どうも、soul jemです。 さて、、、 現在、東京都の日野で新選組巡りをしている私ですが、、、 なにぶん後が詰まっておりますもので、とっとと前回の続きに参りましょう、、、 新選組ファンの方々にとって、少しでも参考になれば幸いです、、、 それではレッツゴ〜〜〜!! 新選組が過ぎる街 日野 さて、、、 前回の井上源三郎資料館を「ただ外から眺めるだけ、」というシュールな展開を終えた私は、再び大通りに戻ってまいりました、、、 この通りは甲州街道ということです、、、おそらく日野のメイン通りなのでしょう、、、車通りは多いのですが歩いている人はまばらな様子、、、 すると、こんな石標が、、、なるほど、ここ…
松蔭、江戸に戻る 長崎でロシア船に密航するのに失敗した松蔭は翌年の春に来るというペリーの米国艦隊に密航しようと江戸に戻ることにする。 松蔭が江戸に戻ったのは嘉永6年12月27日(1854年1月25日)であった。 友と弟子と師 江戸に戻った松蔭は友人の宮部鼎蔵と弟子の金子重輔と共に過ごす。松蔭は金子と二人で密航を考えていたが、宮部鼎蔵はギリギリまで反対していた。 しかし、松蔭の決意が固いと知ると見送りの宴を開いて送り出した。 師の佐久間象山は松蔭の決意を称えて詩を送った。 こうして嘉永7年3月5日(1854年4月2日)に松蔭と金子重輔は江戸を出て黒船に向かう。
江戸剣術修行 坂本龍馬は嘉永6年4月に江戸に剣術修行に出てきた。北辰一刀流の千葉定吉の道場である。 道場には定吉の他に長男・重太郎と三人の娘(その内一人は龍馬の婚約者と言われる佐那)がいた。 黒船来襲 江戸に出てきてわずか2月ほどで龍馬は黒船騒ぎに遭遇する。 土佐藩からの命で品川付近の警備にあたっていたそうだが、ペリーは6月11日には江戸湾深くに進入してきたこともあり龍馬が黒船を直接見たであろうことは想像できる。 この直後に家族に戦となったら異人の首を取ると手紙に書いているが、当時の龍馬は純朴な攘夷青年であったのだろう。 佐久間塾 嘉永6年12月1日に龍馬は佐久間象山の..
クリミア戦争 1853年10月にロシアとオスマン帝国の間で戦端が開かれた。クリミア戦争の始まりである。 この戦争にイギリスとフランスが介入して来るという話は以前からあり、開戦前であったプチャーチンの航海中にもイギリスの邪魔があった。 補給と退避 中立地帯である長崎もプチャーチンらにとって安全とも言えず、補給の必要性もあり香港に向かうことになる。川路らの使節団が長崎に到着する前にプチャーチンは長崎を去っていった。 ペリー 香港へ避難したプチャーチンはそこでペリー艦隊と遭遇する。イギリスの妨害で補給が困難であったプチャーチンはペリーに石炭を融通してもらうように頼み、日本との交渉..
新緑が日に日に力強くなってきています。母が末期がんに侵されていることがわかり、急遽Uターンすることを決意し、佐賀に帰って来たのは1994年4月末でした。あれからちょうど30年になります。色々な人と出会い、色々な事がありました。一見脈絡もないようなことが、いつの
全国菊池の会事務局長。https://zenkoku-kikuchinokai.jp/ 市川ジャズ会長。90年バンド『ZIPANG』を結成(15年間休眠中)。新自由主義社会の経済政策は格差社会を作り、資本主義社会の破滅へ。
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