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京都市の西北端、正しくは京都市北区金閣寺町に、この寺はあります。西に衣笠山、背後に左大文字山をひかえた景勝の地で、京都市の北部に連なるなだらかな山なみは、北山(キタヤマ)の名で一般に親しまれていますが、この北山につながる金閣寺の周辺一帯だけを特に北山(ホクザン)と呼ぶことがあります。北山の名称は、遠く平安時代の初期まで遡りますが、当時もやはり大小二つの地域の意味があったようです。平安時代の中期以降、この地域には数多くの墓所が作られ、今も円融天皇の御陵をはじめ火葬所、陵墓、塚などが数多く残っています。現在、金閣寺の西に接する土地の字名を氷室(ヒムロ)と言いますが、これは昔、朝廷がこの地に氷の室(ムロ)を経営したためと考えられています。寒い冬の間に作られた氷を、この地に接する左大文字山などの山腹深く掘った穴に保存していたのです。その他に、この地域は、古くから寺院建立、狩猟などに適した土地と考えられていました。ただ金閣寺の寺域だけは、主として田や畠であったようで、所有主の神紙官伯家より西園寺公経(サイオンジキンツネ)の手に移り、ここに金閣寺の始まり西園寺と北山第(山荘)がはじめて築かれました。
<小松陣屋>の”城門”を巡るー陣屋ながらも多くの城門が移築されて残ります
<西条陣屋>の”城門”を巡るー紀州藩支藩で御家門の陣屋大手門と、中・広敷門も移築などで現存する
<丸亀城>の”城門”を巡るー”大手二の門”と”御殿表門”が重文で健在の城門
<高松城(後編)>の”城門”を巡るー旧大手口には旭門、桝形内には鉄格子が嵌る埋門が見られる
ぐっときた。
<高松城(前編)>の”城門”を巡るー重文”着見櫓”群に挟まれた”水手御門”、海水を取込む”水門”
<徳島城>の”城門”を巡るー戦前まで残っていたが戦火で焼失、その後復元された”鷲の門”
<山口城>の”城門”を巡るー第二次長州征伐、倒幕運動の軍事・政治拠点として活用されたお城
<萩城(後編)>の”城門”を巡るー堀内には多数の重臣屋敷門が見られタイムスリップができる
<萩城(中編)>の”城門”を巡るー藩校”明倫館”に残る藩校門と聖廟門、聚楽第→萩城経由の移築門
長野旅2日目② 松本市と言えば・・・
<萩城(前編)>の”城門”を巡るー現存城門はないが復元総門や移築された毛利家別邸門等が見られる
<長府陣屋・勝山御殿>の”城門”を巡るー長府陣屋城下に建つ毛利邸表門は城門では無いが立派な門構え
<清末陣屋>の”城門”を巡るー長州藩の孫藩の二重陣屋長屋門が民家に移築現存している
<岩国城・御土居>の”城門”を巡るー山上には模擬冠木門しかないが麓には多くの屋敷門が残る
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