香港へ 浦賀を去ったペリー一行は沖縄を経由して香港へ向かった。 香港にて艦隊を再編成して翌年の春に日本へ向かうためである。 ロシアとの共闘 香港で待つペリーのところへプチャーチンが共闘を求めて来た。 だが、単独での交渉に自信を持っていたペリーは燃料の石炭をあげて追い返す。 アメリカの政変 悠々と準備を進めていたペリーだったが、そこにアメリカでの政変の知らせが届く。日本行きを命じたフィルモア大統領が失脚して日本行きを反対していたピアース大統領が就任していた。実は浦賀に着いた時には既に大統領は交代していたのだ。 この政変によっていつ帰還命令が出されるのか分からなくなったペリ..
松蔭、江戸に戻る 長崎でロシア船に密航するのに失敗した松蔭は翌年の春に来るというペリーの米国艦隊に密航しようと江戸に戻ることにする。 松蔭が江戸に戻ったのは嘉永6年12月27日(1854年1月25日)であった。 友と弟子と師 江戸に戻った松蔭は友人の宮部鼎蔵と弟子の金子重輔と共に過ごす。松蔭は金子と二人で密航を考えていたが、宮部鼎蔵はギリギリまで反対していた。 しかし、松蔭の決意が固いと知ると見送りの宴を開いて送り出した。 師の佐久間象山は松蔭の決意を称えて詩を送った。 こうして嘉永7年3月5日(1854年4月2日)に松蔭と金子重輔は江戸を出て黒船に向かう。
江戸剣術修行 坂本龍馬は嘉永6年4月に江戸に剣術修行に出てきた。北辰一刀流の千葉定吉の道場である。 道場には定吉の他に長男・重太郎と三人の娘(その内一人は龍馬の婚約者と言われる佐那)がいた。 黒船来襲 江戸に出てきてわずか2月ほどで龍馬は黒船騒ぎに遭遇する。 土佐藩からの命で品川付近の警備にあたっていたそうだが、ペリーは6月11日には江戸湾深くに進入してきたこともあり龍馬が黒船を直接見たであろうことは想像できる。 この直後に家族に戦となったら異人の首を取ると手紙に書いているが、当時の龍馬は純朴な攘夷青年であったのだろう。 佐久間塾 嘉永6年12月1日に龍馬は佐久間象山の..
クリミア戦争 1853年10月にロシアとオスマン帝国の間で戦端が開かれた。クリミア戦争の始まりである。 この戦争にイギリスとフランスが介入して来るという話は以前からあり、開戦前であったプチャーチンの航海中にもイギリスの邪魔があった。 補給と退避 中立地帯である長崎もプチャーチンらにとって安全とも言えず、補給の必要性もあり香港に向かうことになる。川路らの使節団が長崎に到着する前にプチャーチンは長崎を去っていった。 ペリー 香港へ避難したプチャーチンはそこでペリー艦隊と遭遇する。イギリスの妨害で補給が困難であったプチャーチンはペリーに石炭を融通してもらうように頼み、日本との交渉..
『べらぼう』黄表紙の元祖といわれた恋川春町とはどんな人物だった?
恋川春町は、江戸中期の戯作者兼浮世絵師です。黄表紙(大人向けの風刺のきいた漫画)の先駆けといわれ、あの蔦重(蔦屋重三郎)を支えた1人でもあります。今回は、武士と戯作者・絵師という二足の草鞋を履きながら、多くの人気作を描き上げた恋川春町の生涯...
2025年の大河ドラマ「べらぼう」では、安田顕さんが演じる平賀源内。科学者でもあり、本草学者でもあり、絵師でもあり、発明家でもありとさまざまな才能を発揮した源内は、蔦屋重三郎だけでなく時の為政者・田沼意次とも交流があったとか。彼の言動は常人...
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