日本史 注目記事ランキング

  • 更新時刻:17/06/22 22:30現在
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1位
しばやんさん

2位
ゆささん
  • 情報提供Once upon a time in 室町その2。 ゆさな日々ゆささんのプロフィール
  • 呉座勇一『応仁の乱』が売れているらしいですね。京都の人がよく「前の戦争」などとおっしゃる11年にもおよぶグダグダな大乱を約300ページというコンパクトな内容にまとめた新書です。室町時代って学校の授業とかでも地味な扱いをされがちですけど(わたしも全然詳しくないけど)たまに少し勉強すると想像以上の出来事や人々が出てきて手におえなくて頭が「えらいこっちゃ」ってなるのであまり手を付けてこなかったのですが、今

3位
住兵衛さん
4位 研修隊員さん
  • 情報提供探検270 弘法大師は見てござる 日本史探検隊研修隊員さんのプロフィール
  • 宗祖・空海(弘法大師/774-835年)が開創した真言密教の聖地に当たる寺院。 それが高野山真言宗総本山・金剛峯寺※1です。 また名古屋には、「尾張高野」とも称されるグループ寺院?八事山・興正寺※2・3があります。ところが漏れ聞くところによれば、つい最近のこと、この両寺の間には”対立”が生じていたそうです。しかもそれは教義解釈の論争という高尚?なものではなく、まっこと下世話な出来事を巡ってのお話だったという
5位 M・ITOさん
  • 情報提供原日本紀の復元006 推古天皇〈2〉実年代と事績 邪馬台国と日本書紀の界隈M・ITOさんのプロフィール
  • 推古天皇:豊御食炊屋姫天皇:33代天皇  推古天皇は、歴代天皇で最初の女性天皇であり、容姿端麗であったとされます。そして、推古天皇の治世には非常に重要な事績が多く見られます。 ●仏教の興隆を図り、法興寺を建立(推古4年)●冠位十二階の制定(推古11年)●十七条の憲法を発布(推古12年)●遣隋使の派遣(推古15年、16年など) *『隋書』では推古8年(600年)に最初の遣隋使を送ったとされる●天皇紀、
6位 勢蔵さん
  • 情報提供「荒城の月」 勢蔵の世界勢蔵さんのプロフィール
  •                           大分県竹田市・岡城址   「荒城の月」 日本人なら誰でも知っているという名曲ですね。私の大好きな曲です。  作詞・土井晩翠(1871−1952)、作曲・滝廉太郎(1879−1903)というのもよく知られていますね。落語会の色ものの演奏(我が会ではサックスホン・ハーモニカ・馬頭琴など)ではよく聞きます。1.春高楼の花の宴 めぐる盃影さして  千代の松が枝わけ出でし
7位 坂の上のヒゲおやじさん
  • 情報提供太平記を歩く。 その72 「白旗城跡」 兵庫県赤穂郡上郡町 坂の上のサインボード坂の上のヒゲおやじさんのプロフィール
  • 兵庫県の西の端にある白旗城を訪れました。ここは、播磨国守護の赤松氏の居城とされたところで、『太平記』によれば、東上する足利尊氏軍を迎え撃つ新田義貞軍約6万を、赤松則村(円心)がここ白旗城にて50日あまりの間足止めさせたと伝わります。この標高440m、比高390mの登山にチャレンジしました。 城跡への登山の手引は、上郡町のHPで懇切丁寧に紹介してくれていましたので、迷うことなく登れます。写...
8位 KYさん
  • 情報提供小野小町は男だった⑪ 深草少将は紀氏だった? 旅 free styleKYさんのプロフィール
  • 墨染寺小野小町は男だった⑩ 百夜通い 『深草少将・小野小町・惟喬親王に共通する九十九のイメージ』よりつづく〜①墨染寺京都市伏見区墨染町741に墨染寺がある。平安時代に藤原基経がなくなったとき、これを悲しんだ上野峯雄が『深草の 野辺の桜し こころあらば 今年ばかりは 墨染に咲け』と歌を詠んだ。墨染という地名はことにちなむという。墨染寺はこの歌に詠まれた墨染桜があることで知られる。墨染桜は花びらの中央
9位 坂の上のヒゲおやじさん
  • 情報提供太平記を歩く。 その71 「室山城跡」 兵庫県たつの市 坂の上のサインボード坂の上のヒゲおやじさんのプロフィール
  • ここでまた少し神戸市を離れて、たつの市にある「室山城跡」を訪れました。築城は播磨の守護大名・赤松則村(円心)といわれ、建武3年(1336年)に足利尊氏が九州に敗走する途中、西下して来る新田義貞の追討軍を阻止すべく、防衛拠点とした城といわれています。円心は、長男の赤松範資を室山城の守りにつけますが、新田義貞軍によって落城。その後、範資は円心の白旗城に逃れます。 室山城は兵庫県たつの市の南西...
10位 羽柴茶々さん
  • 情報提供長尾為景が上杉顕定に勝利〜長森原の戦い 今日は何の日?徒然日記羽柴茶々さんのプロフィール
  • 永正七年(1510年)6月20日、越後守護代の長尾為景が、関東管領の上杉顕定を死においやった長森原の戦いがありました。・・・・・・・・・・永正四年(1507年)、越後(えちご=新潟県)の守護(しゅご=現在の県知事みたいな)を務めていた上杉房能(ふさよし)に対し、守護代(守護の補佐役)の長尾為景(ながおためかげ=越後長尾家)が、房能の養子の上杉定実(さだざね)を次期守護に掲げて反旗をひるがえし、房能を死に追い
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11位 しべ桜の興味津々さん
  • 情報提供戦国末期の名将、甲斐宗運は菊池氏の子孫である しべ桜の興味津々しべ桜の興味津々さんのプロフィール
  • 1551年、大友宗麟が肥後守護となって以来、菊池家三家老のうち 赤星氏が隈府城に入り、城氏は隈本城に行き、隈部氏は山鹿の永野城 を居城としました。 大友宗麟の配下としての統治です。 しかし、その間、隈部氏と赤星氏は互いの勢力を大きくしようと 争うようになったのです。 両氏の祖先は菊池家のために団結して戦い、一族を守ったのに 時代がそうさせたとは言え、寂しい顛末です。 隈部氏は戦いには勝ったものの、
12位 武装梅痴鴉さん
  • 情報提供歴史ファンに対する愚問 「尊王筋肉戦線」武装梅痴鴉さんのプロフィール
  • 昨今の歴史本のくだらなさには閉口する。「美しい國日本」と称えた本ほど碌でもない本ばかりである。読む気も失せます。特に「近年は一次資料だ、二次資料だと騒ぎ立て、一次資料というだけで無条件に信じ込む単純さが幅を利かせている」といったた意見が散見されまするが、要するに自らの学力・歴史に対する知識不足を自ら暴露しており、こういった陰謀論を述べればこそ、江戸仕草といった陰謀論がまかり通ります。残念ながら幕末
13位 M・ITOさん
  • 情報提供邪馬台国・卑弥呼の墓はどこにある?〈熊本行3〉 邪馬台国と日本書紀の界隈M・ITOさんのプロフィール
  •  以前の記事で、熊本に行った目的の一つに「卑弥呼の墓が作られたであろうと思われる場所を見つけること」があると書きました。  私は『邪馬台国は熊本にあった!』の中で、卑弥呼の墓は山陵や山頂を整形した直径25メートル程度の円墳であると考え、「邪馬台国である熊本平野を見渡すことのできる山上に直径二五メートルの円墳が築かれ、都の人々は常にそれを仰ぎ見、時には山を登って祭祀を行ったのではないだろうか」と幻想
14位 KYさん
  • 情報提供小野小町は男だった⑫ あなめ小町『小野小町は髑髏本尊だった?』 旅 free styleKYさんのプロフィール
  • 小野小町は男だった⑪ 深草少将は紀氏だった?より つづく〜①後白河法皇と小町に伝わる髑髏伝説上は歌川豊春が描いた『通し矢』の様子です。ウィキペディア(https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Toshi-ya_00.jpg?uselang=ja) よりお借りしました。三十三間堂は後白河法皇の離宮・法住寺殿の一画に建てられた仏堂で、江戸時代にはその前でさかんに『通し矢』が行われた。三十三間堂は南北に細長い(約121m)建物で
15位 住兵衛さん
  • 情報提供日本史の「お国自慢」16 弘法サン”あゆち”に参上! ヤジ馬の日本史住兵衛さんのプロフィール
  • 筆者の生息地は、昔は「尾張国」、現在は「愛知県」と呼ばれています。 そこでヒョッコリ思い出したのが、とある「愛知県人」が宣(のたま)わっていた、こんな御高説です。〜ええか、よく聞け。 日本語「哲学」の語源はラテン語の“philosophia”だ。  これは“philo”が愛を、“sophia”が智恵を意味しているからして、要するに  「愛プラス知」で「愛知」なのだ!   つまり、「愛知県民」とは「哲学者」集団ということに
16位 しべ桜の興味津々さん
  • 情報提供菊池氏の家臣は何故主君を守れないのか! しべ桜の興味津々しべ桜の興味津々さんのプロフィール
  • 菊池能運が負傷死したのち、遺言により、菊池政朝が家督を継ぎます。 父重安は、能運と共に玉祥寺原で戦い亡くなっています。 祖父為安は二十代為邦の弟でやはり戦死しています。 当主になり政隆と改名しました。 十四歳で肥後守護職に就きます。 そこを阿蘇大宮司惟長が狙っていました。 豊後の大友氏が扇動したと言われています。 菊池の家臣たちを、またもや巧みに取り込んだのでした。 当主は愚かで、将としての器量が
17位 おもんさん
  • 情報提供桶狭間の真実 戦場は二つだった 徒然日本史おもんさんのプロフィール
  • 織田信長が東海一の弓取りと言われた今川義元を破った桶狭間の戦いは非常に有名な合戦だと思います。圧倒的な勢力差を誇る今川軍に対して圧倒的不利な状況で信長は立ち向かい、それを破ったわけですから、日本人の気質として好きな状況でもあるので、歴史に疎い人でも名前くらい知っている聞いたことがあるというのはある意味当然なのかもしれませんね。ちなみに桶狭間とは広いエリアを指す名前で、実際に義元がいて、一番激しい戦
18位 しべ桜の興味津々さん
  • 情報提供菊池領のその後、貴方だけにそっとお話します しべ桜の興味津々しべ桜の興味津々さんのプロフィール
  • 菊池氏は1520年に本領を大友氏に奪われ二度と戻れませんでした。 大友当主義鑑の弟重治が、菊池義武と名乗り、肥後守護になった のです。 しかしこの義武、その振る舞いすこぶる悪く、わがままだった ようで、度々忠告をしていた近臣を手打ちにしてしまったのです。 思い出しませんか?似たような事がありましたよね。 以前、阿蘇氏から来た惟長のことです。 若い惣領菊池政隆を安国寺で自刃させたうえ、素行の悪さから
19位 黒田裕樹さん
  • 情報提供聖徳太子がもたらした「対等外交」 その9 黒田裕樹の歴史講座黒田裕樹さんのプロフィール
  • この国書が意味することは非常に重要です。つまり、終始ぶれることなく対等外交を進めた聖徳太子のように、国の支配者が相手国に対して、主張すべきことは主張する態度を堂々と貫けば、たとえ世界の超大国を自負する隋であっても、まともに応じてくれることを示しているのです。一方、隋からの激しい攻撃をはね返しながらも朝貢外交を続けた高句麗に対して、隋は「いつでもお前の首をすげかえられるが、皇帝たる自分にそのような面
20位 市郎右衛門さん
  • 情報提供日本最古の「前方後円墳」はこれだ〜!纒向古墳群 『纒向石塚古墳』 「高天原の縁側日記」市郎右衛門さんのプロフィール
  • そろそろ皆さんが?古墳も見たいな〜と思って下さるのではないかと思い(笑)、今日御紹介しますのは、『纒向石塚古墳(まきむくいしづかこふん)』です。奈良県桜井市にある、纒向古墳群に属する古墳です。纏向遺跡内では最古の古墳の可能性があります。つまり日本一古い前方後円墳かもしれませんね。(何処に行こうか迷いますよね〜全部行きますけどね。笑)纒向遺跡が発見されたことも相まって、前方後円墳成立期の古墳として注
21位 おもんさん
  • 情報提供長篠の真実 三段撃ちの信憑性? 徒然日本史おもんさんのプロフィール
  • 織田信長、長篠の戦と言えば、出てくるキーワードは「鉄砲三段撃ち」しかないでしょう。実際、この合戦は武田氏を旧体制、織田徳川氏を新体制とし、合戦の変貌を表すものとして描かれることが多いようです。つまり近代戦の契機としての信長の存在を知らしめた奇策として、斬新性と先見性を表す格好の合戦として喧伝されているといったところでしょうか。しかし、この三段撃ちという戦術ですが、“実は存在しなかったのでは?”とい
22位 sisiさん
23位 羽柴茶々さん
  • 情報提供上杉謙信VS加賀越中一向一揆〜日宮城攻防戦 今日は何の日?徒然日記羽柴茶々さんのプロフィール
  • 元亀三年(1572年)6月15日、上杉配下の鰺坂長実&山本寺定長らが越中・加賀一向一揆と呉羽山にて交戦して敗れ、日宮城が開城されました。・・・・・・・・・・これまでも、何度かご紹介しています戦国期の越中(えっちゅう=富山県)争奪戦・・・射水(いみず=富山県射水市)や婦負(ねい=富山県富山市、主に神通川西部)を中心に勢力を持つ増山城(ますやまじょう=富山県砺波市)の神保長職(じんぼうながもと)、や新川(に
24位 歴史男さん
  • 情報提供恐怖政治の終焉 歴史の宝庫、米沢の街を歩く歴史男さんのプロフィール
  • 昭和19年、太平洋戦争は日本の敗色が濃厚になってきたが、時の首相、東条英樹陸軍大将はまだ強気だった。彼は国内世論を憲兵政治で抑圧していた。憲兵とは元来、軍人を取り締まる軍隊の警察であるが、東条大将は国内の治安維持のための私兵に使っていた。一般国民が、反戦的言動をすれば、すぐに憲兵隊に拘束され、拷問をうけた。国会議員でさえも、私的会話で内閣を批判したことが憲兵に知られて、逮捕される有様であった。国民
25位 鎌倉殿さん
  • 情報提供異国降伏祈禱 教科書の歴史はウソばかり!?北条氏末裔の憂鬱鎌倉殿さんのプロフィール
  • 異国降伏祈禱―神々の軍事動員 武士や民衆は、恩賞を求めて幕府の指揮下、戦闘に参加した。国土と朝廷を護るという意識は後から説明されたもので、その時点では希薄であったであろう。実は、神の戦争を行った神々の場合もまた、事情は全く同様であった。 菅原道真の北野天神が、祈禱をしてくれなければ闘わないと言ったように、神々を戦場に動員する手続きは、諸寺社の神官・僧侶集団による加持祈禱であった。蒙古襲来の期間中、
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26位 てんてんさん
  • 情報提供多利思北孤 てんてんの記てんてんさんのプロフィール
  • はじめての古代史 14本日は古田武彦氏の古代史コレクション2「失われた九州王朝」である。古田氏に関する著作は三冊目になるので、もう前置きはなしに、いつものように読んでいて、「ほー」、「なるほどね」と思ったことを書きつづることに。まず、氏に九州王朝の存在を意識させたものは、次のようなものからのようだ①隋書俀国伝に「阿蘇山あり。…火起りて天に接す、云々」の一文に接し、「この天子は九州にいた」と思った。②奈良の「正
27位 黒田裕樹さん
  • 情報提供聖徳太子がもたらした「対等外交」 その6 黒田裕樹の歴史講座黒田裕樹さんのプロフィール
  • 当時の隋は、高句麗との戦いによる出費で国力が低下していたのみならず、煬帝の圧政による政情不安もあり、国内が決して安定した状態ではなかったのです。さらに、我が国が島国であることから、攻めようとすれば無数の大きな船が必要になるなど、多額の出費がかさむことも十分予測できました。そんな状況のなかで、無理をして我が国へ攻め込んでもし失敗すれば、国家の存亡にかかわるダメージを与えかねないことが煬帝をためらわせ
28位 歴史風味さん
更新時刻:17/06/22 22:30現在