香港へ 浦賀を去ったペリー一行は沖縄を経由して香港へ向かった。 香港にて艦隊を再編成して翌年の春に日本へ向かうためである。 ロシアとの共闘 香港で待つペリーのところへプチャーチンが共闘を求めて来た。 だが、単独での交渉に自信を持っていたペリーは燃料の石炭をあげて追い返す。 アメリカの政変 悠々と準備を進めていたペリーだったが、そこにアメリカでの政変の知らせが届く。日本行きを命じたフィルモア大統領が失脚して日本行きを反対していたピアース大統領が就任していた。実は浦賀に着いた時には既に大統領は交代していたのだ。 この政変によっていつ帰還命令が出されるのか分からなくなったペリ..
ペリー再来と台場 嘉永7年1月16日(1854年2月8日)、ペリーが再びやって来た。今度は7隻(後に2隻増えて9隻となる )の艦隊をひきいていた。 今回も恫喝から入ろうとペリーは江戸湾内に侵入して神奈川の付近まで行く、ところがそこで品川に並ぶ建設中の台場を発見した。前回の来航から7ヶ月で台場を建設していることに驚愕したのだ。 江川太郎左衛門からすると春に来ると予告されていたペリーが予定より早く来たことにより台場が未完成であったのが悔やまれたであろうが、とにかく精神的な威嚇の役目は果たしたといえよう。 ペリーは礼砲を放つとそのまま江戸湾奥に停泊してしまう。
国境問題 日露の国境問題はこの会談から始まった。千島列島と樺太の領有権を双方とも争ったのだ。 この問題は結論が出ずに先送りされることになる。 通商・和親 プチャーチンはアメリカより先に条約を結びたかったが、川路の粘りにより今後に条約を結ぶときはロシアを優先するという言質をとるのみにいたる。 日プチャーチン長崎を去る 嘉永7年1月8日(1854年2月5日)、ロシア艦隊は長崎を出港する。
水戸藩の大砲 海防参与となった徳川斉昭は幕府にいくつかの意見書を出したりと精力的に幕政に関わっていた。 嘉永6年12月15日(1854年1月12日)には大砲74門を幕府に献上した。 軍艦つくりに着手 年が明けて嘉永7年1月2日(1854年1月30日)、水戸藩はいよいよ軍艦の建造を始める。
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