No.005【万世一系を実現した、藤原氏の内紛】百弐拾七
No.005【万世一系を実現した、藤原氏の内紛】百弐拾六
No.005【万世一系を実現した、藤原氏の内紛】百弐拾五
No.005【万世一系を実現した、藤原氏の内紛】百拾参
No.005【万世一系を実現した、藤原氏の内紛】百拾
No.005【万世一系を実現した、藤原氏の内紛】百六
No.005【万世一系を実現した、藤原氏の内紛】百五
87歳で死去「道長の娘・彰子」及ぼす強大な影響力 藤原実資から「狂乱の極み」と批判されたことも
後一條天皇 菩提樹院陵
藤原道長・和泉式部ゆかりの東北院
【光る君へ】#41 道長へのまひろの信頼も揺らいだか。彰子はゴッドマザーの片鱗を見せ始める
#4403 逢ふことも今はなきねの夢ならでいつかは君をまたは見るべき
#849 レビュー 『月と日の后 下』 冲方丁
NHK 光る君へ に、ツッコミたい 10/20
あなたの知らなくていい世界 ~ 安倍晴明と紫式部 in 京都御苑その他・後編
国境問題 日露の国境問題はこの会談から始まった。千島列島と樺太の領有権を双方とも争ったのだ。 この問題は結論が出ずに先送りされることになる。 通商・和親 プチャーチンはアメリカより先に条約を結びたかったが、川路の粘りにより今後に条約を結ぶときはロシアを優先するという言質をとるのみにいたる。 日プチャーチン長崎を去る 嘉永7年1月8日(1854年2月5日)、ロシア艦隊は長崎を出港する。
島津斉彬 薩摩藩のお家騒動で40歳を過ぎてようやく藩主になった島津斉彬は藩の富国強兵に努め、洋式造船、反射炉・溶鉱炉の建設、地雷・水雷・ガラス・ガス灯の製造などの集成館事業を興した。 阿部正弘とも親交が深くペリー来航で斉彬を必要とした阿部は参勤交代の次期を早めて江戸に呼び寄せた。 西郷吉之助 薩摩の下級武士であった西郷吉之助は斉彬が藩主になって藩内から意見を求めるようになると意見書を書く。それは藩政批判の色が濃い過激な内容だった。 しかし、斉彬は西郷の一本気な性格に興味を抱き江戸へ連れて行く供に指名する。 江戸についた西郷はお庭番として身分が低いながらも斉彬の側近として取り立て..
松蔭、江戸に戻る 長崎でロシア船に密航するのに失敗した松蔭は翌年の春に来るというペリーの米国艦隊に密航しようと江戸に戻ることにする。 松蔭が江戸に戻ったのは嘉永6年12月27日(1854年1月25日)であった。 友と弟子と師 江戸に戻った松蔭は友人の宮部鼎蔵と弟子の金子重輔と共に過ごす。松蔭は金子と二人で密航を考えていたが、宮部鼎蔵はギリギリまで反対していた。 しかし、松蔭の決意が固いと知ると見送りの宴を開いて送り出した。 師の佐久間象山は松蔭の決意を称えて詩を送った。 こうして嘉永7年3月5日(1854年4月2日)に松蔭と金子重輔は江戸を出て黒船に向かう。
日米和親条約 嘉永7年3月3日(1854年3月31日)、日米和親条約が結ばれた。 条約の主な内容は以下のとおりである。 ・アメリカに物資を補給(薪水給与)するために下田、函館を開港。 ・漂流民の引渡し。 ・アメリカ人居留地を下田に設定する。 ・領事をおくことが出来る。 ・アメリカを最恵国待遇とする。 これにより250年における幕府の鎖国政策は終わりを告げたのである。
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