徳川家康ゆかりの大恩寺(2)
#268『三河物語』を読むその9 「八代目 松平広忠」前編~『どうする家康』を楽しむため
#269『三河物語』を読むその10「八代目 松平広忠」後編~『どうする家康』を楽しむため
徳川家康ゆかりの大恩寺(1)
岡崎の龍海院(1)是之字寺
隣松寺(1)家康が戦勝祈願した稲荷社
岡崎の大林寺(1)松平廟
歴史チップス2023年7月号裏切味
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 12.続・松平広忠
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 11.松平広忠
家康が父の菩提を弔うため創建した松應寺
家康の父・松平広忠ゆかりの史跡めぐり「小豆坂古戦場跡」「大林寺」「松應寺」
家康公お手植えの名木のある善立寺
三河一向一揆ゆかりの地(7)山中八幡宮 その壱
家康の父・広忠が帰依していた法性寺
#204 第13回「氏真」感想~大河ドラマ『どうする家康』
近江美濃境目で要塞化された寺・弥高寺 その2 <本堂跡~大門跡>
近江美濃境目で要塞化された寺・弥高寺 その1 <本堂跡~大門跡>
#308 金ヶ崎と姉川の戦いを『三河物語』から見る ~『どうする家康』を楽しむため
近江美濃境目の城・上平寺城 その2 <主郭>
信長と家康の同盟、その前に”織田・浅井同盟”あり
#4007 けふもまた尋ね入りなむ山里の花に一夜の宿はなくとも
山行記 11 小谷城 お市の方
虎御前山城から日本100名城の小谷城を攻め上がってみたラン 起点の虎姫駅では阪神のアレおめでとう
大河ドラマ『どうする家康』で輝くお市の方~戦国時代の女性の活躍に迫る
徳川家康(6)燃える土の巻!浅井長政、覚悟の小谷城決戦…お市と茶々の運命は?
賤ヶ岳(しずがたけ)滋賀県
浅井家のジオラマと浅井長政&お市の像
浅井家の祈願寺・小谷寺
浅井三姉妹を匿ったという実宰院
長久手合戦を左右した家康の動きとは?家康本陣跡「色金山」と「御旗山」
家康を辿る城旅「岩崎城」!池田軍の奇襲"三河中入り"、戦いの帰趨を握った岩崎城の動きとは?
家康を辿る城旅「楽田城」!秀吉、楽田城に入る…小牧山を包囲する砦群
信長ゆかりの小牧山城へ行ってきました
家康を辿る城旅「小牧山城」!決戦迫る…家康が本陣を敷いた信長ゆかりの堅城
#357 第31回「史上最大の決戦」感想~大河ドラマ『どうする家康』
#367 第32回「小牧長久手の激闘」感想~大河ドラマ『どうする家康』
#386 小牧・長久手の戦い from『三河物語』~『どうする家康』を楽しむため
徳川家康(10)無相門の巻!家康と秀吉がついに激突「小牧・長久手の戦い」
#410 難航する秀吉と家康の和議~『松平家忠日記を読む』から見る
犬山城下町散歩
パクリ編20/過ぎたるものが二つあり
どううする家康と名古屋観光2
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 49.徳川家康・三十七
唯一の両雄直接対決
山梨県市川三郷町にある弓削神社の情報を発信しています。日本武尊が東征の帰途、副将軍・大伴武日に甲斐市川荘を賜りました。大伴武日の徳を慕った民がその館跡をお祭りしたのが弓削神社です。
昔日のAMF Sea-Masterです。「夢有・無有」夢は夢としてあり、無も有の対辺としてある。また、有が在ると想うのは夢より儚きこと幻の如く、人生・世界はに常なるものなどは無い。
京都市下京区の渉成園は、「お東さん」と京都市民に親しまれている東本願寺の庭園で、周囲に枳殻(からたち)が植えてあったことから枳殻邸とも呼ばれています。1641年、徳川家光によって現在の土地が寄進され、、1653年、本願寺第13代宣如上人の願いによって石川丈山が作庭。江戸時代の二度にわたる大火により建物はすべて類焼しましたが、明治初期に復興されました。四季折々の風情を楽しむことができ、国の名勝にも指定されてい...
悲田院は、奈良・平安時代に,身寄りのない貧窮の病人や孤児などを収容した公設の救護施設で、「悲田」とは慈悲の心で哀れむべき貧窮病者などに施せば福を生み出す田となるの意。聖徳太子が四天王寺に建てたと伝わっていますが、723年(養老7)奈良の興福寺に施薬院(せやくいん)とともに設けられたのが初見。光明皇后もまた施薬・悲田の二院を設けています。これを継承して平安時代には、平安京の東西二カ所に施薬院別院として東...
藤原氏の氏寺である奈良の興福寺は、天智天皇8年(669)藤原鎌足の夫人鏡女王(かがみのおおきみ)が、山城国山階(京都市山科区)に山階寺(やましなでら)を創建したのに始まり。天武天皇元年(672)大和国高市郡厩坂(うまやさか)(奈良県橿原市)の地に移して厩坂寺と呼ばれました。和銅3年(710)、平城遷都の際、藤原不比等の計画によって移されるとともに、「興福寺」と名付けられました。その後は、天皇家や藤原氏の手によって次...
静岡県焼津市に鎮座する焼津神社の創建は反正天皇4年(西暦409年)と伝えられています。日本武尊を焼津の守神としてお祀りをしたのが焼津神社のはじまりです。焼津神社付近では、古墳時代の集落跡という1,600年程昔の宮之腰遺跡が存在し、古くから人々が居住したことが知られています。室町時代に今川氏が駿河の国を治めていた頃、この地域は「入江荘(いりえのしょう)」とも呼ばれ、焼津神社はその地名から「入江大明神」とも称されてきました。境内にある江戸時代の灯籠には「入江大明神廣前」の文字が彫られています。今川氏や徳川家などの武家の信仰も厚く、また焼津地域の人々や漁業関係者から崇められています。現在の本殿は慶長8年(1603年)、徳川家康によって建てられたものです。家康は田中城を出て焼津の浜から出港し、久能山で鷹狩に勤しん...焼津市の徳川家康ゆかりの地(1)焼津神社
こんばんは~今日は実家へ行ったついでに、お惣菜を買いに、恵比寿ガーデンプレイスへ行きました。躑躅がキレイに咲いていましたウェスティンホテル側の断崖から垂れ下が…
京都市下京区の渉成園は、「お東さん」と京都市民に親しまれている東本願寺の庭園で、周囲に枳殻(からたち)が植えてあったことから枳殻邸とも呼ばれています。1641年、徳川家光によって現在の土地が寄進され、、1653年、本願寺第13代宣如上人の願いによって石川丈山が作庭。江戸時代の二度にわたる大火により建物はすべて類焼しましたが、明治初期に復興されました。四季折々の風情を楽しむことができ、国の名勝にも指定されてい...
皆さんこんにちは♫ 野鳥の子育ての季節を迎えて、新たにご訪問下さる方もいらっしゃいますので、お知らせ方々更新しますね。既にご存知の方にはしつこうてすみません。今年に入りブログを休止して、Youtubeにボチボチ短い動画をアップしています。うちのスズメとツバメは只
こんばんは~昨日の日曜は、次女に付き合って、映画「名探偵コナン」を観てきました次女はもう中学2年生なので。友達と行け!と、云ったんですけどね。映画へ誘えるよう…
悲田院は、奈良・平安時代に,身寄りのない貧窮の病人や孤児などを収容した公設の救護施設で、「悲田」とは慈悲の心で哀れむべき貧窮病者などに施せば福を生み出す田となるの意。聖徳太子が四天王寺に建てたと伝わっていますが、723年(養老7)奈良の興福寺に施薬院(せやくいん)とともに設けられたのが初見。光明皇后もまた施薬・悲田の二院を設けています。これを継承して平安時代には、平安京の東西二カ所に施薬院別院として東...
山梨県市川三郷町にある弓削神社の情報を発信しています。日本武尊が東征の帰途、副将軍・大伴武日に甲斐市川荘を賜りました。大伴武日の徳を慕った民がその館跡をお祭りしたのが弓削神社です。
乙女諸君向け・幕末創作サイトのブログ。 イラストや小説(名前変換)。資料として作成した史実年表など トリップ、逆ハー、恋愛、オリジナル及びIF要素 史実にうまく絡む様留意して創作しております。
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