2025年2月26日 多摩湖 その3(全3回)
2024年9月18日 多摩湖 その3(全3回)
2024年9月18日 多摩湖 その2(全3回)
2024年9月18日 多摩湖 その1(全3回)
2024年9月7日 多摩湖 その3(全3回)
2024年9月7日 多摩湖 その2(全3回)
#最近撮った写真は 多摩湖は暑い!
2024年7月7日 多摩湖 その3(全3回)
2024年7月7日 多摩湖 その2(全3回)
2024年7月7日 多摩湖 その1(全3回)
多摩湖と狭山公園:西武鉄道ローカル線の旅②
2024年6月15日 多摩湖 その3(全3回)
2024年6月15日 多摩湖 その2(全3回)
2024年6月15日 多摩湖 その1(全3回)
2024年5月29日 多摩湖 その3(全3回)
香港へ 浦賀を去ったペリー一行は沖縄を経由して香港へ向かった。 香港にて艦隊を再編成して翌年の春に日本へ向かうためである。 ロシアとの共闘 香港で待つペリーのところへプチャーチンが共闘を求めて来た。 だが、単独での交渉に自信を持っていたペリーは燃料の石炭をあげて追い返す。 アメリカの政変 悠々と準備を進めていたペリーだったが、そこにアメリカでの政変の知らせが届く。日本行きを命じたフィルモア大統領が失脚して日本行きを反対していたピアース大統領が就任していた。実は浦賀に着いた時には既に大統領は交代していたのだ。 この政変によっていつ帰還命令が出されるのか分からなくなったペリ..
島津斉彬 薩摩藩のお家騒動で40歳を過ぎてようやく藩主になった島津斉彬は藩の富国強兵に努め、洋式造船、反射炉・溶鉱炉の建設、地雷・水雷・ガラス・ガス灯の製造などの集成館事業を興した。 阿部正弘とも親交が深くペリー来航で斉彬を必要とした阿部は参勤交代の次期を早めて江戸に呼び寄せた。 西郷吉之助 薩摩の下級武士であった西郷吉之助は斉彬が藩主になって藩内から意見を求めるようになると意見書を書く。それは藩政批判の色が濃い過激な内容だった。 しかし、斉彬は西郷の一本気な性格に興味を抱き江戸へ連れて行く供に指名する。 江戸についた西郷はお庭番として身分が低いながらも斉彬の側近として取り立て..
松蔭、江戸に戻る 長崎でロシア船に密航するのに失敗した松蔭は翌年の春に来るというペリーの米国艦隊に密航しようと江戸に戻ることにする。 松蔭が江戸に戻ったのは嘉永6年12月27日(1854年1月25日)であった。 友と弟子と師 江戸に戻った松蔭は友人の宮部鼎蔵と弟子の金子重輔と共に過ごす。松蔭は金子と二人で密航を考えていたが、宮部鼎蔵はギリギリまで反対していた。 しかし、松蔭の決意が固いと知ると見送りの宴を開いて送り出した。 師の佐久間象山は松蔭の決意を称えて詩を送った。 こうして嘉永7年3月5日(1854年4月2日)に松蔭と金子重輔は江戸を出て黒船に向かう。
日米和親条約 嘉永7年3月3日(1854年3月31日)、日米和親条約が結ばれた。 条約の主な内容は以下のとおりである。 ・アメリカに物資を補給(薪水給与)するために下田、函館を開港。 ・漂流民の引渡し。 ・アメリカ人居留地を下田に設定する。 ・領事をおくことが出来る。 ・アメリカを最恵国待遇とする。 これにより250年における幕府の鎖国政策は終わりを告げたのである。
「歴史ブログ」 カテゴリー一覧(参加人数順)