に晋軍と戦うことに意義…
フランス帝国の大陸軍は、エスピノザ及び、サラゴサの会戦において、大勝利を治めて、スペイン軍を徹底的に叩き潰した。 更に、フランス軍は、首都のマドリードの前面…
鄭の襄公は、殷の微子啓が、周に降伏した際の故事に倣って、諸肌を脱いで、両手を縛り、羊を引く礼によって、荘王を迎えた。 楚の群臣達は、鄭を滅ぼすことを勧めたが…
1808年10月29日、ナポレオンは、20万に及ぶ、のフランス帝国の大陸軍を率いて、スペインへと出発した。 11月5日、エブロ川北岸にいた、兄のスペイン国王…
周の使者の王孫満は、荘王の問いに怯む事なく言った。 問題は、鼎の軽重ではなく、徳の有無である。 周の国力は、衰えたとはいえ、鼎が、未だに、周室の許に有るとい…
1808年9月5日、フランス皇帝のナポレオン及び、ロシア皇帝のアレクサンドル1世の会見が、ドイツ中部の都市、エルフルトにて、行われることが、決定した。 エル…
穆王は、即位すると、太子時代の邸宅、財宝と愛妾等を潘崇に与えて、太師に任命して、更に、近衛軍の長官も兼務させた。 穆王は、周辺諸国を次々と滅ぼし、容赦ない略…
在野の研究者の歴史書から学んだ結果をまとめたもの
日野市および周辺の地域情報や歴史にまつわる話を取り上げています。
日本100名城・続日本100名城に関する記事なら何でもOKです
親鸞
令和3年(2021年)の大河ドラマ「青天を衝け」を応援しましょう。
ガイドブックに載っていない、ローマの観光スポットを歴史とともに語る。
夫余(ふよ、朝鮮語: 부여、拼音: Fúyú、正字体:夫餘)は、現在の中国東北部(満州)にかつて存在した民族およびその国家。扶余(扶餘)[1]とも表記される。 https://ja.wikipedia.org/wiki/夫余
町奉行・寺社奉行・公事方勘定奉行、自身番屋・辻番・木戸番、火付盗賊改、関東取締出役、目明し・岡っ引き・手先、囚獄、評定所などに関するトラバ用テーマです。
私が書き残しておかなければ、永遠に埋蔵金が発掘されないであろうと思い、気力と体力のあるうちに30数年前に埋蔵金の研究をしたことを記載する。当時、埋蔵金発掘番組が世間を騒がしていたことを記憶されている方もおられると思うが、日本トレジャーハンティングクラブの代表として、TV局に番組の修正を依頼した経緯なども付け加えておく。
戦後GHQは昭和三年から昭和二十年までに刊行されていた書物のうち7769点を指定し、本屋などで流通していた書籍を没収・廃棄し、戦後の日本人に読めなくしました。 どのような書籍が没収されていたかを調べると、軍国主義的な書籍よりも圧倒的に多いのは、戦勝国にとって都合の悪い史実などが書かれた本であることが分かります。 GHQ焚書は、「国立国会図書館デジタルコレクション」で、3割程度の本がネットで公開されています。実際に読んでみると、戦後詳しく知らされてこなかった史実などが満載です。